あ |
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・アイアイ |
サル目曲鼻猿亜目(霊長類原猿亜目)アイアイア科アイアイ属アイアイ。一科一属一種である。マダガスカル島北部に棲息するマダガスカル固有種である。
有名な童謡の影響で日本ではかわいいサルというイメージが定着しているが、夜行性の生態、大きな目と耳、異様に細長い中指(手)などの不気味な姿から現地では不吉な動物とされている。
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・藍染め |
藍(インディゴ)は人類最古の染料の一つであり、はるか昔から世界各地で様々な藍染めが行なわれてきた。アフリカでも西アフリカを中心に広く行なわれている。
マメ科植物の葉などを発酵させてつくった藍染料を使い絞り染め、ろうけつ染め、絣織りなどの技法を用いて布に様々な模様を描く。藍染めは西アフリカのほとんどの国でつくられているが中でもナイジェリアのハウサとヨルバの藍染めは有名である。
サハラの遊牧民トゥアレグはハウサのつくる色の濃い藍染め布を好んで身に着けるため「サハラの青い民」の異名を持つ。
アフリカの染め布>>
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・アイール山地 |
ニジェール北部の中心都市アガデスの北に広がる砂漠気候の山岳地帯。アイールの北にはアルジェリアのホガール山地が広がり、東には世界で最も乾燥した土地の一つといわれるテネレ沙漠が横たわる。
ハウサ語でアズベン山地とも呼ばれ、南北400km、東西100〜200kmにわたり面積はおよそ6.1万ku。火成岩からなる岩山と砂利砂漠で構成され、谷筋のワジ(涸れ川)沿いに点在するオアシスでは農業(ナツメヤシ、トマト、たまねぎ等)が営まれている。降水量、地下水脈は比較的豊富で現地の言葉で「水の町」といわれている(あくまでサハラ基準。日本人の感覚ではからっからに乾ききった土地にしか見えない)。現在も遊牧生活を送るトゥアレグが数多く住むニジェールトゥアレグの本拠地である。
現在は沙漠の真っ只中にあるこの山地も、数千年前「緑のサハラ」と呼ばれる時代には、緑に覆われた土地であり、古くから人類の活動の舞台であった。山地の各地には数千年〜数百年前に描かれた壁画や刻画の遺跡が点在している(→サハラの岩面画)。
7Cに始まるアラブの北アフリカ侵入の結果フェザーン(現リビア領)、ホガール(現アルジェリア領)のトゥアレグが11C頃に南下しアイールに侵入。先住のハウサ人を追い出しこの地域の支配権を得た。幾多の氏族間抗争を経た後(抗争に破れさらに南の地に移住した氏族もある)、アガデスのアメノカル(トゥアレグのスルタン位)の権威に従うようになった。
16C〜18Cにはいくつものトランスサハラ交易ルートの交錯する地としてアイールの地政学上の重要度は上がり、東西スーダンの大国、ボルヌー帝国とソンガイ帝国の支配下に入ったこともあった(現在もアガデスはニジェール-リビアルート、ニジェール-アルジェリアルートの発着地として重要な地位を占めている)。
現在のアイールに住むトゥアレグは主にkel-Ayr,Kel-Owey,Kel-Tamat,Kel-Ferouaneなどであり、アガデスのアメノカルに従う人々、という意味でKel-Amenokalと呼ばれることもある。
火山性の山地(現在は死火山)なのでアガデスの北北東80kmのタファデクというオアシスには温泉が湧き、ニジェール各地はおろか近隣諸国からも湯治客が訪れる。
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・アウダ
ゴースト |
現モーリタニア南部にあった交易都市。5C頃に建設されたと考えられている。サハラ縦断交易(西ルート)の南の中心地として繁栄したが、乾燥化が進むにつれ徐々に交易都市としての地位をワラタに奪われていった。
13Cにマリ帝国の支配下に入った頃にはサハラ縦断交易の南の拠点はワラタへと移っていた。その後没落を続けたアウダゴーストは17C頃に遺棄され、現在その遺跡は世界遺産に登録されている。
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・アウーラ
=ポク |
アブラ=ポクとも。アシャンティ王国の王女であり、バウレ民族の祖。18C初頭にアシャンティ王国の建国者オセイ=トゥトゥ一世の姪として生まれたが、叔父の死後におこった後継者争いに巻き込まれ、一族郎党を引き連れて現コートジボアール中部地方(ブアケ周辺)へ亡命・移住した。
ポク王女に率いられたアカン人の一派はやがてバウレと呼ばれるようになり、アウーラ=ポクの後継者アクワ=ポニ女王のもとでバウレ王国とも呼ぶべき王国を形成したが、ポニ女王の死後内紛が起き分裂。その後はバウレとしての統一を果たすことはなかった。
アシャンティ王国から亡命する際、川に行く手を阻まれ、後ろからは追っ手が迫ってくるという危機に、ポクが一人息子を川の神に生贄として捧げ、一族が無事河を渡り、追っ手を振り切ったという伝説が残っている。
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・青ナイル |
世界最長の大河ナイル河を形成する2つの主流のうちの短いほうのひとつ。エチオピア北部のタナ湖に源を発し、一度南へ流れた後西回りで円弧を描き北上、スーダン共和国の首都カルトゥームで白ナイルと合流しナイル河本流を形成する。
全長約1500kmと白ナイルよりも短いが合流時の水量は白ナイルより大きい。青ナイルの名は増水期に増えた河の水が青黒く見えることに由来する。
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・アガジャ |
第五代ダホメー王国国王。在位1708〜1732(1740?)。第四代国王アカバの死後、アカバの嫡子サッサが幼少であったために弟のアガジャが第五代国王として即位し、成長した甥のサッサが王位を要求するとこれを追放した。
24(32)年間のアガジャの治世の後半は沿岸部諸国への征服戦争、東方の大国でありダホメーの宗主国であったオヨとの戦いが繰り返された。1725年頃から沿岸諸国への侵攻を始めたアガジャは同年グレートアルドラーを占領、1727年にはウィダを、1732年にはジャキンを征服した。
当時の東ギニア屈指の大国であったオヨとの戦争には敗れ朝貢を続けざるを得なかったものの、沿岸部諸国を征服したことにより、それまで内陸にあり港を持たなかったダホメー王国はヨーロッパ人と直接交易ができるようになり、その後のダホメーの繁栄の基礎を築いた。後継者はテグベソゥ。
ヨーロッパ人との直接交易の道を開いた事績にちなみアガジャ王の紋章にはヨーロッパ船が用いられている。ダホメー王国歴代王の紋章を見る>>
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・アガデス |
ニジェール北部アイール山地の南端に位置するニジェール北部の中心都市。古くからサハラ縦断交易の要衝として栄えてきた。現在も北のアルジェリアへ向かう道、東のテネレ沙漠を越えリビアへと向かう道などが交わる交通の要衝である。
アガデスは13C頃に建設されたと考えられ、サハラ縦断交易の重要な拠点として発展してきたが、交易の利権をめぐり東西の大国カネム=ボルヌー帝国やソンガイ帝国の支配下に置かれこともあった。
北方に広がるアイール山地はニジェールのトゥアレグの本拠地であるが、アイール近辺のトゥアレグ全体の首長が、アガデスのアメノカル(トゥアレグのスルタン位のようなもの)である。
アガデスのトゥアレグのシンボルであるアガデスクロスは、数あるトゥアレグクロスの中でも最も知られていて、その形をモチーフにした意匠はニジェールの建物やモニュメントなど様々な場所で使用されている。
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・アカバ |
第五代ダホメー王国国王。在位1685〜1708。軍備の強化を進め領土を拡張した。
伝承によればアカバが近隣のダンという王国(もしくは王)を攻め滅ぼした際、ダン王の死体の腹から木が生えてきた(もしくは死体の腹に木の種を植え付けた)。以後アボメー王国はこの故事にちなんでDan
Xome(ダン・コメ:ダンの腹という意味)、さらに転じてダホメーと呼ばれるようになった(これは第三代ウェグバジャ王の事績とする説もあり)。
またこの伝承には異説もあり、それによれば、人質としてダホメーに抑留されていたダンという男が王太子時代のアカバを暗殺しようとし落とし穴を掘ったが、アカバの代わりに飼い犬が落ちて失敗した。怒り狂ったアカバはダンを殺しその死体の(腹の)上に自らの宮殿を建てたといわれている。
アカバの紋章はイノシシ(もしくはカメレオン)と剣である。
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・アカン |
ニジェール-コルドファン語族クワ語派に属するアカン系言語を話す諸民族の総称。主にガーナ中部南部,コートジボワール中部に住む民族が多い。ガーナでは人口の約4割がアカン系民族であると推定される。アカン系民族のうち人口が多いのがアシャンティ、ファンティ、バウレなど。他にもアオウィン、アヴァティム、アキム、アグニ、アクワム、アクワペム、アジュクル、アシン、アティエ、アディジ、アニー、アハフォ、アハンタ、アビカム、アブレ、アブロン、アベ、アラジャン、エブリエ、エホティレ、エバルウェ、クワウ、セフウィ、チャコシ、デンキイラ、ムバト、ヤウレ、ワッサ、ンゼマなど多数の民族が含まれ、総人口は4000万人に上ると見られている。
また、奴隷貿易によってアメリカ大陸やカリブ海に連れ去られたアカン系民族によってアカン系文化が同地域にもたらされ現在まで伝えられているものもある(アカン系民話のトリックスター・クモのアナンシなどが代表的)。
アカン系諸民族は中世以降、中部ギニアの金産地を掌握し、いくつもの王国を建てた(アシャンティ王国、アクワム、デンキイラ、アキムなど)。彼らの祖先は北からやって来た古代ガーナ王国の末裔との伝説を持っているため、アカン系民族が多数を占める旧イギリス領黄金海岸の独立時にガーナ共和国との国名が採用された。
アカン系民族特集を見る>>
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・アキム |
主にガーナ共和国南部に居住するアカン系民族。かつて同地域に王国を建設し、デンキイラと同盟(もしくは従属)し、西のアクワム、東のアサンテに対抗していた。アサンテ人の王国が興隆すると、それに押されたアキムはアクワムに転進、アクワムを滅ぼし、そこに移住した。
アキムはその後アシャンティ王国に対し激しく抵抗したものの、18C半ばには併合された(アシャンティ対アキムの戦いの中でアシャンティ王:初代アサンテヘナ・オセイ=トゥトゥ一世が戦死したとの言い伝えもある)。
アキム王国は現在もガーナ共和国内で儀礼的存在として存続している。
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・アクスム王国 |
現エチオピア北部アクスムを首都として、紅海をはさんでアラビア半島南部のイエメンも領有しアフリカ・アジアの両大陸にわたって栄えた古代王国。紀元前後に建国されたと考えられているが、伝説によればシバの女王とソロモン王の間に生まれたメネリク一世が建国の祖と伝えられている。
アフリカの角と呼ばれる、今日でも地政学上非常に重要な位置にあったアクスム王国は、内陸交易・海上(紅海)交易によって繁栄したが、イスラム帝国勃興後、制海権を奪われ衰退、滅亡した(10C頃)。
アクスム王国は4C半ばに現スーダン領にあったクシュ(メロエ)王国を滅ぼした。そのときのアクスム王エザナはキリスト教を国教として受容、エチオピアは世界最古のキリスト教国のひとつとなり、その伝統は現在のエチオピア正教会に受け継がれている。
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・アグニ |
アンイーとも。コートジボワール南東部からガーナ共和国南西部にかけての地域を主な居住地とするアカン系民族。コートジボワール中部のアカン系民族バウレの祖先たちがアシャンティ王国から移住する際に、現居住地域に残った者達がアグニの祖先となったと言われている。
インデネ、サンウィ、モロヌーなど独自の小王国を作った。
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・アクワバ |
ガーナのアシャンティ民族の女性の持つ人形の名前であり、マリのチワラと並んでおそらくアフリカ彫刻の中で最も名を知られているもののひとつである。
円盤状の頭は月と女性性(月の満ち欠けと月経周期の関係から世界中の多くの文化圏で月と女性は結び着けて考えられてきた。)を象徴するといわれ、アシャンティの女性は少女の頃からこの人形を身に着け、多産、豊穣、子孫繁栄などを願うといわれている。
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・アクワム |
1650年頃〜1730年頃。にかけて現ガーナ共和国南東部にあったアカン系の王国。最盛期にはガーナ南東部、トーゴ、ベナン沿岸部を支配する中央ギニアの強国であったが、西のアキムとの戦いに敗れ滅亡した。
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・アザライ |
狭義にはマリはトンブクトゥの北750kmに位置するタウデニ鉱山の岩塩を、サハラを越えてトンブクトゥまで運ぶラクダのキャラバンを意味するが、広義にはモーリタニアやニジェールなど隣国の塩のラクダキャラバンも意味する。さらに広く同地域のラクダキャラバン一般を意味して使われることもある(アラビア語由来かタマシェク-トゥアレグの言語-由来の言葉かは諸説あるが)。
サハラの塩(岩塩)とサバンナ地帯、さらに南の森林地帯で豊富に取れる金とを交換する塩金貿易の歴史は古代ガーナ王国(8C頃〜)の昔にまでさかのぼる。海岸から遠く塩の入手が困難な西アフリカ内陸地帯にあっては塩は時に等重量の金と交換されるほどの貴重品であった。→サハラ縦断交易
現在でも暑さの幾分和らぐ10月〜3月くらいまでトンブクトゥとタウデニの間をラクダのキャラバンが行き来して岩塩を運んでいる。片道750q、道の途中ではタネズルフトと呼ばれるサハラでも最も過酷といわれる地域を越え、約40日かけて往復するその道のりは非常に過酷なものである。しかしその過酷な道のりを経てサハラ奥地から運ばれてきた岩塩はマリの人々に好まれ続け、海塩の入手が容易になった現代においてもマリではタウデニの岩塩には特権的な地位が与えられている。
サハラの南と北、サハラ以南のアフリカとアラブ世界、さらにはヨーロッパとを結び付けてきたラクダキャラバン「アザライ」。当店「アフリカ雑貨アザライ」の名はこのラクダキャラバンにちなみ、アフリカと日本を結びつける「アザライ」を目指すとの思いを込めて名付けられました。
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・アッサル湖 |
アフリカの角・ジブティ中部、アファール盆地にある塩湖。アッサル湖の水面は海抜下153mにありアフリカ大陸で最も標高の低い地点である。非常に塩分の濃い湖(世界一の塩分濃度を持つ。海水が地下を通って湧き出てくるため)であり湖畔には結晶した塩が堆積している。アッサル湖の塩は、塩の結晶が風や波で転がり、角が取れて直径5mmほどのきれいな球状になっている。
ここで採られた塩はアファールのラクダキャラバンで運ばれ近隣諸国にも売られていく。
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・アザンデ |
コンゴ民主共和国北東部、スーダン共和国南西部、中央アフリカ共和国南西部に居住する農耕民族(漁労、狩猟もおこなう)。ザンデと呼ばれることもある(単数形)。多くの氏族に分かれ対立していたが17C末にアザンデ王国として統一された。
アザンデの作る手足のついた楽器(ハープ、親指ピアノなど:楽器の共鳴器部分を人の胴体に見立て、木製の手足、頭などをつけたもの)はアフリカ美術の写真集に必ず載るといっていいほど有名である。
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・アジャ |
主にベナン・トーゴ南部に居住する民族。ニジェール=コンゴ語派の言語を持つ。、ベナンでは2番目に大きい人口を持つ民族でもある。12,3Cに同地域に移住してきて、その後グレートアルドラー、ポルトノボなどの都市国家を築いた(一説によればダホメー王国を築いたフォンもアジャに起源を持つとも言われている)。
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・アシャンティ |
ガーナで最大の人口を持つ民族。主にガーナ中部が居住地域でありアカン系言語を話す。アサンテとも呼ばれる。
8C〜11Cにかけて現モーリタニアに栄えた古代ガーナ王国の末裔との伝説を持っている。17C中頃までは周辺の強国デンキイラやアクワムに貢納するいくつもの弱小国家に分かれていたが、17C末ガーナ中部クマシの王オセイ=トゥトゥがアシャンティの小国家群を統一して(統一の結果アシャンティ民族というアイデンティティが形成されたともいえる)、クマシに首都を置くアシャンティ連合王国をつくった。
連合内の各王国の王はそれぞれの国、氏族を象徴する床几を持ち、連合国王は黄金で飾られた床几を持っていた。その黄金の床几はアシャンティ民族全体の象徴とされ現在まで受け継がれている。
この王国は19世紀末から20世紀初頭の数十年にわたり英国の植民地化に対して激しい抵抗を繰り広げた。アシャンティ王国は現在まで続いていて王国の首都クマシの王宮には廷臣に囲まれて国王(世俗権は無い)が住んでいる。
工芸技術にも優れアクワバ人形、ケンテ布、アディンクラ布、豊富に取れる金を使った金細工などやアシャンティ独自の様々な紋章を施した工芸品を作ることでも知られている。中でもケンテ布はアフリカの布の中で最高の評価を受けている。
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・アシャンティ
王国 |
17世紀末現ガーナ共和国中部クマシの王オセイ=トゥトゥが高僧オコムフォ=アノキエの協力により、それまで弱小であり、近隣の強国デンキイラやアクワムに貢納していた周辺のアシャンティ民族の小国家群を統一して(統一の結果アシャンティ民族というアイデンティティが形成されたともいえる)、クマシに首都を置くアシャンティ(連合)王国をつくった。
連合内の各王国の王はそれぞれの国、氏族を象徴する床几を持ち、連合国王は天から降りてきたという伝承を持つ黄金で飾られた床几を持っていた。この黄金の床几はアシャンティ民族全体の象徴とされ神聖視され現在まで受け継がれている。
アシャンティの統一を果たしたオセイ=トゥトゥは1701年にデンキイラを打ち破った。続くアキムとの戦いで戦死したが彼の後継者たちは18C半ばにアキムを破り、北方ではゴンジャ、ボンドゥクなどを朝貢国とし、アシャンティ王国は現ガーナのほぼ全域および周辺国の一部を支配する強大な国家となった(オセイ=トゥトゥ一世の死後に起きた後継者争いに巻き込まれ亡命した姪がバウレ民族の祖となった)。
領内で取れる金の交易を中心として栄えたアシャンティ王国は、19世紀末から20世紀初頭の数十年にわたり英国の植民地化に対して激しい抵抗を繰り広げるも1901年についにイギリスの植民地となった。
イギリスの総督がアシャンティの象徴・黄金の床几を要求したことから起こった最後のアシャンティの抵抗戦は激烈を極め、イギリス軍はあわや全滅というところまで追い詰められた。この抵抗戦を率いた王太后ヤア=アサンテワアは民族の英雄として今も人々の間で語り継がれている。
アシャンティ王国は現在まで続いていて王国の首都クマシの王宮には廷臣に囲まれて国王が住み、多くの人の敬意を集めている。
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・アスキア=
ムハンマド |
1442年〜1538年。在位1492年〜1528年。ソンガイ帝国の簒奪者にしてサハラ以南のアフリカ史上最も広大な版図を統べた王。本名ムハンマド=トゥーレ。アスキアとはソンガイ帝国の将軍の称号である。
ソンガイ帝国支配下のソニンケ地方の領主でありソンガイの将軍であったムハンマド=トゥーレは帝国の創始者スンニ=アリの死後、後を継いだスンニ=バルに対し反乱を起こし王位を簒奪した(これ以後のソンガイ帝国をアスキア王朝と呼ぶこともある)。
ソンガイ帝国の皇帝に即位後ムハンマドはスンニ=アリの拡大路線を引き継ぎ領土を拡大。最盛期には、西はマリ帝国の旧領のほぼ全て、東はカネム=ボルヌー帝国と国境を接し、南のハウサ諸国を支配下に置き、北はアイール山地、タガザの塩鉱(→サハラの岩塩)などサハラの中央部に及ぶ広大な領域を支配した。
敬虔なムスリムであったムハンマドはメッカ巡礼時に西スーダンのカリフに任命された。彼は軍事指導者として有能であっただけでなく、政治家としても有能であり強力な中央政府機構を整備し彼の治下内政は充実していたという。
晩年盲目となったムハンマドは1528年に長男のムサに帝位を追われ失意の晩年をすごした挙句1538年に没した。アスキア大帝の墳墓でもあるガオの大モスクは現在世界遺産に登録されている。
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・アタコラ山地 |
トーゴ北部を中心にガーナ北東部、ベナン北西部にかけて広がる山岳地帯。トーゴ山地とも呼ばれる。険しい山岳地帯であるため、戦乱や奴隷狩りを逃れてきた民族の棲家となっていた(ベタマリベなど)。
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・アダマワ-
ウバンギ語派 |
アフリカの言語群のひとつでありニジェール-コルドファン語族に含まれる一語派。アダマワ・東部語派とも呼ばれる。100以上の言語が含まれているがそのほとんどが少ない母語話者人口しか持たない。
西アフリカ東部から中部アフリカ北部(ナイジェリア、カメルーン、チャド、中央アフリカ共和国、ガボン、コンゴ共和国・コンゴ民主共和国、スーダン共和国)にかけて分布し、アダマワ語群(上記の地域の西部に分布。ムムイェ語、ムブン語等)、ウバンギ語群(上記地域の東部に分布。ザンデ語、バンダ語など。中ア共和国で話されているクレオール言語:サンゴ語はこの語群に含まれるンガンディ語がベースとなっている)に下位分類される。
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・アダマワ王国 |
アダマワ首長国とも。19C初頭に現カメルーン-ナイジェリア国境地帯のアダマワ高原に建国されたフルベのジハード国家。ウスマン=ダン=フォディオによるソコト帝国建設とその拡張に伴いソコト帝国外縁部にいくつもの衛星国が生まれたがそのひとつがアダマワ王国であった。
ウスマン=ダン=フォディオ麾下の武将の一人モディボ=アダマによって建国されたアダマワ王国は19C末〜20C初頭の時代にフランスとドイツによって分割され消滅した。
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・アダマワ高原 |
カメルーン北西部からナイジェリア東部にかけて広がる高原地帯。平均標高は約1000m。ベヌエ川、シャリ川などの源流でもある。
19C初頭にウスマン=ダン=フォディオ麾下の武将の一人モディボ=アダマが同地域にアダマワ王国(首長国)を建国した。アダマワ高原の名はこのアダマに由来する。
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・アダンドザン |
第九代ダホメー王国国王。在位1797〜1818。あまりの暴君であった(とされる)ためにダホメーの歴史では王に数えられないことが多く(次代の王ゲゾが九代目として数えられることが多い)、歴史に語られることも少ない。
兄弟であるゲゾのクーデターにより王位を失った(アダンドザンの暴政の記録は、ゲゾのクーデターを正当化するために捏造もしくは誇張された歴史であるとも言われている)。
アダンドザンの紋章はバブーン(サルの一種)、膨れ上がった胃袋、口、トウモロコシを握った手、日傘などであるが、ダホメーの歴代の王の紋章を描いたアップリケなどにも彼の紋章は登場しない。
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・アチェケ |
マニオク(キャッサバ)からつくったクスクス状の食品(クスクスに比べるとやや黄色く、歯応えもモチモチしている)。コートジボアールでは国民食といっていいくらい広く食べられているほかブルキナファソ、マリなどの周辺国でも食べられている。
収穫したキャッサバ(マニオク)の皮をむき何度も水にさらして毒を抜いた後(コートジボアールで栽培されているのはほとんどが有毒マニオク)、粉にして古いアチェケ(発酵菌がたくさん繁殖している)を混ぜて発酵を促し、小さな粒上に加工したのち蒸して食べる。
揚げ魚、唐辛子ペースト、たまねぎ、トマト、塩、パーム油などをかけて食べるのが一般的な非常にシンプルな料理だが独特の酸味があって病み付きになる。
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・アチョリ |
ウガンダ北部からスーダン共和国南部(現南スーダン共和国)にかけての地域を主なテリトリーとする牧畜民族。西ナイル語系の言語を持つ。ケニア・タンザニアに居住するルオとは同じ系統の民族であり、現スーダン共和国南部から南方へと移住した際に(16〜17C?)、西へ進み現在の居住地に至ったものがアチョリの、東からさらに南進したものがルオの祖先となったと考えられている。19C半ば頃には50を超える数の小規模な首長国を形成した。
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・アティエ
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またはアキイェとも。コートジボワール南東部からガーナ南西部を主な居住地とするアカン系民族。アティエの彫刻には近隣のバウレの影響が顕著に見られる。
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・アディンクラ |
アシャンティのつくる型押しプリントの布。赤、褐色系の色で下染めした木綿布をいくつかの升目に区切り、ひょうたんを削って作った型を使って様々な幾何学文様をプリントしたもの。
アシャンティは様々な意味を表す多くの文様を持つことで知られているが、アディンクラに捺印されたの文様もそれぞれ特定の呪術的、寓話的を意味を持つ。
アディンクラはかつては宮廷において儀礼的衣装として用いられていた。現在では一般人も着用するが普通日常着にすることは無く、儀式、葬式などの儀礼的な場においてのみ着用する。
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・アデン湾 |
アラビア半島(イエメン)とアフリカの角北岸(ソマリア・ジブティ)に囲まれたインド洋(アラビア海)の湾。バーブ=アル・マンデブ海峡によって紅海とつながっている。はるか昔、インド洋交易が始まったころからインド洋(アラビア海)と紅海・地中海世界を結ぶ海路の要衝であった。
近年は世界最悪の海賊多発海域としても知られている。
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・アトバラ川 |
ナイル河の支流のひとつ。エチオピア北部ラス=ダシャン山付近に源を発し北上。スーダン北部の町アトバラ付近でナイル河本流と合流する全長約800kmの河。
雨季と乾季での水量差が激しく、減水期には申し訳程度しか流れていない水が、雨季には水面が5m上昇するほど増水する。
クシュ王国時代の古代都市メロエはアトバラ川とナイル河の合流点付近に位置し、同地域を中心として古代世界屈指の王国として栄えた。
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・アトラス山脈 |
チュニジア、アルジェリア、モロッコにまたがりサハラの北限をなす大山脈。アンティアトラス、オートアトラス、アトラス、サハラアトラスなどいくつかの山系にわかれていて、最高峰はモロッコのトゥブカール山で標高は4165mである。
冬には冠雪することもあるこの山脈はサハラ北部のオアシスの水源地でもあり、北アフリカの先住民であるベルベル系民族の多くはこの山岳地帯に居住(遊牧)している。
アトラス山脈は古くからヨーロッパ世界(ギリシャ世界)に知られていて、アトラスの名前はギリシャ神話の巨神アトラースが石になった姿がこの山脈であるとの伝説に由来する。
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・アトランティック
語派 |
ニジェール・コルドファン語族を構成する語派のひとつ。西アフリカ大西洋岸地域(セネガンビアからリベリアまで)ではなされているいくつかの言語から構成される(フルベ語はこの語派に属するがフルベの拡大・移住に伴い大西洋岸からナイル河に至る広大な地域で話されている)。
フルベ、ウォロフ、ジョラ、セレール、リンバ、テムネ、バガ、キシ、ビジャゴ、マンジャクなどがアトランティック語派に含まれているが、これらの言語が本当にひとつの語派を構成しうるのかという懐疑的(否定的)な学説もある。
←アフリカの言語
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・アナング |
アニャングとも。ナイジェリア南東部、カメルーン西部のクロスリバーデルタ地域に住む民族。近縁のイビビオやエフィクとは、エジプトから移住してきたユダヤ人の子孫であるという伝承を共有している。
アナングの仮面は非常に写実的なもので近隣のエコイと同様仮面や頭部像に獣皮を張ることが多い。表面に獣皮を張った仮面は、写実的な造形と獣皮の持つ生々しいな質感があいまって不気味な迫力を生み、アフリカの彫刻の中で最も凄みのある物の一つと言えるだろう。
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・アハンタ |
ガーナ共和国西部沿岸地方を主な居住地とするアカン系民族。現ガーナ中西部に位置し、金の採掘で栄えたアカン系最初の王国ボノ=マンソから移住してきた人々の末裔であると考えられている。他の多くのアカン系民族と同様独自の小王国を形成した。
海岸地域に住んでいたため同地域で最も早い時期からヨーロッパ人と接触した民族のひとつとなり、1656年にはオランダと保護条約を結び同国の保護国となった。。1830年代にオランダに対して反乱を起こしたアハンタの王は殺された後その首はオランダへ持ち去られ近年まで同国の大学に保管されていた(2009年に返還)。
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・アファール |
エチオピア北東部からエリトリア南部にかけて広がるダナキル沙漠・アファール盆地を中心にエチオピア、エリトリア、ジブティに居住する民族。アフロ‐アジア語族クシュ語派に属する言語を話す。
伝統的生業形態は遊牧(ラクダ、牛、羊、ヤギなど)であり、ダナキル沙漠各地での湖塩(アッサル湖など)での塩の採掘、交易にも従事する。
非常に精悍な沙漠の戦士としても知られていて、都市居住者はともかくとして砂漠で遊牧生活を送る成人男性はほとんどが自動小銃などで武装している。
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・アファール
盆地 |
アフリカの角に位置する盆地。エリトリア南部、エチオピア北東部(ダナキル沙漠)、ジブティ、ソマリア北西部にまたがり、アフリカ大陸最低標高地点もこの盆地内にある(−155m。アッサル湖:ジブティ)。地球上で最も暑い地域としても知られ、乾期の平均気温は実に48℃にも達する。
アフリカ大地溝帯の一部であるため多くの火山が存在する。
主な住民はアファール、ソマリなど。
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・アフマッド
=ババ |
16〜17Cにかけて活躍したトンブクトゥの大学者。1556年にトンブクトゥの北約250kmに位置するサハラのオアシスアルーアンに高名な学者の息子として生まれ、若くしてトンブクトゥに移り住んだ。1591年から始まったモロッコ軍によるソンガイ帝国侵略・占領に抗議したため、1594年にマラケシュ(現モロッコ領)へと抑留された。彼の著作のうちのかなりの部分が1608年まで続いたこの抑留生活の間に書かれた。そのうちのいくつかは現在まで伝わり、西アフリカ史の第一級の文字資料となっている。
アフマッド=ババはその学者としての功績だけでなく、外国勢力に屈しなかった抵抗運動の先駆者としても高く評価されている。現在トンブクトゥにある図書館にはババの名が冠されている。
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・アブラヤシ |
ヤシの一種。ヤシ科アブラヤシ属の植物の総称であり、西アフリカ原産種にギニアアブラヤシがある。果肉と種子に脂肪分を多く含み、油の原料(果肉からとれた油はパームオイル、種子からとれた油はパーム核油として区別される)として栽培されてきた。
西アフリカ南部ギニア地方の森林地帯でも古くから栽培され、果肉から取れた赤みを帯びたパーム油(ヤシ油=ココナッツオイル:ココヤシの種子からとれる油とは別のもの)は同地方の重要な産物となってきた(中部アフリカの熱帯地方でも同様)。現在でも西アフリカではこのパーム油が料理に多用される他、樹液を発酵させてヤシ酒を作る地方もある。
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・アフリカ=
セム諸語 |
セム語派とも呼ばれる。アフロ-アジア語族を構成する語派のひとつであり、かつてはアフロ-アジア語族内のセム語派以外の諸語をひとまとめにしてハム語派と呼び、セム語派とあわせてセム-ハム語族と呼んでいたこともあった。
セム語派は西アジアとアフリカにまたがる語派であり、中央セム語(アラビア語、ヘブライ語など)、南方セム語(アムハラ語、ティグレ語、ゲエズ語〈死語:儀典言語として現存〉など)、東方セム語(アッカド語など消滅した言語のみ)に分類される。
←アフリカの言語
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・アフリカ
大地溝帯 |
グレートリフトバレーとも呼ばれる。アフリカ東部を南北に走る幅数十q、長さ7千qにも及ぶ地溝帯(大渓谷)。大地溝帯内にはビクトリア湖、タンガニーカ湖、マラウィ湖等アフリカを代表する大湖が点在している(大湖地方)。
モザンビークのザンベジ河河口付近を南端としマラウィ湖、ビクトリア湖、エチオピア高原、ダナキル沙漠、アファール盆地を通り紅海に、さらにはシナイ半島、ヨルダンの死海にまで達する。さらにマラウィ湖北端からは西にタンガニーカ湖、アルバート湖へと続く西部大地溝帯が走っている。
大地溝帯は毎年数oの速さで東西に広がり続けていて、まさに大陸が分裂しつつある現場であるとも言える。アフリカとアラビア半島を隔てる紅海もアフリカ大地溝帯の一部であり、他の部分に比べ早く広がり、また標高が低かったため海水が流れ込み現在の紅海が形成された。
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・アフリカ
統一機構 |
略称はOAU。パン・アフリカニズムの影響の下、1963年エチオピアはアジスアベバにてアフリカ諸国の団結・アフリカ人の生活向上・植民地主義との戦いなどを目的として創立された地域機構。本部はアジスアベバ。
加盟資格はアフリカ大陸内の全独立国家であり(南アフリカ共和国はアパルトヘイト廃絶まで加盟を拒否されていた)1984年に西サハラのOAU加盟に抗議して脱退したモロッコをのぞきアフリカ大陸の全独立国+西サハラが加盟していた。
2002年7月にAU(アフリカ連合)に移行。
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・アフリカの角 |
北東アフリカのインド洋に向かってサイの角のように突き出た地域の名称。ソマリア(およびソマリランド)・エリトリア・ジブティの全土およびエチオピア・ケニアの一部からなり、そのほとんどが沙漠・ステップなどの乾燥地帯である。インド洋・紅海・地中海を結ぶ交通の要衝として地政学上重要な意味を持つ地域である。主な住民はソマリ、アファール、オロモなどのクシュ語系民族・アムハラ・ティグレなどアフリカ・セム諸語系民族(ともにアフロ・アジア語族に含まれる)が多数を占める。
ソマリア内戦、エチオピア-ソマリア紛争、エチオピア-エリトリア戦争、ソマリアの海賊など紛争・混乱の絶えない不安定な地域でもある。
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・アフリカの年 |
1960年に17(18)ヶ国のアフリカの国が独立を果たしたことから、1960年を「アフリカの年」と呼ぶ。
第二次大戦後のアジアの植民地独立を受け、独立への運動が高まっていたサハラ以南のアフリカでまずクワメ=ンクルマに率いられたガーナが独立の先陣を切り(1957年)、セク=トゥーレ率いるギニア(1958年)が続いた。
続く1960年には主にフランス植民地であった国がいっせいに独立を果たし、一挙に17(18)もの国がサハラ以南のアフリカに生まれた。
1960年に独立を果たしたサハラ以南アフリカの国は以下のとおり。
モーリタニア・マリ連邦(数ヵ月後にセネガルとマリに分離して再独立)・ニジェール・チャド・コートジボアール・オートボルタ(現ブルキナファソ)・トーゴ・ダホメー(現ベナン)・カメルーン・中央アフリカ・コンゴ共和国・ガボン・マダガスカル(以上旧フランス領)・ナイジェリア(旧英領)・コンゴ民主共和国(旧ベルギー領)・ソマリア(旧英領)・ソマリランド(旧イタリア領・独立直後にソマリアと統合)。
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・アフリカ連合 |
2002年7月にアフリカ統一機構から発展的に移行したアフリカ大陸の地域統一機構。本部はOAU時代から引き続きエチオピアの首都アジスアベバに置かれている。
EU(ヨーロッパ連合)をモデルとし、モロッコを除くアフリカの全独立国が加盟していて(西サハラを含めて54カ国*ソマリランドは非加盟/未承認)地域機構としては世界最大である。モロッコはAUの前身アフリカ統一機構時代に西サハラの加盟に抗議して脱退した。
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・アフリカン
プリント |
機械織りの薄手の布(木綿・化繊・混紡)にさまざまなプリントを施した布。おおむね原色を多く用いた派手な色と柄のものが多い。
アフリカンプリント布はおおむね西アフリカではパーニュ、東・南部アフリカではカンガ・キテンゲ(ザンビアではチテンゲ)と呼ばれている。パーニュ(腰巻という意味)、チテンゲはひとつのモチーフを連続してプリントしてあるデザインが多く、ケニア、タンザニアなどの東アフリカで多く用いられるカンガと呼ばれるアフリカンプリントは、布の縁の部分がフレーム状に染められその枠の中に大ぶりの模様がプリントされている。さらに特徴的なことに、枠内下部にはことわざなどがプリントされている。
ちょっとした晴れ着から普段着、腰布、背負い布、小物まで生活に密着したさまざまな用途に用いられ、アフリカに行ってアフリカンプリントを眼にしない日は無いというくらいアフリカの人々の生活に欠かせない布となっている。
いまやアフリカを代表する布といっても過言ではないアフリカンプリントだが、アフリカ大陸外の国でアフリカの人々の好みにあわせて、デザイン・製造されているものが多い。ヨーロッパではオランダ・イギリス、アジアではインドネシア、中国など(かつては日本でも作っていた)が主な生産国。アフリカで作っているものもあり、西アフリカではコートジボワール製のものがよく知られている。
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・アップリケ |
西アフリカのガーナ、ベナンからカメルーンにかけてアップリケを施した布を作る民族が多く住んでいる。アップリケはもともと、バクバ人が作るアップリケを施したラフィア布のように、ラフィア布を柔らかくするために臼でついたり砧打ちをしたときにできた穴をふさぐために発達したと考えられている。染め布や織り布よりも自由な色使いとデザインが可能で、それぞれの民族の宗教、歴史、物語などをあらわしたアップリケ布が作られている。
ベナンのフォン人によるアップリケ綿布、ガーナのファンティのアサフォ軍旗、コンゴのバクバによるアップリケラフィア布などがよく知られている。
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アフリカのアップリケ
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・アフロ-
アジア語族 |
アラビア語などのセム語派言語と北アフリカを中心に分布する近縁の言語(かつてはハム語派と呼ばれていた)からなり、アジア、アフリカの二大陸にまたがる大言語グループ。かつてはセム-ハム語族と呼ばれていた。
アフリカ大陸内のアフロ-アジア語族は、アフリカ・セム諸語(アラビア語、エチオピアセム諸語:アムハラ、ティグレ語等)・クシュ語派(ソマリ等)・ベルベル語群(タマシェク=トゥアレグ語など)・チャド語派(ハウサ等)、オモ語派に下位分類される。
また現在では死語となっている古代エジプト語(ヒエログリフで記述されている言語)、ゲーズ語(古代エチオピア語:宗教言語としてのみ現在も使用されている)もこの語族に所属する。
←アフリカの言語
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・アブロン |
ボノとも呼ばれる。アカン人の一派であり、主にガーナ-コートジボアール国境地帯内陸部に居住する。15C(16C?)には同地域にグヤアマン王国を建国し、マンデ系商人によって建設された交易都市ボンドゥクなどを支配下に置き繁栄した。
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・アマゾネス軍団 |
ダホメー王国軍内に組織された女性だけの軍団。フォン語で「我らの母」を意味するAhosiと呼ばれていた。
ダホメー王国の実質上の建国者ウェグバジャ王の代に近衛兵部隊として創設され精強な兵士として近隣諸国に恐れられた。ゲゾ王の時代に軍事大国化したダホメーのなかでアマゾネス軍団も拡張され一時は6千人を越える大部隊となり、ライフル、ナイフなどで武装していた。
ダホメーの西方のアシャンティ王国にも女性兵士だけで構成された部隊があったという。
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・アマドゥ
=バンバ |
→バンバ,アマドゥ |
・アムハラ |
エチオピアの主要民族のひとつ。アムハラ人の遠い祖先は前10C頃に紅海を渡ってアラビア半島から移住してきたセム系の民族であったと考えられ、現在のアムハラ語もアフロ‐アジア語族アフリカ・セム諸語に分類される。
13C以降のエチオピアで常に支配的立場にあった民族であり、アクスム王国の子孫として王国の建国伝説ソロモン王とシバの女王の末裔を自負している。そのほとんどがエチオピア正教(キリスト教)を信仰している。
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・アラキ |
スーダン共和国などで作られるナツメヤシを原料とする蒸留酒。無色透明、かなりアルコール度が高いがクセのない味なので飲みやすい(と思う。禁酒国家スーダン共和国滞在1ヶ月目にして初めてありついた酒だったので、それだけでうれしくて味のことはあまり覚えていない)。
アラビア半島起源のナツメヤシやブドウから作る蒸留酒であったがアラブ・イスラム文化圏が広がるにつれ、さまざまな地域でさまざまな原料から作った蒸留酒もアラックと呼ばれるようになった。スーダンではアラキ、トルコではラクまたはラキと呼ばれる(トルコのラクはブドウが原料)。
*禁酒国家スーダン共和国では当然非合法の密造酒であり、見つかった場合は面倒なことにある恐れがあります。
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・アラビア海 |
インド洋の一部でアラビア半島・アフリカの角とインド亜大陸の間の海を特にアラビア海と呼ぶ。面積は約390万ku。
古くから季節風(夏には南西の、秋〜春には反対に北東の風が吹く)を利用した船舶(主にダウ船と呼ばれる三角帆の帆船)による長距離海上交易網が発達し、沿岸のインド、ペルシア、アラビア、アフリカの角、やや南に下ってアフリカ東海岸を結び付けていた。またこれらインド洋世界はアデン湾・紅海を通じてエジプト、ギリシャ・ローマなどの地中海世界を結びついていた。
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・アラブ |
アラビア半島を中心に北アフリカ、西アジアに居住する民族。アフロ-アジア語族セム語派に属するアラビア語を母語とする。原住地はアラビア半島であったがイスラムの拡張以来上記の地域に広がっていった。
この項では主に北・西アフリカのアラブ人について述べる。7Cに始まったイスラムの拡張は8C初頭には北アフリカ一帯、さらには地中海を越えイベリア半島を支配するまでにいたった。その占領下の各地にアラブ人が移住し北アフリカ各地にも大勢のアラブ人が定着し土着化していった。現在は北アフリカの住民の大部分はアラブ系であり、先住のベルベル系住民は少数民族となっている。
アラブ系住民の大部分は定住生活を営んでいるが遊牧の伝統を捨てずに現在もサハラで遊牧生活を送る者たちもいて、北アフリカ諸国だけでなく、モーリタニア、マリ、ニジェール、チャドなどにも多数居住している。
アラブ人の北アフリカ移住、サハラ縦断交易への従事はサハラ以南のアフリカに、イスラム、イスラムに則った商習慣、アラブ・地中海世界の工芸文化、胴のくびれた太鼓(現在西アフリカでジェンベと総称されている太鼓:西アフリカの音楽において非常に重要な位置を占める)など大きな影響をもたらした。
またインド洋を渡り東アフリカさらにその後背地の中部アフリカとの交易に従事したアラブ人たちは東アフリカインド洋岸にいくつもの商業都市を築き、アラブとアフリカが混ざり合ったスワヒリ文化を作り上げた(→インド洋交易)。
上記のアフリカの非アラブ・イスラム圏でもアラビア語は宗教言語として広く普及している。
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・アルーアン |
トンブクトゥの北約250kmに位置するサハラのオアシス。トンブクトゥの大学者アフマッド=ババの生地としても知られているこの村は、かつては学問の町として栄えていた。またトンブクトゥとタウデニ・タガザを結ぶルート上に位置し古来サハラ縦断交易のキャラバンが水や食糧を補給する重要な宿場町地でもあった。
現在のアルーアンは砂丘に囲まれた小さな村であり、かつての繁栄した町のほとんどは砂に埋もれてしまっている。
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・アルジェリア |
北アフリカ中央部に位置しアフリカ最大の面積:約2400万kuを持つ国(以前はスーダン共和国についでアフリカ第二位であったが南スーダン独立によってスーダンの面積が減ったため第一位に昇格)。北は地中海、西はモロッコ、モーリタニア、南はマリ、ニジェール、東はチュニジア、リビアと国境を接する。国土の大部分がサハラに覆われ人口の大半は北の地中海沿岸地域に集中している。
最初の定住民はベルベル系であったと思われ、ヌミディア、フェニキア(カルタゴ)、ローマ、アラブ、オスマン帝国、フランスなど様々な勢力が行き交い複雑な歴史を形成した。
住民の大部分はアラブ人であり北部のアトラス山脈や南部のホガール山地などにベルベル系先住民が暮らしている。
アラブ世界の豊かな工芸文化を持ち、じゅうたん、金属工芸などが盛んである。南部の山地や沙漠に住むトゥアレグの工芸品も有名。
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・アルバート湖 |
東アフリカ大湖地方、コンゴ民主共和国とウガンダの国境に位置する湖。面積5300ku、最大深度55m。アフリカ第七の大湖である。南東にあるビクトリア湖からナイルの源流が流れ込み、アルバート湖から北へ流れ出している(白ナイル)。
ムウィタンジゲ(ニョロ人による呼称)、ウネク・ボニョ(アルル人による呼称)などの現地名を持つが、この湖を「発見(=ヨーロッパ人による初の到達)」したイギリス人探検家ベーカーが当時のイギリス女王ビクトリア(この名はアフリカ第一の大湖に冠されている)の夫君アルバート公にちなんで、勝手にアルバート湖との名をつけた(アフリカだけではないが、このように現地名を無視して時の支配勢力が勝手な地名をつける例は枚挙に暇がない)。
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・アルール |
アルバート湖北部つまりウガンダ北西部およびコンゴ民主共和国北東部にかけてを主な居住地とする民族。サハラ‐ナイル語族(西ナイル語系)に属するルオ語と近縁の言語を持つ。かつてはいくつかの王国・首長国を築いたことがありそのうちのいくつかは現在まで存続している。
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・アンゴラ |
アフリカ南西部、大西洋に面した国。南西部の半沙漠地帯から北東に進むにつれステップ、サバナ気候と変わり一部には熱帯雨林も見られる。アンゴラ北部にはかつてコンゴ王国、ンドンゴ王国などの王国が栄えた。
15C末のポルトガル人来航後、同国と友好的な交易を続けていたが、その後ポルトガルは奴隷貿易に力を入れるようになりアンゴラは荒廃、19C末にはポルトガル植民地となった。植民地支配は多数のアフリカ諸国が独立を達成した1960年代以降も続き、凄惨な独立闘争の末1975年に独立を達成した(1974年のポルトガルカーネーション革命によって成立した新政府がアフリカのポルトガル植民地ギニア=ビサウ・サントメ=プリンシペ、アンゴラ、モザンビーク、カーボヴェルデの独立を承認)。
主な民族はオビンブンドゥ、ムブンドゥ、バコンゴ、ヘレロ、バチョクウェ、ヨンベなど。沙漠地帯にはサンも暮らしている。
バコンゴ、ヨンベ、バチョクウェは彫刻に長けた民族としても知られている。
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・アンコレ |
ンコレとも呼ばれる。東アフリカはウガンダ西部を中心に居住する民族。16C頃?西ウガンダにアンコレ王国を建国した。
北方系(長身痩躯、赤褐色の肌)の形質を持つ牛牧民ヒマとバントゥー系の形質を持つ農耕民イルからなり、両者ともにバントゥー語系のルニャンコーレ語を話す。
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・アンコレ王国 |
ンコレ王国とも。アンコレ人を中心とし16C?〜1966年まで現ウガンダ南西部に存在した王国。かつてアフリカ大湖地方一帯を支配したと伝えられている伝説的(伝説上?)な王国、キタラ王国が15C末頃に崩壊した後、その後裔が建国したとされている。初代王の死後、分裂しブニョロ王国など隣国の圧迫を受けていたが19C後半には勢力を取り戻し版図を拡大した。
1898年にイギリスはアンコレ王国を保護領とし、周辺の小王国と統合し新しいアンコレ王国を作り植民地体制化に置いた。1962年のウガンダ独立後も王国は存続していたが、1966年のクーデターの結果アンコレ王国は消滅した。1993年世俗権力を持たない文化指導者としての王位が復活された。
アンコレ国王は神聖王として王国と一体であるという性格を持ち、王の健康はそのまま王国の繁栄に結びつくとみなされていた。そのため健康の衰えてきた王は自然死を待たずに、側近や妻に毒殺され、新たに活力にあふれた王が即位するという制度(王殺し)を持ち、新たな王を選ぶ際には王位継承権者たちによる王位争奪戦争が行われ、勝ち残った者が最も強い=最も王国に繁栄をもたらす王として即位した。
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・アンベテ |
ガボンおよびコンゴ共和国を主な居住地とする民族。バコタ人と共通する祖先を持つと考えられ、文化的にも共通するとことが多い。コタにもみられる祖霊信仰が盛んであり、祖先の遺骨を納める櫃やその守護像などを作る点でも共通する。
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い |
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・イェネンガ |
伝説的なモシの始祖。12、13C頃に現ガーナ北部にあったダゴンバの美しい王女であったイェネンガはまた自ら騎馬軍団を率いて戦いに臨む女丈夫でもあった。父王に愛されたがゆえに結婚を許されなかった(もしくは望まぬ結婚を強いられそうになった)イェネンガは故郷を出奔。自らが率いる騎馬軍団と共に現在のブルキナファソ中部に移住し、放浪の狩人リアレとイェネンガの間に生まれたウェドラゴという息子がモシ王国の創始者となったといわれている(ウェドラゴという名はいまではモシ人の中で最も多く見られる姓のひとつとなっている)。
イェネンガは今でもすべてのモシの母として敬愛されていて、ブルキナの首都ワガドゥグには彼女の名を冠した通りがあり、馬にまたがり、槍や弓矢を構えたイェネンガの像は様々な図案にも使われている。
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・イガラ |
ナイジェリア南東部の都市イダを中心にニジェール河とベヌエ川の合流地点地域に居住する民族。イガラの彫刻にはイケンガ信仰に関する作品が多く、イガラ彫刻の傑作としてトーテムポールのように何層もの彫刻群を縦に重ねた柱上の彫刻が知られている。
イダを都とする王国を建国(14C?〜現在)し、全盛期には南部に隣接するイボ人の居住地域にまで勢力を張った。
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・イグボ |
→イボ |
・イケンガ信仰 |
主にナイジェリア南東部に住むイボおよびその近隣の民族(イガラ、イジョ、ビニなど)に信仰されている(いた)宗教。イケンガとは人間の(右手の)生命力・力のことでありイケンガ信仰の祭壇像は上部に一対の角を持ち、下にそれを支える人像が彫ってある(時にはトーテムポールのように重層的に何対もの人像を彫りこむ)。
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・イジェブ |
ヨルバ諸国のひとつであり15C頃から現ナイジェリア南西部に栄えた。伝承によればオバンタと呼ばれるイフェの王子(もしくはイフェからの移住者)により建国されたという。イジェブは現ラゴス地方とイバダンとの交易路の要衝に位置し、交易の利潤によって最も繁栄したヨルバ諸国のひとつとなった。19C後半に内紛によって国力が衰えたところに、1892年にイギリス軍の侵攻を受け滅亡した。
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・イジョ |
ナイジェリア南東部ニジェール河デルタに住む漁労民。19C以降ヨーロッパから取り入れた木工技術を使った仮面、彫刻の制作が盛んになった。イジョは漁労民であるためその彫刻もまた水の精霊に関するものが多い。
イジョの彫刻の特徴としては、非常に抽象的で直線と円形を使った幾何学的なデザインが多い、また祭壇などの彫刻には寄木細工の技法が用いられていることなどが挙げられる(アフリカの彫刻は基本的には一木彫りである)。
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・イスラム |
西アフリカにおけるイスラムについて。7C前半にアラビア半島に生まれたイスラムは預言者ムハンマドの死後急速に勢力を拡大、8C初頭にはアラビア半島からマグレブ諸国、イベリア半島に至る地域を支配するにいたった。サハラ以南西アフリカへのイスラムはまずガーナ王国などを訪れたイスラム化したベルベル人交易者、アラブ商人などによってもたらされたが、この時期にはまだ黒人系住民のイスラム化は進まず、ガーナの王も非ムスリムのままであった。
ガーナ王国の跡を襲ったマリ・ソンガイ帝国の歴代皇帝、皇族等支配者層はムスリムであり、トンブクトゥのイスラム学芸都市としての発展などがあったものの、イスラムは依然支配層、知識層の宗教であり、被支配層のイスラム化はあまり進まなかった。さらにこの時期の西アフリカのイスラムは伝統宗教との習合的イスラムであり、18C後半から19C後半、習合的イスラムを否定したフルベのジハードが西スーダンを席巻することになった。フルベのジハードにより征服された土地の住民はイスラムに強制改宗させられ、西アフリカ内陸部のイスラム化が一気に進行した。西アフリカのイスラム化は現在も進行中で従来あまりムスリムのいなかったギニア湾沿岸部の地域でもムスリムが増加してきている。
現在サヘル諸国のほとんど(ブルキナを除く)ではムスリムが多数派を占め、ギニア湾岸諸国でも国の北部ではムスリムが多数派を占める国が多い。
西アフリカのイスラムはほとんどがスンニー派だがフルベのジハードにもかかわらず民族固有の宗教、信仰との習合が多く見られ、セネガルのムーリディーヤのような独特のイスラム教団も存在する。また現在ナイジェリアなどでシーア派の布教が進んでいる。
タバスキ、マラブーなどの西アフリカイスラム独自の用語も存在する。
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・イダ |
ナイジェリア南部ニジェール河下流河畔に位置する街。この地に都を置いたイガラ人の王国(イガラ王国)はすでに14C頃には建国されていたらしいがその古い歴史ははっきりとしない。ジュクン王国に起源を持つとも言い、またヌペ王国の建国者はイダの出身であるとも言われている。最盛期には南部に隣接するイボ人の居住地域にまで勢力を張った。
イダはニジェール河下流域の河川交通の要衝であり、現在も儀礼的存在としてのイガラ王が住まっている。
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・イドマ |
ナイジェリア南東部ベヌエ州を主な居住地とする民族。イスラムやキリスト教の影響を大きく受けているが独自の祖霊信仰も根強く残っている。
祖霊信仰の彫像や仮面を作るが近隣のイボ人のものと共通する特徴が多く見られる。
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・イドリス=
アロオマ |
マイ・イドリス=アロオマ(マイは王の意味)は16C末から17C初頭にかけてのカネム=ボルヌー帝国を治めた君主。在位1580〜1617(1571〜1603)。カネム=ボルヌー帝国最盛期の王といわれている。
1573年の先王の死後、7年余りの内乱を経て王権を握ったイドリスは軍制を改革(常備軍の設立)、サハラ縦断交易によって手に入れた火縄銃を装備した騎馬軍団を率い、帝国の東部を支配していたブララと戦い、帝国の旧領を回復した。次いで南のハウサ、北のトゥブ、西のトゥアレグと戦い、そのほとんどに勝利した。
イドリスの統治下帝国の版図は拡大し、カネム=ボルヌーはその最盛期を迎えた。イドリス1617年に戦死したがその後三代ほど英明な君主が続き、大きな戦乱もなかったため帝国は太平を享受した。
イドリスは死後アロオの沼に埋葬されたためイドリス=アロオマの名で知られている。
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・イバダン |
ナイジェリア南西部、ニジェール河下流域の西に作られたヨルバ諸国のひとつ。19C初頭にソコト帝国に圧迫されたオヨ王国の避難民が大量に流れ込んだことにより人口が急増した。もともと要害の地にあったイバダンの街はこのことにより軍事都市としての性格をおび、強力な軍事力を基盤とした奴隷貿易により繁栄したが19C末この地に進出してきたイギリス軍の支配下に入った。
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・イビビオ |
ナイジェリア南東部に居住する民族。人口は500万を越え、近縁のオロン、エフィク、アナングをあわせると1000万を超える人口を擁する民族である。
18C末のヨーロッパ人来訪以前の同地域の歴史はよくわかっていないが伝承によるとイビビオはエジプトのユダヤ人の末裔であり現スーダン共和国、エチオピア、カメルーンを経由して現在の居住地域に辿り着いたと伝えられている。
イビビオや近縁のオロン、エフィク、アナング、さらに近隣のエコイなどの民族はエクペと呼ばれる秘密結社組織を持ち仮面を用いた儀式をおこなう。
イビビオの仮面の中には下あごが可動式になっているものがあるが、これはアフリカの仮面としては珍しいスタイルである。
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・イフェ |
ナイジェリア南西部、ニジェール河下流域の西に作られたヨルバ諸国中最古の王国。11Cごろに建国されたと考えられている。伝承によれば、天の神オロルンがイフェの初代王オドゥドゥワをイフェの地に遣わし、イフェ王国が生まれたとされている。その後各地に建てられたヨルバ諸国の建国者はすべてこのオドゥドゥワの息子と言われている。
イフェ以後のヨルバ諸国はイフェをヨルバ発祥の地としてあがめ、宗主国として、また宗教的聖地として尊重したため、世俗的なの国力はさほどでもなかったにもかかわらず全ヨルバ諸国の中で特権的な地位を享受し、その宗教的権威によって19C末まで存続していた。現在でもヨルバ人の宗教的、精神的な聖地としての地位を保っている。
また奴隷貿易によりアメリカ大陸に連れ去られたアフリカ人たちがその土地で発展させた宗教(ヴードゥー:ハイチなど、サンテリア:キューバなど、マクンバ:ブラジルなど)の中でヨルバ的要素の果たす役割は大きく、イフェはそれらの宗教の信者からも神聖視されている。
イフェ王国の宮廷美術、つまり有名なイフェの青銅またはテラコッタ製の彫刻はその写実性と完成度の高さにおいて、世界的に見ても最高の水準に達していると評価されている。最初期にイフェの彫刻を見たヨーロッパ人はその芸術性の高さからアフリカ人が作ったとは信じられず、ギリシャ人か何かが造ったものだと考えたという。無礼極まりない話だが、イフェ美術の完成度の高さを物語るエピソードである。
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・イフォラ山地 |
マリ共和国北東部にある山岳地帯。トゥアレグの一氏族Kel-Ifoghasがかつてこの地域を支配していたためこの名が付いた。サハラの岩壁画遺跡群のひとつとしても知られている。
数千年前にさかのぼると思われる動物の壁画や、12C頃に描かれたと見られる壁画が発見されたほか、トゥアレグ人の都タデメッカの遺構や、タデメッカを滅ぼして建てられたソンガイ王国時代(ソンガイ帝国建国前からソンガイ人はガオを中心に王国をつくっていた)の交易都市の遺跡エッスークがのこされているなど考古学的に注目されている地域である。
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・イブン=
バットゥータ |
1304〜1368年。モロッコ生まれのイスラム法学者にして大旅行家。21歳のときにメッカ巡礼に出かけた後約20年をかけ、東は元(モンゴル帝国)、南はマリ帝国、北はイベリア半島、キプチャクハン国とアジア、アフリカ、ヨーロッパの三つの大陸を旅し、マルコ=ポーロと並ぶ大旅行家として世界史に名をとどめている。
帰国後に記した旅行記・見聞録「諸都市の新奇さと旅の驚異に関する観察者たちへの贈り物」(通称「三大陸周遊記」「大旅行記」)は世界史研究の貴重な史料として現代まで読み継がれている。1350年代にモロッコからタガザ(タウデニが開発される前の塩鉱)を経てマリ帝国を訪れた際の記録は文字史料の少ないアフリカ史の研究にとって非常に貴重な史料となっているほか、キルワなどのスワヒリ都市を訪れた際の記述も残されている。
イブン=バットゥータが訪れたアフリカの街
ゼイラ・モガディシュ(現ソマリア)、キルワ・ザンジバル(現タンザニア)、モンバサ(現ケニア)、ワラタ(現モーリタニア)、タガザ・トンブクトゥ・ガオ(現マリ)、タケッダ(現ニジェール)など。他にもサハラ以北のマグレブ諸国、リビア、エジプトなどの多数の街を踏破。
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・イボ |
ナイジェリア南東部ニジェール河デルタとその南東地域に居住するナイジェリアの主要民族のひとつ。商業民族としても知られナイジェリア内外で広く活躍している。イグボとも言う。
ナイジェリア独立後の1967年、イボ人が主体となってナイジェリア東部州独立を宣言したが、ナイジェリア共和国軍によって鎮圧された(ビアフラ戦争)。
イボ人はイボ人としての統一国家を持ったことがなく、主に5つの集団に分かれて村落単位、大きくても都市国家規模の政治形態しか持たなかった。この影響がイボの彫刻にも如実に現れている。各集団の作る彫刻の特徴は、写実主義的なものから、何をかたどったのかわからないほど抽象化が進んだ彫刻まで、かなりの多様性を示し一見したところイボという同一民族が作った彫刻とはわからないほどである。
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・イボイノシシ |
ウシ目(偶蹄目)イノシシ科イボイノシシ属に属する動物。サハラ以南のアフリカのほぼ全土に分布する。体長90〜150cm、体重50〜150kgと日本の猪よりやや小型。顔面(目の下とあご)にはイボイノシシの名のもととなったイボ(突起)が各一対ある。
その魁偉な容貌から彫刻のモチーフとなることも多い。また、その牙はしばしば工芸品の素材として使用される。
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・イボ・ウクウ
文化 |
ナイジェリアのニジェール河下流域、現在主としてイボ民族が住んでいる地方に9C?〜?Cに栄えた文化。おそらくアフリカ最古の青銅器文化と考えられている。イボ・ウクウの青銅彫刻は失蝋法で造られていて、その様式は非常に緻密かつ装飾的であり、後のイフェ、ベニンの青銅彫刻等とはかなり異なっている。
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・イムラゲン |
モーリタニア北部沿岸地域を中心に、西サハラにもまたがって居住する漁撈民。マンデ系民族に起源を持つといわれているが現在はハッサニア語(モーリタニアで話されているアラビア口語方言の一種)が母語となっている。
イルカの習性を利用したボラの追い込み漁を行うことで知られている。
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・イン-ガール |
ニジェールはアガデスの西約120kmに位置するオアシス。町の近くには塩湖があり塩を採掘している。毎年9月(雨季の終わり)に行われるウォダーベ(ボロロ)とトゥアレグの有名な祭礼(ウォダーベの美男子コンテスト)の開催地としても知られている。
かつてはサハラ縦断交易の重要な中継地であったイン‐ガールを表すトゥアレグクロス「インガールクロス」は数あるトゥアレグクロスの中でももっともよく知られたデザインのひとつである。
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・インド洋 |
アフリカ・ユーラシア・オーストラリア大陸に囲まれた大洋。面積は約7400万ku。アフリカにおいては南アフリカ共和国(喜望峰)からエジプト(スエズ地峡:紅海もインド洋の一部であるため)までがインド洋沿岸となり、インド洋に浮かぶ島国マダガスカル、コモロ、セイシェル、モーリシャスがある。
インド洋のアラビア海(インド洋の一部でアラビア半島・アフリカの角とインド亜大陸の間の海)では季節風を利用した遠距離海洋交易網が古代から発達し、現ソマリア・エチオピア・ケニアなどの沿岸部は古くからインド洋交易圏に含まれていた。時代が下がるとさらに南の現タンザニア・モザンビーク沿岸部なども交易圏に含まれるようになり、ペルシア・アラブ・インドなどと(それらの地の商人を通じてさらに遠方の中国とも)、また紅海を通して地中海世界と結びついていた。
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・インド洋交易 |
インド洋、特にアラビア海(インド洋の一部でアラビア半島・アフリカの角とインド亜大陸の間の海)では古くから、夏には南西に、秋〜春には反対に北東に吹く季節風を利用した船舶(主にダウ船と呼ばれる三角帆の帆船)による長距離海上交易が行われ、インド洋沿岸のインド、ペルシア、アラビア、アフリカの角、アフリカ東海岸などのインド洋世界を結び付けていた(さらにはアデン湾・紅海を通じてエジプト、ギリシャ・ローマなどの地中海世界とインド洋世界は結びついていた)。
1Cに書かれた航海案内書「エリュトゥーラ海案内記」にはすでにラム(現ケニア)や現ソマリア、現タンザニアに比定される地名が記されている。
7C以降アラブ・イスラム商人がインド洋交易に進出。東アフリカ沿岸の諸港にもアラブ人の定住地ができ、アラブ・イスラム文化とアフリカ文化の混ざり合ったスワヒリ文化(およびスワヒリ語)が生まれた。
東アフリカ沿岸部にはラム、モンバサ、マリンディ(以上現ケニア)、キルワ、ザンジバル(以上現タンザニア)、ケリマネ、ソファラ(現モザンビーク)などの貿易港が並び、東・中部・南部アフリカ内陸部の象牙、香料、香辛料、金、奴隷などを送り出すと同時に、インド洋交易圏各地の産物を輸入していた(インド産のシードビーズ、タカラガイ-子安貝-などがよく知られている。またインドなどを通し、遠く中国の産物も輸入していた。現在でもスワヒリ都市の遺跡から中国の陶磁器が見つかることがある)。
現在もインド洋沿岸各地を結ぶ貿易は活発に行われている。主役となる船は大型の動力船、動力付きダウ船にに取って代わられたが、風のみを動力とするダウ船による交易もつい近年まで行われていたという。
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・インドリ |
サル目曲鼻猿亜目(霊長類原猿亜目)の一科。下位分類にアバヒ、インドリ、シファカを含む(すべてマダガスカルの固有種)。
普通インドリといった場合はインドリ科インドリ属インドリ(一属一種)をさし、その狭義のインドリはマダガスカル島北東部に棲息し世界最大の原猿類でもある5〜7kg)。インドリは生息地では神聖な動物とされ狩りなどはタブーとされている。
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・インパラ |
ウシ目ウシ科の動物。一種一属。東〜南部アフリカのサバナ地帯に棲息する。ウシ科のほかの動物群とともにレイヨウと総称されることもある(ガゼルとともにレイヨウの代表格となっている)。体長1.2〜1.6m,体重40〜80kg。いくつかの亜種に下位分類されている。
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う |
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・ヴァイ |
リベリアおよびシエラレオネに居住する農耕・牧畜民。多くの秘密結社組織を持ち、音楽に長けた民族としても知られている。
1830年代にヴァイ語を記述するための独自の152文字からなる文字体系(音節文字:平仮名のようにひとつの音節に対してひとつの文字が対応する文字体系)がモモル=ドゥワル=ブケレというヴァイの学者によって考案された。このヴァイ文字はサハラ以南のアフリカにおける数少ない独自の文字体系として知られている。
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・ウィダ |
ベナン南西部ギニア湾沿いの街。16C頃に建設された都市国家であり、沿岸部にあるという利点を生かしヨーロッパ人との交易(奴隷貿易)で繁栄した。現在でも奴隷達が歩かされた町から海岸へとの道や船に積み込まれた港が、かつての奴隷貿易を忘れないための遺跡としてのこされている。
1727年にアガジャ王に率いられたダホメー王国によって征服され、沿岸部の領土を持たなかったダホメー王国の主要貿易港の一つとなった。
現在のウィダはベナンのヴードゥーの中心地として知られ、蛇の寺院、聖なる森などのいくつもの聖地があり、毎年1月10日(国民の祝日となっている)に行なわれるヴードゥーの大祭には各地から大勢の信者が訪れる。
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・ヴヴィ |
プヴィ、ポヴェとも。ガボン中部の熱帯雨林を主な居住地詩、バントゥー系言語を持つ。
結社組織で用いる仮面などが知られている
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・ウェ |
→ゲレ |
・ウェグバジャ |
第三代ダホメー王国国王。在位1645〜1685。それまで沿岸の都市国家ウィダやポルトノボ、アルドラーなどの侵攻(奴隷狩り)に悩まされてきたダホメー王国を地域の強国の一つに押し上げた王。ダホメー王国の実質上の創始者といえる。
1645年叔父のダコドヌから王位を受け継いだウェグバジャは現在のアボメー市の近くに都を築き、法を整備し、王権を強化し、国民皆兵制度を整え(かの有名なダホメーのアマゾネス軍団を組織したのもウェグバジャである)、後のダホメー王国発展の基礎を築いた。
ウェグバジャの紋章は魚と梁(やな:魚をとる罠の一種)と鍬である。
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・ウェド
=サウラ |
アルジェリア北西部のワジ(涸れ川)。サウラ=ワジとも呼ばれる。アトラス山脈(モロッコ)に源流を持つ二つのワジ:ウェド=ギルとウェド=ズズファナがアルジェリア北西部イグリで合流し、ウェド=サウラとなる。イグリから200kmほどサハラ砂漠を南東へ流れ内陸塩湖セブカ=エル=メラフに注ぎ内陸水系を形成する。
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・ヴェネチア |
現イタリア北部アドリア海に面した都市。古くから交易都市として栄え、中世にはアドリア海一帯に勢力を張った一大海洋国家であった。
ローマの昔にまで遡るガラス工芸の伝統を持ち、ヨーロッパ世界のガラス生産の中心地であったヴェネチアはインド産の管引き極小ビーズ(シードビーズ)がアフリカで高額で取引されていることに目をつけ、15C末頃からアフリカ貿易用にシードビーズの生産を始めた(ヴェネチアでのシードビーズの生産は20C半ばに途絶えた)。
その後ボヘミアなど他のガラス生産地の興隆により相対的に地位が低下したヴェネチアは、17Cに他の産地では作れないほど高度な技術を使ったトンボ玉の生産を始め、ミルフィオリ(千の華)、シェブロン(鋸文様)などと呼ばれる極彩色の美しいトンボ玉をつくりアフリカ貿易に用いた。
ヴェネチア玉と呼ばれるそれらのトンボ玉は17〜19Cにかけて生産され古いものはコレクターの間で人気が高く、非常に高値で取引されている。
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・ウェルウィッチア |
アンゴラの乾燥地帯、ナミブ沙漠(ナミビア)に生える裸子植物で、ウェルウィッチア科ウェルウィッチア属(一科一属)に属する。昆布のような二枚の葉を伸ばし、その寿命は数百年から時に2千年に達するとも言われ、その長寿と特異な姿から「奇想天外」「世界で最も醜い植物(の一つ)」などの異名をたてまつられている。
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・ウェレ川 |
コンゴ民主共和国(以下RDC)を流れる川。RDC、中央アフリカ共和国の国境を流れる大河ウバンギ川の主な支流である。RDC北東部アルバート湖付近に源をもち西へ流れ中ア共和国との国境の町ヤコマでムボム川と合流する。合流点から下流をウバンギ川と呼びウェレ川のみの長さは1210km、ウバンギ川とあわせると2270kmとなる。
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・ウォダーベ |
ボロロとも。サヘルの牛牧畜民フルベのサブグループの一つ。おもにニジェール、ナイジェリア、カメルーンのサヘル地域に居住し、伝統的な牛遊牧の生活スタイルを守っている。男性は中分けの編み込み,女性は前髪をふくらませた独特の髪形をしている。
フルベ本来の生業は牛牧であったが過去二世紀の間に村落に定住し農耕に従事するもの、都市生活者となるものが増え、現在では伝統的な遊牧生活を送るのはウォダーベ(ボロロ)だけである(ウォダーベ以外の牧畜フルベは遊牧ではなく移牧と呼ばれる生活形態をとっている)。
年に一度の祭りでは、着飾り、化粧した思春期の青年の集まる美男子コンテストを行なうことでも知られている。
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・ウォヨ王国 |
ンゴヨ王国とも。バコンゴのサブグループのひとつウォヨによって現在のカビンダ州(コンゴ河の河口北部にあるアンゴラの飛び地)を中心としてに建国された王国。成立年代は15C頃と考えられている。
1780年代にコンゴ王国と連合してポルトガルと戦ったが戦費の増大により王国は疲弊。王国は徐々に衰退し1830年代に滅亡。ポルトガルの保護領となった。
ウォヨは優れた仮面のつくり手としても知られている。
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・ウォロフ |
セネガル、ガンビアに住む農耕民族であり、ニジェール・コルドファン語族アトランティック語派に属する言語を持つ。セネガルの最大民族であり、セネガルの政治経済、文化に大きな影響力を持つ。ウォロフの故地は古代ガーナ(現在のモーリタニア、マリ領)と推定され、ガーナ王国崩壊後の混乱期にセネガル地方へと移住してきたと考えられている。
ンジャージャン=ンジャイという伝説上の始祖を持ち14Cごろに王国(ウォロフ王国もしくはジョロフ王国)をつくった。ウォロフ王国は16C以後いくつもの王国に分裂しながらもフランスによる植民地化が始まる18〜19C後半まで存続した。18.19Cにイスラム化が進み現在ではムーリード派の信徒も多い。
文化的には彫刻、仮面製作などは行なわず、かわりにというわけではないが芸能が盛んでグリオの伝統を受け継いだセネガル・ウォロフのポップミュージシャンの中には世界中に名を知られたものも少なくない(ユッスー=ンドゥール、クンバ=ガロ=セックなど)。金属工芸には定評がある。
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・ウォロフ王国 |
13、14Cごろセネガンビアに作られたウォロフ人の王国。ジョロフ王国ともいう。伝説によれば北方(セネガル河下流域)のワロ出身のンジャジャーン=ンジャイという人物によって建国されたという。
14C中には同じウォロフ王国の宗主権のもとに多くの小王国(カヨール、ワロ、バオル、サルムなど)が多く建てられた。それらの王国はジョロフのブルバ(王)の権威の下にジョロフ王国に服属していたが、15C半ばから始まったヨーロッパ人との交易により各王国が力を蓄え、相対的にジョロフのブルバの権威は低下していった。
16C半ばのカヨール王国の独立を契機にセネガンビアはウォロフ系王国の分立時代に入る。各王国との抗争、フルベのジハードへの抵抗、などを経て1900年フランス植民地に組み込まれ王国の歴史に幕が下りた。
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・ウガンダ |
東アフリカ内陸部の高原地帯に位置する国。ケニア・タンザニアとの国境にはアフリカ最大の湖ビクトリア湖がある。
15C頃から始まる北方からの大湖地方へのナイル語系牛牧民の移住の結果、現ウガンダにはキタラ、ブニョロ、ブガンダ、アンコレ(ブニョロ、ブガンダ:バントゥー系中心、キタラ、アンコレ:ナイル語系が支配層)など数多くの王国が形成された。
19C末のイギリス植民地化後もこれらの王国のうちのいくつかは存続、1962年の独立後も存続していたが66年の共和制移行に伴い消滅したが1990年代に入りいくつかの王国が儀礼的存在として復活し現在に至る。
ウガンダの主な民族はガンダ、アンコレ、ソガ、キガ、ランギ、アチョリ、ギシュ、ルグバラ、テソ、ニョロなど。工芸品としてはイチジク科の木の樹皮を叩き延ばしてつくる樹皮布が有名である。
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・ウシ |
偶蹄目ウシ科ウシ亜科。アフリカではヨーロッパ由来の原牛型とインド由来のゼブウシ、両者の交配による中間種が見られる。食用にされることはあまりなく主に乳を食用として利用する(東アフリカの遊牧・牧畜民の間ではウシの血を食糧として用いることもある)。
アフリカの伝統的農業では牛牧と農業が結びついた例はあまりなく、一般的に牛耕も行なわれず牛糞を肥料として利用することもなかった(西アフリカのフルベと近隣の農耕民の間では刈り入れの済んだ畑にフルベのウシを放し、残った草を食べさせ、そのウシの糞を肥料として農耕民が利用するという関係が見られる)。
最初にアフリカにもたらされたのは原牛型の長角種のウシであり大体6〜7000年ほど前にエジプト経由でアフリカに入ってきて、北・東アフリカで広く飼育されていたが現在ではほとんど残っていない。
ゼブウシが最初にアフリカにやってきたのは4000年ほど前のエジプトであったが、7Cのアラブの拡大に伴いアフリカに大量に導入され現在もアフリカ東部からサヘル地域まで広く飼育されている。
両者の混血による中間種のウシは東アフリカの一部、南部アフリカ、西のフルベなどによって飼育されている。
東アフリカには多数の牛牧民が存在し、その多くは牛を経済的価値観、社会的価値観、宗教的価値観の中心にすえている(東アフリカ牛牧文化複合)。彼らは大きく分けてクシ語系(アファール・オロモ・ボラナ・ソマリ・レンディーレなど)とナイル-サハラ語族東スーダン諸語(マサイ・ヌエル・ディンカ・サンブル・ボディ・トゥルカナ・ポコット・ドドス・ジェ・カラモジョンなど)に属するものの二系統がある。ナイル語系牧畜諸民族には「お気に入りの牛」という、一定の基準に従って選んだ牛を特別にかわいがって育てるという習慣も広く見られる。かれらににとってはウシは単なる財産以上の宗教的存在であり、東アフリカの牛牧民ボディは、お気に入りのウシが死ぬとその悲しみを癒すために他民族の者を殺す旅に出る、という物騒かつ傍迷惑な習慣を持っていたほどである。
南部アフリカの牛牧畜民としてはコイが挙げられる。また同地域に進出したバントゥー系諸民族にも農耕・牧畜(牛を中心とする)を生業形態とする民族が多い(ズールー・、コーサ・ヘレロ・ヒンバなど)。
アフリカの牛牧民特集を見る>>
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・臼 |
アフリカでは臼が食糧加工、調理の場において大きな役割を果たしている。大きな臼は穀物の脱穀、製粉用、餅つき(穀類、根菜類のモチなど)に用いられる。脱穀機、製粉機などの機械類ももちろんあるが家内消費、小規模な業務用などにはまだ臼と杵が使われ、村落部などでは木陰で歌を歌いながら粉をつく女性の姿をしばしば目にすることができる。粉つきは重労働であり、気を紛らわすため歌を歌ったり、杵を振り上げざまに手を離し、手拍子を打ってから杵をつかむという遊びのような動作を取り入れこともある。
中型、小型の臼は家庭の台所で毎日の食事を作るのにつかわれる。調味料の調合や食材の加工などに用い、アフリカの家庭に欠かすことのできない調理器具となっている。臼は台所に欠かせない道具として嫁入り道具とする民族もある。
西アフリカの臼の形は日本の臼のような寸胴型と違い、くびれのあるジェンベ(アフリカンドラム)のような形をしていて、トロフィーのように取っ手がついていることもある。杵は竪杵(中央部の細くなった棒状の杵)を用いる。
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・ウスマン=
ダン=
フォディオ |
1754〜1817年。全名シェック=ウスマン=ダン=フォディオ。フルベ出身のイスラム学者、イスラム導師、ソコト帝国の建国者。
ハウサランドのゴビルに住む高名なイスラム学者ダン=フォディオはゴビル王の従来の民族宗教との習合的なイスラム信仰や、フルベへの重税を批判し、1802年にゴビルから追放された。ゴビルから追放されたダン=フォディオは在野においてフルベやハウサの支持者を集め1804年にゴビル王に対しジハードを宣言した。
ダン=フォディオのジハードは瞬く間にハウサランド各地に拡がり1808年にはハウサランド全域を平定、さらにはハウサランドの南に位置するジュクン王国やニジェール南部、カメルーン西部に至る地域を平定しアフリカ史上最大規模の国家の一つであるソコト帝国(フラニ王国とも)を建国した。
1811年に息子のムハンマド=ベロに譲位したダン=フォディオは1817年に死去するまで学究生活を送り、宗教、政治、法律、文化など様々な分野に及ぶ100冊以上の著書を遺した。
ダン=フォディオのジハードは18C〜19Cにかけて西スーダンを席巻した一連のフルベのジハード、イスラム国家樹立の流れの中に位置づけらるが、その中である程度の広域を強力に支配したイスラム国家を築いたのはウスマンが初めてであり、後に相次いだマシーナ王国、エル・ハジ=ウマルのトゥクロール帝国、などフルベによるジハード、イスラム国家建設に大きな影響を与えた。
なおウスマン=ダン=フォディオとはフォディオ生まれのウスマンの意味である。
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・うちわ |
うちわは古くから世界各地で製作、利用されてきた道具であり、その材質、形状は多岐にわたる。西アフリカでもたくさんの種類のうちわがつくられているが布や紙のうちわはなく、ヤシの葉などの植物性の材料を使い、かご編み(バスケタリー)の技法で作られていて、概ね3つに分類できるようである。
・スーダン(サヘル)タイプ
手旗状の形状のうちわ。ヤシの葉を細かく割いたものやビニール繊維などが使われ
る。チャド、ニジェール、マリ、ブルキナファソ、セネガル、モーリタニアなど主に
サヘルの国で製作、使用される(イラクなどでもこのタイプのうちわが使われている
らしく、そうだとすればアラブ圏起源のものなのかもしれない)。
・ギニアタイプ
一枚のヤシの葉をつかい、葉柄から小葉を切り離さずに編み上げたうちわ。このタイ
プのうちわは、形に多少の違いはあるがギニア湾岸諸国に広く分布していると思わ
れる。私が確認した範囲ではガーナ、ブルキナファソ南部、トーゴ、ベナンでこのタ
イプのうちわが製作、使用されている。
・その他
上記二つの分類に当てはまらないもの(製作、使用されている数、地域は上記の二
種が圧倒的に多い)。ガーナ北部ボルガタンガ地方のもじり編みのうちわ、
ベナンの丸うちわなど様々な種類のうちわがある。
上記の分類は学術的なものでなくあくまで私見による便宜的なものです
かつての日本でもそうだった様にうちわは涼をとる道具としてだけでなく、炊事用具としても用いられてきた。現在でもアフリカでは炊事に薪や炭を使うことが多く、その際、火を煽る道具としてうちわは生活に欠かせないものとなっている。
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<<アフリカのかご・うちわ
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・ヴードゥー教 |
フォン民族(ベナン)やヨルバ民族(ナイジェリア)を初めとする東ギニアの民族の間で広く信仰されている宗教。西アフリカ沿岸部のフォン民族(ベナン)やヨルバ民族(ナイジェリア)を初めとする東ギニアの民族(トーゴのミナ・カブイェ、トーゴ・ガーナのエウェなど)の間で多数の信者を持つ。便宜的にヴードゥー(ブードゥー)教と総称しているが統一的な教団があるわけではなく、民族・地域ごとに多くの差異がある。
ヴードゥー教は多数の神々(Vodun)からなる万神殿(パンテオン)を持つ多神教であり本来神を意味する「Vodun/ヴォードゥン」と呼ばれていたが、この地域の人々が奴隷として連れて行かれた先のカリブ諸国で、現地の宗教、キリスト教の要素などを取り入れ独自の発展を遂げた。名前も「Voodoo/ヴードゥー」へと転訛し、現在ではその名前のほうがよく知られている。ヴードゥーは主にハイチでの名前であり、他のアフロアメリカン宗教としてはキューバのサンテリア(ヨルバ起源)・レグラ=デ=パオ(バコンゴ起源)、ブラジルのカンドンブレ(ヨルバ起源)・マクンバ(コンゴ・アンゴラの宗教が起源)、ジャマイカのオベア(イボ起源)などがある)。
至高神としてマウ・リサという神がが存在するものの、信者の信仰の対象は日常の事柄にかかわる神々に集中していて、それぞれの事柄(生死、病気、豊作、雨乞い、商売繁盛などなど・・・)を司る様々な神が信仰されている。神々への祭礼として、生贄(鶏、羊など)や激しいダンス、トランスを伴う多様な儀式や呪術を行うことで知られていて、主要な神々はそれぞれの信者や結社を持っていることもある。
主な神として、レグバ(道の神・トリックスター)、シャンゴ(雷神)、オグン(鉄と戦いの神)、エグン(死神)、エシュン(水神)などが挙げられる。他にも地域限定の神々などがいて正確な数はわからないが数百の神がいるともいわれ、しばしば道端などでも小さな呪物を置いた小さな社を見かけることができる。
ベナンにおいては独立後の一時期、近代化政策によりヴードゥーへの圧迫が強くなったが90年の民主化を機に、ヴードゥーを前近代の遺物ではなく伝統文化として再評価するようになった。現在ではヴードゥー大祭の日1月10日は国民の祝日とされている。
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・ウバンギ川 |
中央アフリカ共和国-コンゴ民主共和国国境、コンゴ民主共和国-コンゴ共和国国境を流れる川。コンゴ河の支流のひとつでありコンゴ河右岸の支流としては最大の河川。ウバンギ川の船舶交通は流域地域の物流の動脈となっている。
ムボム川とウェレ川の合流地点からコンゴ河との合流地点までがウバンギ川であり全長1060q(ウガンダ-コンゴ民主共和国国境地帯に源を発するウェレ川をあわせると2270q)、流域面積は77万2800kuに及ぶ(中央アフリカ共和国南部、コンゴ民主共和国北東部、コンゴ民主共和国北部が含まれる)。
中央アフリカの首都バンギはその名の通りウバンギ川沿い(北岸)に位置する。
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・ウマ |
奇蹄目ウマ科ウマ属ウマ種に属する動物。4000年ほど前にヒクソスにより初めてアフリカ(エジプト)にもたらされた。3000年程前にはサハラにウマが導入され、ローマ風の二頭立ての二輪馬車を駆るガラマンテス人の壁画がサハラ各地に残されている。
7C以後のアラブ・イスラムの拡大に伴いアラブ種のウマが導入されエジプト経由やサハラ縦断交易によって西アフリカ内陸部にもたらされた。当時の西アフリカではウマは非常に貴重品であり、労働家畜というよりも王侯貴族や戦士階級の特権的な乗り物として使用されてきた。現在でも王を持つ社会の儀式では美々しく飾り立てた騎馬によるパレードなどを見ることが出来る。
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え |
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・エウアレ |
現ナイジェリア南部のベニンシティーを中心に13〜18C頃にかけて栄えたベニン王国黄金期のの王。オバ=エウアレとも(オバは王の意味)。
1440年ごろに王位に着いたエウアレは、首都ベニンに堀と塀をめぐらせ強固な要塞とし、また都市としての機能を整備した。外に対しては数々の征服戦争を行い領土を拡大し、内政においては王国の政治制度、行政機構などを整備して、ベニンを東ギニア屈指の大国に押し上げた。
1470頃もしくは1460年頃に死去。
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・エウェ |
またはエヴェとも呼ばれる。ガーナ南東部、トーゴ南部、ベナン南部、ナイジェリア南西部に居住する民族。トーゴではもっとも有力な民族のひとつである。13C頃にナイジェリア方面から現在の居住地域に移住してきたと考えられている。ヴードゥー教の信者が多い。
エウェの居住地域を植民地化したドイツが第一次大戦で敗北した結果エウェランドはイギリスとフランスに分割統治されその境界を引き継いだままガーナ、トーゴの一部として独立した。
ガーナのアシャンティと並びケンテ布の織り手として知られている。エウェのケンテはアシャンティのものよりやや暗く渋い色調が多いのが特徴的であったが近年その差はなくなってきている。
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・エクペ |
ナイジェリア南東部のエフィク人を中心としてその近隣(または近縁)の民族の伝統社会に見られる秘密結社。エクペとは密林に住まう精霊の名であり結社の成員は祖霊のメッセンジャーとみなされる。
エフィクや近縁のイビビオ、オロン、アナング、さらに近隣のエコイなど社会にみられ、儀式に用いる革張りの頭上面が特に有名である。これらの地域の人々が奴隷として連れて行かれたキューバやブラジルにもエクペを基とする宗教が現在まで伝わっているという。
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・エケット |
イビビオのサブグループのひとつでありナイジェリア南東部、カメルーンとの国境近くの地域を中心に居住する民族。伝統的な社会構造は階級制・カースト制を持ち、警察のような役割を果たす仮面結社を持つ。
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・エコイ |
エジャガムとも呼ばれる。ナイジェリア南東部からカメルーンにわたる地域に居住する民族。写実性を出すために表面に獣皮を張ったエコイの頭上面はよく知られている。
エクペといわれる宗教(秘密結社)の儀式に用いる頭上面の製作が盛ん。人面をかたどった仮面は写実的に、動物をかたどった仮面は極端にデフォルメされた表現でつくることが多い。表面に獣皮を張ったエコイの頭上面は、獣皮の持つ生々しいな質感が不気味な迫力を生み、アフリカの彫刻の中で最も凄みのある物の一つと言えるだろう。
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・エッサヘリ |
アンダルシア(現スペイン。当時はイスラム王朝支配下にあった)出身の建築家、詩人。14C前半に活躍。1324年当時メッカに滞在していたエッサヘリは巡礼に来ていたマリ帝国皇帝カンカン=ムーサと出会い、ムーサ皇帝の帰国に伴いマリ帝国の交易都市トンブクトゥへと赴いた。
エッサヘリは同地でサハラ以南アフリカ初となる(と考えられている)焼成煉瓦による建築をつくった。トンブクトゥの三大モスクのうちのひとつサンコレモスクはエッサヘリの作と伝えられている(何度も改築が重ねられているのでエッサヘリが作ったままの姿で残っているわけではないが現在もミナレットこそ日干し煉瓦で造られているが外壁、壁塔などは焼成煉瓦で造られている)。
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・エシギエ |
オバ=エシギエ(オバは王の意味)。現ナイジェリア南部のベニンシティーを中心に13〜18C頃にかけて栄えたベニン王国黄金期の王の一人。在位1504〜1550頃。
エシギエはベニンの北東部のイダのイガラ王国を征服するなどして領土を拡大するとともに、国内の政治改革にも取り組み、血統(貴族政治)よりも実力を重視する政治機構へと変えていった。
エシギエの即位の10年ほど前から、ベニンとポルトガルとの交易が盛んになり始め、エシギエはポルトガル語を自由に操ることができたという。
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・エジプト |
地中海と紅海に面した北アフリカの国(シナイ半島を領有しているため、厳密に言えばアジアとアフリカにまたがる国)。かつてはスエズ地峡を通じてアジア大陸と地続きであった(現在はスエズ運河によって分断されている)。
国土のほとんどはサハラに占められ北部の地中海沿岸地方は温帯気候帯に属する。砂に覆われた国土を南北に貫き流れる大河ナイルのおかげでナイル沿岸部には数千年の昔から灌漑農業が発展し、ピラミッドに代表されるエジプト古代文明を作り上げた。
古代の王朝時代、マケドニア/ギリシャの支配(プトレマイオス朝エジプト)、ローマ支配時代、アラブ・イスラム、オスマン帝国、イギリスなどの支配を経て1953年に現エジプト共和国が成立した。国民のほとんどがアラブ系であり、九割以上がイスラム教徒であるが、エジプトで独自に発展したキリスト教の一派であるコプト教の信者も人口の一割近くを占める。
古代王朝時代から連綿と続く手工芸の伝統と地中海世界、アラブ・イスラムの伝統が交じり合った豊かな工芸文化を誇る。
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・エジプト語 |
7世紀に始まるエジプトのアラブ=イスラム化以前にエジプトで話されていた言語(イスラム化以後のエジプトではアラビア語が使用されている)。アフロ=アジア語族に属する言語である。現在でもコプト教の典礼言語として使用されているコプト語(母語話者は数十人程度しかいない)として受け継がれている。
ヒエログリフ(神聖文字)、ヒエラティック(神官文字)、デモティック(民衆文字)、コプト文字(コプト・エジプト語期)などで記述された。
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・エシラ |
主にガボン中部に居住するバントゥー系民族。18C頃に北方(カメルーングラスランド?)からバミレーケや他の民族との戦乱を避けて現住地域に移住してきたと考えられている。
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・エッスーク |
マリ共和国東部イフォラ山地の西の端に位置する沙漠の中の遊牧民の村。ティン-エッサコとも呼ばれる(ティンは井戸の意味)。かつてサハラ縦断交易の拠点として栄えた時代の遺跡がのこっている他、8000年ほど前のものと考えられる岩面画も遺されている。
エッスークは古くはタデメッカ(タデメキ)と呼ばれトゥアレグの都・トゥアレグ文化の揺籃の地とも言われている。
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・エチオピア |
ソロモン王とシバの女王(BC10?・現イエメン)の間に生まれたメネリク1世を始祖とする伝説を持つ北東アフリカの国。国土の大半は高地に位置する(エチオピア高原)。古くはアビシニアとも呼ばれた。
1Cに創設されたアクスム王国は4Cにキリスト教を国教とし、以来独自のキリスト教文化(エチオピア正教)を育んできた。19C以降のアフリカ分割の時代にも独立を保ち続け、1896年にはアドワの戦いでイタリア軍に大勝。「カルタゴのハンニバル以来のアフリカのヨーロッパに対する勝利」といわれた。
その後第2次大戦後まで帝政を維持したが、1974年のエチオピア革命により皇帝ハイレ=セラシエ一世は廃位され、革命政権にとってかわられた。
現在首都アジスアベバにはAU(アフリカ連合)の本部がおかれている。
主な民族はアムハラ・オロモ・ティグレ・シダモ・ソマリ、など。またエチオピアはキリスト教国と考えられることが多いが人口の三割ほどはムスリムである。
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・エチオピア
高原 |
アビシニア高原とも。北東アフリカエチオピアの西部・中央部を占める高地。アフリカ大地溝帯により東西に分かれていて、狭義には西部のみをエチオピア高原と呼び、ナイル河の源流のひとつ(青ナイルの源流)でもある。
平均標高2300m、最高点4620m(ラス・ダシャン山)。赤道近くに位置するが高地のため気候は比較的冷涼である。古くから文明の栄えた地(アクスム王国など。ゴンダール、ラリベラなどの世界遺産も高原北部に位置する)であり、現在もエチオピアの人口、主要都市の大部分がこの高原地帯に集中する。
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・エチオピア
正教 |
4C半ばアクスム王国のエザナ王の治世に国教とされて以来エチオピアで信仰され続けてきたキリスト教の一派。東方正教会の一派に分類されエジプトのコプト教会とは近い関係にある。初期キリスト教の伝統を色濃く残しているとも言われ、独特な風習、儀礼、十字架、独自の典礼言語(ゲエズ語)などを保持している。
中世以降エチオピアは周囲をイスラム勢力に取り囲まれた中、キリスト教を維持してきたため、一時はプレスター=ジョンの国(中世ヨーロッパの伝説:イスラム勢力の背後にキリスト教徒であるプレスター=ジョンの国があり、いつかヨーロッパのキリスト教国と手を結んでイスラム勢力を駆逐してくれるというもの)に擬せられたこともある。
ラリベラ、ゴンダールなどの教会は世界遺産として登録されている。なお、エチオピアにはモーゼの十戒を納めた箱(アーク)が安置されている教会があるとも言われている。
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・エド |
エド、またはビニ、ベニンとも呼ばれる。ナイジェリア南部エド州を中心に居住しエド語(ベヌエ・コンゴ語派)を話す民族。現ナイジェリア南西部ベニンシティーを都とし、13C頃〜19C末にかけて栄えたベニン王国を建国した。文化的、政治的に西の隣人であるヨルバ人と深い関係がある。
ベニン王国の宮廷美術家たちはアフリカの歴史を通じて最高峰といわれる象牙細工(いわゆるビニ=ポルトギーズ)と青銅彫刻を作り出したことでしられている。ブロンズ彫刻の中ではさまざまな場面でのオバ(王)の姿を浮き彫りにした青銅版、彫刻を施した象牙を立てるための人頭型の青銅製の台(王の肖像とも言われている)などは非常によく知られ、中には470万ドル(円じゃないぞ!!)の値がついたものもある。
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・エドワード湖 |
ルウェンゾリ山地の南、ウガンダとコンゴ民主共和国の国境に位置する湖。現地名ルタンジウェ湖。アフリカ大地溝帯の内部にあり、アフリカ大湖沼の一角をなす(その中では最小:面積2300ku)。北のアルバート湖への流出河川(セムリキ川)を持ちナイル河水系の一部をなす。
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・エネディ山地 |
チャド北東部に位置するサハラ沙漠内の高原地帯。最高峰はバソ山で1450m。ムルディ盆地をはさんだ北東にはティベスティ山地が、南部にはジェベル=マッラ(マッラ山地:スーダン共和国)が連なる。サハラの岩面画が多く遺されていることでも知られている。主な住民はラクダ遊牧民のトゥブ。
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・エフィク |
ナイジェリア南東部クロスリバー州からカメルーン北西部にかけての沿岸部を中心に居住する民族。近縁の民族にイビビオ、オロン、アナングなどがある。沿岸部を居住地としていたため来航したヨーロッパ人商人と内陸部の民族の仲介者としても活躍した。
エフィクや近縁のイビビオ、オロン、アナング、さらに近隣のエコイなどの民族はエクペと呼ばれる秘密結社組織を持ち仮面を用いた儀式をおこなう。
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・エブリエ |
コートジボワールの実質的な首都アビジャン地域を主な居住地とするアカン系民族。エブリエは近隣民族からの他称であり自称はチャマンまたはアチャン。18Cごろ現ガーナ中部から現住地に移住してきたものと考えられている。
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・エボニー |
カキノキ科Diospyrus種の木のうち芯材が黒いものは全てエボニーと呼ばれている。アフリカンエボニー/アフリカコクタンノキは中部アフリカからナイジェリア・ガーナ沿岸部にかけての熱帯雨林地方に生え、芯材は黒、辺材はクリーム色を帯びた白でその境の材は黒と白の美しい模様を描く。
エボニーの木質は非常に緻密かつ堅牢で加工が容易でないため、アフリカの伝統彫刻に用いられることは少ないが、その美しい黒い木肌・木目を活かした現代彫刻・工芸品が盛んになってきている。
また美しい木材であるので、エボニーの地に金属象嵌を施したアクセサリー(北アフリカ、サヘル諸国)や、ナイフなどの柄、各種工芸品の高級木材としても珍重されている他、世界各地に輸出され彫刻・工芸品・家具(化粧板)などに加工されている。
日本で黒檀と呼ばれているものは主にインドおよびインドシナ半島からのものである。
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・エリュトゥーラ
海案内記 |
1C(西暦40年〜70年頃?)にギリシア人の船乗りによって書かれたと考えられているインド洋交易の航海案内記。
インド洋交易は当時すでに盛んであり、この案内記は単なる水先案内書にとどまらず紅海沿岸、アラブ、ペルシア、インド、アフリカの角、アフリカ東岸など非常に広範囲に及ぶインド洋交易圏の各貿易港の特産品、場合によってはその内陸部の情報などについても言及していて、第一級の歴史資料となっている(中国についての記述や中央アジア:現アフガニスタン?についての記述もある)。
特にアフリカ史においてはその時代のアフリカの角、東海岸、およびその内陸部の情報(アクスム王国、現ソマリアの貿易港、現ケニア・タンザニアの貿易港など:香料、香辛料、象牙、奴隷などが主要積み出し品として上げられている)などは非常に少ないため貴重な研究資料となっている。
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・エリトリア |
北東アフリカは紅海に面した国であり三方をスーダン共和国・エチオピア・ジブティに囲まれている。1993年にエチオピアから独立した、アフリカで二番目に新しい(国際的に承認された)独立国である(一番新しいのは南スーダン共和国)。
主な民族はティグレ・アファールなど。
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・エル・ハジ=
ウマル=タール |
1797?年〜1864年。トゥクロール人のイスラム神学者、宗教改革指導者。19C半ばにセネガル河中流域に興りに瞬く間に西アフリカ内陸部の大半を席巻したトゥクロール帝国の建国者。
ハジ=ウマルはティジャーニ派の教団でイスラムを学び、1820年ごろメッカへ巡礼した。メッカでスーダンのカリフ位を授けられたハジ=ウマルは巡礼の帰途、義父にあたるソコト帝国の皇帝ムハンマド=ベロ(ウスマン=ダン=フォディオの息子)のもとで政治を学んだ。
1840年頃フータ=トロに帰ったハジ=ウマルは宗教改革に取り組み支持者を拡大し、1854年にジハードを宣言。当時セネガル河をさかのぼり内陸に勢力を拡大していたフランス軍と衝突するが敗走。以後ジハードの対象を内陸に向け1854年カアルタ王国占領、61年セグー王国占領、62年マシーナ王国占領、63年トンブクトゥ占領と破竹の勢いで支配を拡大、セネガル河中流域からニジェール河中流域に及ぶ大帝国を樹立した。
ハジ=ウマルはトンブクトゥ占領後トゥアレグ、フルベの反撃を受け、避難中の洞窟を爆破され1864年に戦死した。その後、甥のティジャニ=タールが跡を継いだが、支配下の諸民族の反乱が相次ぎ1890年にはフランス軍が首都セグーに入城し、トゥクロール帝国は滅亡した。
エル=ハジ=ウマルのジハードの結果、支配下の諸民族(バンバラなど)を強制的にイスラムに改宗させたことにより西スーダンのイスラム化が進んだ。
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お |
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・オアシス |
沙漠などの乾燥地域で局所的に水の豊富な土地・地域。局所的に地下水位が高くなった場所からの湧水、井戸などによる地下水型オアシスと、河川型オアシスの二種のオアシスがある。
サハラに点在するオアシスの多くは地下水型オアシスであり、古来サハラ縦断交易の中継点として利用されてきた。大きなオアシスではオアシス農耕という独特の農法がおこなわれ、麦類、ナツメヤシなどが栽培されている。
ナツメヤシの繁るオアシス村は砂の海に浮かぶ島であり、長距離交易に従事するキャラバンにとって、給水、食糧補給、休養などが得られる重要な場所であった。このようなオアシスのうちのいくつかは長距離交易の中継地、拠点として都市へと発展した(シンゲッティ、ワラタ、アガデスなど)。
乾燥地帯に多く見られるワジは普段は水の無い涸れ河であるが(雨期には水が流れる)、水が地表を流れていな維持期にも地下には拭く流水が流れている場合があり、その伏流水からの湧き水、井戸によるオアシスが、ワジ沿いに見られることも多い。
地下水型オアシスには湧水や垂直型の井戸によるもののほか、町・村からかなり離れた場所から掘り抜き井戸(フォガラ:中東・アジアではカレーズ・カナートなどと呼ばれる)により地下水を引いてきたものもある。このタイプのオアシスは北アフリカには存在するが、通常サハラ以南では見られない。
河川型オアシスの代表例としては北アフリカではナイル河、西アフリカではニジェール河があげられる。乾燥地帯を貫いて流れる水量豊かな川は乾燥地帯にもかかわらずその周辺で農業、多数の人口を抱えた都市の建設を可能にする。ヘロドトスが言ったようにエジプトはナイルの賜物であり古代から現代にかけて、エジプトの主要都市、穀倉地帯はナイル河沿いに発展してきた。
西アフリカのニジェール河は中流部で北に向かって大きな弧を描くようにサハラの南の縁を横切って流れ、沿岸には古くからトンブクトゥ、ガオなどの大交易都市が発展し、時代が下ってからはバマコ(マリの首都)やニアメ(ニジェールの首都)が建設された。
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・王殺し |
国王が病気や老いなどで自然死することを許されず、人為的な死に方をしなければならないという習慣(制度)。古くは世界のさまざまな地域でこの習慣が存在したと考えられている。
アフリカでもジュクン、アンコレ、ブニョロ、キジバ、ロズウィなどいくつもの社会(王国)で王の殺し方こそさまざま(服毒自殺、毒殺、絞殺、干殺しなど)であるがこの「王殺し」という習慣が見られた。
この習慣(制度)を持っていた国々の国王はいずれも神聖王的性格を持ち、王には神々や偉大なる祖霊の霊力が宿るとされていた。老衰、重病などにかかった王はこのような強大な力をその身に宿すことができないとされ、また国王≒国家であるため王の衰え≒国家の衰えとなるため、活力の衰えた王は何らかの方法で殺され(もしくは自殺し)、活力にあふれた新たな王が即位した。
この習慣はイギリスの社会人類学者フレイザーの著書「金枝篇」によって紹介され広く世に知られるようになった。
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・オカバンゴ川 |
南部アフリカを流れる国際河川。全長1600km、流域面積53万ku。アンゴラの高原地帯に源を持ちアンゴラ・ナミビア国境地帯を通ってボツワナに至り、同国北部のオカバンゴデルタに注ぐ。世界最大クラスの内陸水系であるオカバンゴデルタの主な水源となっている。
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・オカバンゴ
デルタ |
ボツワナ北部、カラハリ沙漠の北に位置する世界最大の内陸デルタ。オカバンゴ湿原、湿地、沼沢地などとも呼ばれる。海への排水口を持たず、ボツワナ北部、アンゴラ南西部、ナミビア北東部の乾燥地帯の水系の多くがオカバンゴ水系に含まれる(主な水源はアンゴラ中部に源流を持つオカバンゴ川)。増水期にはその面積は1万5千〜2万5千kuに達しカラハリ沙漠の北部を湿潤の地に変える。
サン、ツワナなどが主な住民。豊かな自然と動物相を持ち、オカバンゴデルタでのサファリツアーはボツワナ観光の目玉となっている。
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・オカピ |
鯨偶蹄目キリン科に属する動物の一種。キリンを短頸短足にしたような姿をし、足にはシマウマのような縞模様がある。肩高1.6m、体長2.2m、体重230s位が標準的な体格。主にコンゴ民主共和国北部の密林、河畔に生息する。
大型哺乳類としては非常に「発見」されるのが遅く新種として認定されたのは1902年のことであった(欧米人による発見および新種としての認定のこと。現地の人:ピグミーなどはその何百年も前からオカピの存在を知り、狩り、食べてきた)。
キリンの祖先に非常によく似た姿をしているため「生きた化石」とも呼ばれ、ジャイアントパンダ・コビトカバとともに世界三大珍獣と呼ばれることもある。
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・お気に入りの
牛 |
東アフリカの牧畜民族には牛を世界観の中心としている民族が多い(東アフリカ牛牧文化複合)。彼らは大きく分けてクシ語系とナイル-サハラ語族東スーダン諸語に属するものの二系統があり、そのうちの東スーダン諸語に属する諸牧畜民族に広く見られる習慣が「お気に入りの牛(好みの牛)」と呼ばれる、一定の基準に従って選んだ牛を特別にかわいがって育てるという習慣である(東スーダン語系牧畜民が全てこの習慣を持っているわけではない)。
エチオピア南西部の牧畜民ボディを例にとってみると、ボディの子供は牛の色・模様にちなんだ名をつけられ、青年になると自分の名前と同じ色・模様の牛を見つけ出し、それを大事に育てる。牛を世界観の中心にすえるボディ社会において、このお気に入りの牛はその青年にとっては自分の分身とも言える存在である。その牛が死ぬ時には特別の儀式を行い、さらにその死後には、牛の弔いとして他民族のものを一人殺すという習慣があった。
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・オグン |
ヴードゥー教の神々の一人。鉄と火の神、狩人と鍛冶師の守護者、戦争の神として崇められ、ヴードゥーの神々の中で最も広く信仰を集めている神の一人である。
ヨルバの神話によればオグンは最初に地上につかわされた神であり、その役目は人々の住める場所を探す(もしくはつくる)ことであったという。
フォンの神話ではグーと呼ばれている。
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・オゴニ |
ナイジェリアのニジェール河河口デルタ地域を主な居住地とする民族。ベヌエ=コンゴ語派クロスリバー諸語に属する五つの言語を持つ。
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・オコムフォ
=アノキエ |
17C末〜18C初頭にかけて活躍したアシャンティの高僧、法律学者。アシャンティ連合王国の建国者オセイ=トゥトゥの片腕としてアシャンティ王国の建国、法整備などに貢献した。
伝説によれば1695年頃アノキエは「アシャンティは一つの大きな民族となるべし。」とのジ・ニャメ(アカン系民族の至高神)の啓示を受けた。オセイ=トゥトゥが召集したアシャンティの大集会の場で、アシャンティの魂が宿るといわれる黄金の床几を天から降臨させ、その床几をアシャンティの象徴とすることでそれまで小さな国家群に分かれ近隣の強国から圧迫されていたアシャンティの大同団結を図った。
アノキエが天から降ろしたと伝えられる黄金の床几は代々のアシャンティ王に受け継がれ、全アシャンティの象徴として現在でも敬意を集めている。
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・オセイ
=トゥトゥ一世 |
アシャンティ連合王国の創始者・初代アサンテヘナ(アサンテ=アシャンティ。ヘナ=王)。アシャンティの弱小国家群の一つクマシ(現ガーナ中部)の王子として生まれたトゥトゥは近隣の強国アクワムやデンキイラで帝王学を学んだのち、アクワムから招いた高僧オコムフォ=アノキエとともニアシャンティ諸国の統一に乗り出した。
1690年ごろにクマシの王位についたトゥトゥは伝説によれば1695年ごろアシャンティ人の大集会を召集し、その場でアノキエが「神がアシャンティを一つの大きな民族とすることを命じた。」と宣言し、天からアシャンティの魂の宿る黄金の床几を降臨させたという。以後この黄金の床几はアシャンティ民族の象徴とされてきた。
アシャンティの統一を果たしたオセイ=トゥトゥはそれまで貢納してきた近隣の強国デンキイラを打ち破り(1701)ついでデンキイラの同盟国アキムを攻めたが、戦闘中に狙撃され死亡した(1719年。1712年、1731年説もある)。
トゥトゥの起こしたアシャンティ連合王国はその後約2世紀に渡り中央ギニア一の強国として繁栄した。
なおバウレの祖といわれるアウーラ=ポクはトゥトゥ一世の姪であり、一世の死後に起こった後継者争いから逃れ、一族と共に現コートジボアールへと移住し、そこからバウレ民族が興った。
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・オバンボ |
ナミビア最大の人口(約90万人)を持つ民族。アンボとも呼ばれバントゥー系の言語を持つ。ンドンガ、クワニャマ、クァンビなど8つの氏族からなり、ザンベジ河上流地域からナミビア北部地方へと移住してきたと考えられている。
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・オビムブンドゥ |
アンゴラ中央部に住むバントゥー系民族。主に農耕・牧畜・商業などに従事する。アンゴラ最大のエスニックグループであり全人口の1/3強を占める。ややこしいけどムブンドゥとは別の民族である。
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・オモ語派 |
アフロ-アジア語族に含まれる語派のひとつ。エチオピア南西部に居住するいくつかの少数民族がこの語派に属する言語を持つ。南オモ語派と北オモ語派に下位分類され、南にはハメル・バンナ・アアリなどが、北にはマオ・ディズィ・ゴンガなどの言語が含まれる。
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・親指ピアノ |
ラメラフォーン。木箱やひょうたんで作った共鳴器の上に細長い金属片を取り付け、金属片をはじいて音を出す楽器。その金属片をはじくのに主に親指を用いるため日本語では親指ピアノと総称されている。アフリカにしか見られない楽器である。
西アフリカのみならずアフリカ各地で広く見られる楽器であり、様々な名称で呼ばれるが西アフリカではおおむねカリンバ、南部アフリカではムビラと総称されることが多い。大きいもの、小さいもの、共鳴器にひょうたんではなく木の箱を使ったもの等さまざまな形態がある。
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・オヨ |
ナイジェリア南西部、ニジェール河下流域の西に作られたヨルバ諸国のひとつ。ヨルバ諸国の中で最大の版図と勢力を誇った。伝承によれば初代オヨ王オラニヤンはイフェの建国者の末息子だといわれている。
13・14Cごろに始まりスーダンとギニアを結ぶ交易網の要衝として栄え、ヨーロッパ諸国との交易が始まると奴隷貿易で大きな利益を上げた。奴隷交易を通じヨーロッパ人から手に入れた銃火器を装備したオヨ王国は16C末頃から版図を拡大。現在のナイジェリア西部州からガーナのボルタ河流域にいたる王国を築き18Cにはダホメー、アジャ等の周辺諸国を朝貢国とした。
18C末頃から内乱、ソコト帝国の圧迫、ダホメーの離反などが相次ぎ国力は衰退。19C半ばに消滅した。
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・織物 |
→布 |
・織り文様 |
→布 |
・オルング
王国 |
18C初頭から1927年にかけて現ガボン沿岸部に繁栄した王国。初期には中部アフリカ内陸部の特産品(象牙、黒檀など)と沿岸部を訪れるヨーロッパ人との貿易仲介者として、中期以降はそれにくわえ奴隷貿易の仲介者として財を蓄え、同地方で最も繁栄した王国のひとつであった。
オルング王国は奴隷貿易の衰退と共に没落し最終的には1927年にフランス植民地となった。
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・オレンジ河 |
レソト北東部バスト高地(ドラケンスバーグ山脈の一部)を源とし南アフリカ共和国を東から西に横断して流れるアフリカ第六の大河。下流部では南アとナミビアの国境をなしている。全長2100q、流域面積102万ku。
年によって水量の差が大きいことがネックとなっているものの、降水量の少ない南ア共和国中部では貴重な水源となっている。
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・オロモ |
エチオピアの主要民族のひとつ(最大の人口を持つ)。エチオピア中部・南部からケニア北東部にかけて居住する。伝統的生業形態は農耕牧畜民。アフロ‐アジア語族クシュ語派に属する言語を話す。近隣のラクダ遊牧民ガブラと牛牧畜民ボラナとは近縁関係にあり、同地域に移住してきたオロモのうち牛牧に特化したものがボラナに、ラクダ遊牧に特化したものがガブラになったと考えられている。
原住地は現エチオピア南部であったが16C以降勢力を拡大し、エチオピアの半分を押さえるまでになった。現在アムハラを上回りエチオピアで最も人口の多い民族である。
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・オロン |
ナイジェリア南東部クロス川河口地域に居住する民族。イビビオ、エフィク、エケットなどとは共通の伝承上の祖先を持つなど近縁関係にある。
20C初め頃から自ら彫像を作るのをやめ、近縁のイビビオなどに彫像製作を委託するようになった。現在オロンの作った彫像は100点ほどしか残っていないが、イビビオの彫刻とはかなり作風が違い、キュービズム的な色合いが濃い作品が多い。
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