か |
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ガ=
アダングベ |
ガーナのアクラ首都圏からトーゴにかけての地域に居住する民族ガとアダングベの総称。クワ語系の言語を持つ。ガーナの現代工芸(美術)の中でも注目されているユニークな形と彩色の棺桶を作ることでも知られている。
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・カアルタ王国 |
18C中ごろにセグー王国内の権力争いに敗れたバンバラ人の一派が建てたバンバラ人の王国。現在のマリ共和国からモーリタニア国境にかけての地域、つまり古代ガーナ王国の栄えた地域を統治した。
19C半ばにエル・ハジ=ウマルのトゥクロール帝国に滅ぼされた。
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・ガオ |
マリ共和国東部ニジェール河沿いの交易都市。かつてのソンガイ帝国の首都でありサハラ縦断交易の重要な拠点としても知られている。
いつ頃からガオに人間が定住し始めたかは定かではないが伝説によると7C頃にソンガイ人が先住の住民を追い払いガオに住み着き始めたという。ガオをソンガイ王国の首都に定めたのはイスラムに改宗したディア=コッソイという王であり11C初頭の出来事であったといわれている。
ガオは14C初頭にはサハラ縦断交易の西・中央ルートをすべて掌握することを狙ったマリ帝国に併合されたが1370年代には独立を回復。15C後半から始まるソンガイ帝国の首都として、またサハラ交易の富によって栄えたが、1591年のモロッコ軍侵攻により破壊された。
15Cに建てられたガオの大モスクはアスキア大帝の墳墓でもあり現在世界遺産に登録されている。
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・カゴ |
→バスケタリー |
・ガザ王国 |
1820年代にズールー(?)の将軍ソシャンガネと彼に率いられたズールー、コーサ、ツォンガなどによって南部アフリカ南東部に建国された王国。現モザンビーク南部、ジンバブウェ南東部にかけての地域が主な領域であった。
1895年に最後の王がポルトガルとの戦いに敗れ捕虜となり(その後アゾレス諸島に流刑にされその地で死亡)、ガザ王国は消滅した。
王国は別名シャンガーン王国ともいい、現在ツォンガの人々もまたシャンガーンと呼ばれることもある。
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・カサイ川 |
コンゴ河の支流のひとつ。アンゴラ北部に端を発し北へ流れコンゴ民主共和国に入り同国の首都キンシャサの上流でコンゴ河に合流する。
いくつもの支流を持ちそれらを含めた流域面積は数あるコンゴ河の支流の中でも広いほうに入る。流域の中にはコンゴ盆地の熱帯雨林地帯を多く含む。
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・カザマンス |
大西洋に面した港街ジガンショールを中心都市とするセネガル南西部の地方。北のガンビアと南のギニアビサウに挟まれた地域に相当する。主な住民はジョラ人でありセネガルの中ではキリスト教徒が多い地域である。
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・鍛冶 |
鉄鉱石の探査、採取、精錬、鉄器の製作、修繕などをおこなう職人。
西アフリカでは、様々な内婚制の職能集団を内包し一種の職業カースト制度を持つ民族社会が多く存在する。それらの職能集団の中でも特異な位置を占めるのが鍛冶師である。
鉄鉱石の探査、採掘、精錬、鍛造といった素人目には魔法のようにも見える過程を経て、そのままでは何の役にも立たない石ころ(鉄鉱石)を加工し、日常生活に欠かせない農具から非常に大きな殺傷力を持つ鉄製の武器までを創り出す鍛冶師達は、魔術的な力を持つものとして畏怖の対象でありながら畏れ遠ざけられてきた。
専門の彫刻師や仮面製作をおこなう結社を持たない社会では、魔術的な力を持つとみなされている鍛冶師が仮面や彫像の製作をおこなうことが多く、また様々な儀式・祭事においても、彼らの持つと考えられている超自然的な力ゆえに重要な役を演じる例も多い。
西アフリカの職業カーストをもつ社会ではしばしば鍛冶師(男)は土器作り(女)と内婚集団を作っている。
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・絣 |
かすり。織る前の糸を染色する際に、繊維で縛るなどして糸の一部に防染を施した糸で織った布。絣織り(かすりおり)とも。織り上げたときに防染を施した部分が文様となるように計算して防染を施す。アフリカではヨルバの藍染め絣・バウレの絣布が有名である。
経糸に防染を施したものを経絣(たてかすり)、緯糸に防染を施したものを緯絣(よこかすり)といい、アフリカの絣織りはすべて経絣(たてかすり)である。
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・カセナ |
ガーナ共和国北部を主な居住地とする民族。グルンシのサブグループのひとつ。伝統的生業形態は農耕であり、他のグルンシ人たちと同様、仮面などの彫刻の名手である。カセナの既婚女性(一家の主婦)はつや光りするまで磨き上げた大小さまざまなひょうたんを柱状に積み上げたザノと呼ばれるものを持ち、それを主婦権の象徴としている。
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・ガゼル |
ウシ目ウシ科ガゼル属に属する動物の総称。ウシ科のほかの動物群とともにレイヨウと総称されることもある。アフリカ全土、ユーラシア大陸などに分布する。多くの種が含まれるがなかでも有名なのが東アフリカのサバンナに棲息するトムソンガゼルであろう。
ガゼルの雄は一般に太く長い角を持ち、その優美な姿から仮面や彫刻のモチーフとされることが多い(マリのバンバラ人のチワラ像、ブルキナファソのボボ人のコバマスクなど)。
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・カゼンベ
王国 |
1740年ごろ、ルンダ王国から東に移住したンガンガ=ビロンダによって建国された王国。王号からムワタ=カゼンベと呼ばれることもある。
17C半ばに建国されたルンダ王国は中部アフリカで最も強力な中央集権国家の一つであり、ルンダ王国の周辺には移住したルンダ人による小王国群がいくつも建国され、カゼンベ王国はその中で最も大きな国の一つであった。
カゼンベ王国は中部アフリカ内陸を横断または縦断する交易路の要衝を占め、交易の利潤によって繁栄したが1860年代から近隣に興ったイェケ王国の侵攻などがあり国力を消耗、1894年にベルギーとイギリスの分割統治下に置かれた。
ベルギー領となったカゼンベ王国西部は1960年にコンゴ共和国(現コンゴ民主共和国=旧ザイール)として、イギリス領であった東部(北ローデシア)は1964年にザンビアとして独立を達成した。
カゼンベ王国の王室は現在まで存続していて現当主は第19代目となる。
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・カソ王国 |
17〜19Cに現在のセネガル東部とマリ共和国西部を支配した王国。17C末にこの地方に移住してきたフルベ人の一派が先住のマンデ系住民と混交しながら建国した。
19C半ばにトゥクロール帝国の侵攻にされされるがフランス軍の援助もあってこれを撃退。しかし次第にフランスに実権を奪われ1880年にフランス領西アフリカに併合された。
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・カツィナ |
ハウサ-バクワイ(ハウサ七国)と呼ばれたハウサ諸国の中でも古く、権威のある都市国家のうちの一つ。11C頃には建国されたと考えられている。
カツィナはハウサランドの商業の中心地であり、ハウサ諸国中最大の国家として栄えたが、1807年、ウスマン=ダン=フォディオの率いるフルベのジハードによって陥落、ソコト帝国の版図となった。
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・カドゥナ川 |
ニジェール河の支流のひとつ。ナイジェリア中部ジョス高原に源を発し、カドゥナ(都市の名前)を経由し西へ流れナイジェリア中部パテグ付近でニジェール河本流に合流する。総延長550q、日本の基準で言えば堂々たる大河だが、この地域では何本もあるニジェール河の支流のひとつに過ぎない。
流域には西アフリカ最古の鉄器文化、ノク文化、ハウサ都市国家ザリア、ヌペ人による王国など古くから様々な文化、王国が隆盛し、アフリカの歴史を語る上で欠かすことのできない地域である。
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・ガーナ
(共和国) |
西アフリカギニア湾に面した国。古くから豊富に金が取れることで知られ、17C末から19C末にかけてはアシャンティ王国が栄えた。
南の熱帯雨林から、北へ行くにつれ徐々にサバナ気候に変わっていく。植民地化されていたサハラ以南のアフリカ諸国の中で最も早く独立を達成した国(1957)。ガーナという国名は、7,8C〜11Cに現在のマリ、モーリタニアの辺りに存在した強大なガーナ王国(古代ガーナ)の住民が南に移住し、アカン系民族の始祖となったとの伝説からとられた。
主な民族はアカン系諸民族(アシャンティもこの中に含まれる。)、モレ=ダグボン、ガ=アダングベ、モシ、ガン、エウェなど。
ケンテ布やアクワバ人形、アシャンティ独自の紋章を施した工芸品は広く知られている。
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・ガーナ王国 |
現在のマリ、モーリタニア領を中心に栄えた古代王国。起源は4世紀にまで遡るとの説もあるが、概ね7,8C頃ではないかと言われている。
ガーナの王はカヤ-マガン(黄金の君主)とも呼ばれた。この称号が示すとおり、ガーナ王国は領地のセネガル河流域で豊富に取れる金とサハラで採掘される岩塩の交易で(または南方の国の物資と北方の国の物資の交易の仲介業者として)莫大な利益を上げた(ガーナの王は国に入ってくる塩には金1ディナールの、出て行く塩に対しては金2ディナールの税を徴収したとの記録が残っている)。
ガーナ王国の首都にはガーナ人(マンデ系のソニンケであったと考えられている。)の街と、交易に従事するアラブ人、ベルベル人たちのムスリムの街があったという(現モーリタニア領のクンビサレー遺跡はガーナ王国の首都の遺構と考えられている。アラブの地誌家が記した王の街とムスリムの街によく似た街並みが発掘された)。
交易で得た利益をもとに当時のアフリカで最大最強の国家となったガーナ王国であったが、11C半ば〜後期にかけてのベルベル人によるジハード(ムラービト朝の拡大)により崩壊した。(ガーナ王国の残存政権はマリ帝国支配下の地方領主として存続した。)
ガーナ王国は西アフリカ初の広域国家であり、トランスサハラ交易の発展に大きく寄与した。
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・カナリア諸島 |
テネリフェ、グラン-カナリア、ランサローサ、ラ-パルマ、ラ-ゴメラ、エル-イエロ、フエルテベントゥーラの7つの島からなる、アフリカ北西部西サハラ沿岸(大西洋)に浮かぶスペイン領の群島。地理的にはアフリカ州に含まれる。
カナリア諸島にいつ頃から人類が定住を始めたのは定かではないが、フェニキア、ギリシャの航海者にはその存在を知られていたという。15Cにはカスティーリャ王国(スペインの前身)に征服され、そのままスペイン領として現在に至っている。
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・カヌリ |
チャド湖周辺のニジェール、チャド、カメルーン、ナイジェリアの国境が接する地域に暮らす人口400万を数える民族。9Cから19Cまで続いたカネム=ボルヌー帝国を築いた。ナイル-サハラ語族に属する言語を持つ。
7C頃アラブの進出により北アフリカから追われたベルベル系民族とナイル上流から移住してきた民族が混合し現在のカヌリ民族が形成されたと考えられている。伝説によれば9Cにカネムの地にやって来たイエメンの王子がカネム=ボルヌー帝国を建国しカヌリの祖になったと伝えられている。
カネム=ボルヌーの王統は19C半ばに途絶えたがナイジェリア北東部にあるボルヌー教主国がカヌリの宮廷儀式などの伝統を現在まで伝えている。
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・カネム=
ボルヌー
帝国 |
9〜19Cにかけてチャド湖周辺を中心としてチャド盆地一帯に栄えた帝国。9〜14C後半までをカネムー帝国、それ以後をボルヌー帝国と区別することもある。時代により異なるが、フェザーン地方(リビア南西部)、チャド西部、ニジェール東部、ナイジェリア北東部、カメルーン北部などが版図(もしくは勢力圏)に含まれていた。
初期の王朝の支配者は北からやって来たザガワ人(トゥブ系?)であったが、その後10C中頃にカヌリ人がチャド湖北東のカネム地方建てた王国がその支配を引き継いだ。11C頃にイスラム化した後、大規模な騎馬軍団を組織し版図を拡大、中央スーダンにおけるサハラ縦断交易の要衝として栄えたが14C後半にブララ人の反乱によりチャド湖東部の領土を失い、チャド湖南西のボルヌー地方に国家の中心を移した。
16C初頭からカネム=ボルヌーは失地回復の戦いをはじめ、時の王イドリス=カルタルマベ(在位1507〜1529年)はガルニ=キヤラの戦いでブララ人を打ち破った。その結果ブララ人の支配するチャド湖東部に対するカネム=ボルヌーの宗主権を認めさせることには成功したが、完全な失地回復は16C末のイドリス=アロオマ王の出現を待たねばならなかった。
カネム=ボルヌー帝国最盛期の王といわれるイドリス=アロオマはブララ人の支配地を再征服し帝国の再統合を果たした。彼はまたサハラを越えて輸入した大量の銃で組織した帝国の鉄砲隊により中央スーダンの支配を強固にし、サハラ縦断交易による収入は帝国を潤した。
サハラ縦断交易の支配権を失った18C半ば頃からカネム=ボルヌー帝国は徐々に衰退を初め、1808年にソコト帝国により首都が陥落。19C末にはその残存勢力も現スーダン出身の奴隷商ラービフによって征服された。
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・カノ |
ナイジェリア北部ハウサランドの北部に位置する都市。ハウサ七国と呼ばれたハウサ諸国の中の代表的な都市国家であり伝承によればその起源は10Cまでさかのぼる。14C半ばに当時隆盛を誇ったマリ帝国から来た学者によってイスラム化した。時に東の大国カネム=ボルヌーに朝貢したり、東の強国ソンガイ帝国の勢力下に入ったりしながらも独立を維持し、サハラを越えてやってくる商品とサヘルの南の商品の交易の仲介者として繁栄を謳歌した。
19C初頭にフルベのジハードによりソコト帝国に占領されその後1903年にイギリスの支配下に入った。カノは西アフリカでも最も栄えた商業国家のひとつであったと共に皮革製品、綿製品などの手工業都市としても西アフリカ有数の都市国家であった。特にカノの革製品はサハラを越えモロッコ経由でヨーロッパに入り、モロッコ革の名で広く愛用された。
カノは現在でもナイジェリア北部の商工業、政治、文化の中心都市としてハウサランドの中で重要な位置を占めている。
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・カノ年代記 |
1890年頃に書かれたと思われるアラビア語の歴史書。カノとハウサの歴史が記されている。19C初頭のフルベのジハードによりハウサランドの古文献のほとんどが失われたため、その後書かれたこのカノ年代記は、ハウサ諸国の歴史を研究する上で非常に貴重な資料となっている。
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・カバ |
偶蹄目カバ科カバ属の大型草食獣。地上動物としてはゾウに次ぐ大きさでありかつてはアフリカ全土に生息したが現在は北緯17度以南のアフリカの湖沼地帯や川に生息する。
西アフリカ熱帯雨林の湖沼地帯に生息するコビトカバは別属(カバ科コビトカバ属)である。
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・カバンゴ |
ナミビア北部アンゴラとの国境に近い地域を主な居住地とする民族。オカバンゴ川での漁労や農耕を主な生業携帯とする。
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・ガブ王国 |
1537年〜1867年にかけてセネガンビア、現ギニア=ビサウを領土として栄えたマンデ系の王国。
同地域は13C初頭頃にマリ帝国の支配下に組み込まれ、先住民をマンデ系の支配層が統治するという構造が出来上がった。その後マリ帝国の没落などを経て1537年にこの地域のマンデ系支配層が単独の王国として独立したものがガブ王国である。
19Cにはいるとフータ=ジャロンに興ったフルベのジハード勢力に悩まされ始め、1867年にエル・ハジ=ウマルのトゥクロール帝国に征服された。
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・ガブラ |
主にケニア北部のチャルビ砂漠やその北のエチオピア南西部高原地帯に居住するラクダ遊牧民。ガブラはオロモ語(アフロ-アジア語族クシュ語派)の一方言であるボラナ語を母語とするなど、近隣のオロモ人とは密接な関係にある。
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・カプリビ回廊 |
南部アフリカはナミビアの北東部から東西に細長く飛び出した(約450q)ナミビアの領土。アンゴラ、ボツワナ、ザンビアと国境を接している(ジンバブウェとは国境を接してはいないがカプリビ回廊の先端とジンバブウェ領は間にボツワナ領を挟んでわずか300〜400mの距離である)。
19C末にナミビアを植民地化したドイツがドイツ領東アフリカ(現タンザニア)への通路として獲得したためこのように細長い領土となった。
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・カブレ |
トーゴ北部の山岳地帯に居住する農耕民族。17,8Cにモシ王国やバリバの奴隷狩りから逃れるために峻険な山岳地帯に移住してきた。
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・カーボ
ベルデ |
西アフリカはセネガルの西沖約600kmの大西洋上に浮かぶ島国。大航海時代初期にヨーロッパ人が到達するまでは無人島であったと考えられている。その後15C末にはポルトガル領となり奴隷貿易に中継地として繁栄した。1975年にポルトガルから独立(1974年のポルトガルカーネーション革命によって成立した新政府がアフリカのポルトガル植民地ギニア=ビサウ・サントメ=プリンシペ、アンゴラ、モザンビーク、カーボヴェルデの独立を承認)。当初は同じポルトガル植民地のギニア=ビサウとの国家統合を目指していたが実現しなかった。
人口の大半はポルトガル人入植者とアフリカ人の混血の子孫であ利、ポルトガル語とアフリカの諸言語が混ざり合ったクレオール語を話す(公用語はポルトガル語)。
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・ガボン |
中部アフリカギニア湾に面した国。国土の大半は熱帯雨林。石油や鉱物資源によりGDP/人口はサハラ以南のアフリカではかなりの高水準。主な民族はファン、エシラ、アドゥマ、クウェレ、プヌ、ムポングウェなど。森林部には少数ながらピグミーが暮らす。
ファン、バコタ、クウェレなどアフリカ屈指の芸術民族が多く住み、アフリカ美術の宝庫のひとつとされている。特にファンの仮面、彫刻はアフリカ芸術を代表するものとして国際的に高く評価されている。(うろ覚えではあるが、何年か前にファンの古い仮面がウン百万ユーロで落札されたというニュースがあった。)
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・カミ遺跡 |
ジンバブウェ南西部の都市ブラワヨ近郊にあるロズウィ王国期の遺跡。15C頃に建設されたと考えられている。サハラ以南のアフリカでは珍しい石造建築群遺跡であり、やはりロズウィ王朝期に建てられた、グレートジンバブウェ遺跡の神殿、ドーロ・ドーロ遺跡などと共通する技術で作られている。17C頃に放棄された。
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・カメルーン |
中部アフリカギニア湾に面した国。半砂漠から熱帯雨林まで、低地から高原、高山・火山(カメルーン山など)まで変化に富んだ気候と地形、一説には250を超えるとも言われる多種多様な民族が暮らすこの国はアフリカの縮図と呼ばれることもある。
主な民族はファン、バミレーケ、ティカール、フルベ、ハウサ、キルディ(森林部には少数のピグミー)など。ファンはもとよりバミレーケ、高原地帯(グラスランド=カメルーンハイランド)の諸民族など、彫刻やビーズ細工等の芸術に長けた民族が多く住み、アフリカ美術の宝庫のひとつと評されている。
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・カメルーン山 |
カメルーン沿岸部北部にそびえる独立峰。標高4095m。現地名はモンゴ=マ=ンデミ。カメルーン最高峰であり、アフリカで最も高い火山のひとつである。現在も活動中の活火山であり最近も数度噴火している。カメルーン山はギニア湾に浮かぶ島ビオコ島(赤道ギニア)から北東に延びる構造線の上に位置し、この構造線に沿っていくつもの火山が並んでいる。
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・カメレオン |
トカゲ類カメレオン科の爬虫類の総称。アフリカ大陸の大部分に生息し、体長は最大のもので60cm程度、最小のもので3p程度である。カメレオンは周囲の環境に合わせて体色を変化させることでも有名であり、それゆえに神秘的な生き物と考えられている。
神話、民話などにもよく登場し、大体の場合トリックスターとしての役を演じている。仮面や彫刻のモチーフとしてもよく登場するほか、カメレオンの干物は薬、呪物として用いられる。
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・仮面 |
アフリカで仮面が用いられ始めたのは少なくとも紀元前後にまではさかのぼれる。アルジェリアのタッシリ=ナジェールの壁画にその頃描かれた絵には仮面らしきものをつけた人々の姿が描かれているからである。また、紀元前4Cごろから栄えたサオ文化(チャド湖畔)の遺跡からも仮面をつけた人物像と思われる粘土製の塑像が出土している。
一般論的に言ってアフリカの仮面や木彫り像などの木彫文化は農耕民の文化であり、遊牧民、狩猟採集民などはこれらの文化は持たない。また伝統的木彫文化は主に西、中部アフリカで盛んであり、東、南部アフリカではさほどでもない。
アフリカの仮面には顔にかぶる仮面(日本で言う仮面のイメージに最もよく合致するタイプの仮面)のほか、ヘルメット型仮面・頭上面などもある。
ヘルメット型仮面:顔ではなく頭に帽子のようにかぶる仮面。そのまま顔面まで覆うタイプのものもある(セヌフォの火を吹く仮面、ヨルバの仮面:ゲレデなど)。
頭上面:上記のヘルメット型仮面と区別しがたいものもあるが、カゴや革で作った帽子の上に取り付けて使用するタイプの仮面(彫像)。仮面としての機能を持つが、踊りの衣装や頭上に取り付けるための帽子などから切り離されて、形状だけで見る場合は彫像のように見える(当店でも便宜上、仮面ではなく木彫り像として分類している)。(バガのニンバ像、バンバラのチワラなど)
アフリカの伝統社会の中で仮面は重要な役割を果たしていて、仮面を製作・使用する民族の祭礼・儀式では仮面が中心的な役を演じるが、その重要性ゆえに、仮面を作っているところを人に見られてはいけない、とか、女子供は仮面を見てはいけない、などのタブーをもつ社会も多い。
しかしアフリカでは仮面そのものに価値を見出す社会は少ない。仮面はそれに対応する衣装、被り手の三者が祭礼・儀式(農耕際、葬式、通過儀礼、秘密結社の儀式など)の場に現れることによってはじめて神話的・宗教的な意味を持ち、被り手(踊り手)は、人ではなく仮面に宿る精霊や祖霊そのものとみなされる。そのため祭礼が終わったあとは仮面を廃棄してしまう民族も多く(次の年の祭礼時にはまた新しく作る)、そのことは気候的な要因と並びアフリカの仮面で古いものがあまり残っていない原因のひとつとなっている(古い時代の仮面はほとんど残っていない。古くても数百年程度)。
西、中部アフリカでは仮面結社を持つ民族も多く、その社会では仮面を用いた儀式をつかさどるのは結社成員である。いずれにせよ精霊、祖霊、超常力のよりしろとなるべき仮面は、アフリカ人の世界観を木から彫り出したものであり、その生命力と独創性に満ちたかたちは見る者をあきさせない。
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アフリカの仮面
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・カヨール
王国 |
14C半ば?ジョロフ王国の宗主権のもとに現セネガルの北西部につくられたウォロフ人の王国(カイヨール、カジョールとも)。
初期にはジョロフ王国を形成する小国家群のひとつに過ぎなかったが15C半ばから始まったヨーロッパ人との交易を通じて力を蓄え16C半ばにジョロフ王国からの独立を達成した。セネガンビアのウォロフ系王国分立時代に最も力のあった国であり、フランスによる植民地化にも20年以上にわたり激しく抵抗した。抵抗戦を指揮したカヨール王国実質上最後の王ラット・ジョール=ジョップは現在でもセネガルの国民的英雄として語り継がれている。ラット・ジョールの死(1879)をもってカヨール王国は実質上滅亡した。
なおセネガルの歌手ユッスー=ンドゥールとベネトンが2008年に設立したビリマ基金の「ビリマ」とはユッスーの代表曲のひとつであり、カヨール王国の王ビリマ=ンゴネ=ラティール=ファールのことを歌ったものである。
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・カラオー |
サイチョウ科の鳥の総称。沙漠を除くアフリカの大部分に広く生息する。体長は最大の種で1mほど、大体は60p程度である。
カラオーは、その特異な外観や声からアフリカの多くの社会で神秘的な鳥と考えられ、民話や神話などにもたびたび登場し、仮面、彫刻のモチーフとなってきた(セヌフォの羽根を広げた巨大なカラオー像は特に有名)。
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・ガラス絵 |
ガラスの裏面から絵の具を塗って描く絵画。通常の絵画とは描く手順が逆になる(細部を描き込んでから背景などを塗る)。アフリカのガラス絵としてはセネガルのもの(Sous Verre-仏語で“ガラスの下”の意−が訛ったスウェールと呼ばれる)が有名。
100年以上の伝統を持つセネガルのガラス絵は、現在ではセネガル工芸の代表格として広く知られ、ガラス絵作家の中にはヨーロッパなどで個展を催し、コレクターの収集対象となっているアーティストもいる。
もともとは宗教絵画(主にイスラム関連)として始まったセネガルのガラス絵であるが、そのテーマは時代によって変化してきた。セネガルの風景、人々の暮らし、動植物、宗教などから啓発的なもの、漫画仕立てのコミカルなものまで多岐にわたり、アフリカのモダンアートのひとつとして注目を集めている。
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・カラハリ沙漠 |
アフリカ南西部、ボツワナの中部、西部からナミビアの東部にかけて広がる沙漠・半沙漠地帯。面積は約50万ku。
カラハリ沙漠は南部に行くほど乾燥が進み,サンの生活圏となっている。南部では大規模な砂丘地帯も見られるが、北部は次第に乾燥の度合いが弱まり、北のオカバンゴ大湿地帯・ザンベジ河水系などへとつながっていく。
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・カラバル
王国 |
現ナイジェリア沿岸地方南東部クロスリバーデルタ地域を中心としてイビビオが築いた王国。伝承によればエジプトから現スーダン共和国、エチオピアを経由して移住してきたユダヤ人の子孫が同地域に数千年前にカラバル王国を築いたという。
カラバル王国はいくつもの小国家の連合体であり、最盛期にはその勢力範囲は西は現ナイジェリア南東部から東は現カメルーン西部、赤道ギニアまで及んだ。王国全体の首都はエフィク王国の首都カラバルに置かれ、エクペとよばれる秘密結社組織が王権に対して大きな力を持っていた。
カラバル王国の実際の起源には不明な点が多いが、15Cにヨーロッパ人が初めて現ナイジェリア沿岸部を訪れたときにはすでにこの王国は同地域に存在し繁栄していた。ナイジェリアがイギリス植民地となった後も同地域からは独立運動の指導者などの人材を輩出してきた。
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・ガラマンテス |
現在のリビア中部フェザーン地方に居住していたベルベル人の一派。トゥアレグの祖先とも考えられているがはっきりとしたことはわからない。前1000年ごろから同地域に居住していたと考えられている。独自の文字(古代リビア文字?)を持ち当時はまだそれほど乾燥していなかったサハラを縦断する交易に従事していた。
古代ギリシャの歴史家ヘロドトスの著書の中に「四頭立ての馬車で穴居エチオピア人を狩るガラマンテス人」との記述があり、このローマ風のガラマンテス人の馬車の絵がサハラ各地の岩絵に残されている。その絵の分布の南限は現マリのガオ付近であり、当時すでにサハラを越えた交易網が確立されていたころがうかがえる。
ガラマンテス人は前500年ごろからフェザーン地方を支配し独自の王国を作っていたと考えられている。ガラマンテス王国は前1Cから1Cまで断続的に続いた北方のローマとの戦いに敗れローマの属州となった後、ローマ滅亡後の500年ごろまで存続していたと考えられている。
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・カラモジョン |
ウガンダ北東部に居住する東スーダン諸語ナイル語系民族。伝統的生業携帯は農耕牧畜であり、ウガンダ第二の人口を持つ民族テソとは共通の祖先をもつと考えられている。
社会的、精神的には農耕よりも牧畜(牛主体)に重きが置かれ牧畜民としての気風を色濃く残し、「お気に入りのウシ」などのナイル語系牧畜民に特徴的な習慣も見られる。
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・カララ
=イルンガ |
現コンゴ民主共和国カタンガ州を中心に栄えたルバ王国の建国者。ルバ人の暴虐な首長ンコンゴロの娘と外国(東の先進地域)からやってきた狩人ムビディ=キルエの間に生まれた。やがて祖父(ンコンゴロ)と対立したカララは父の国に亡命し、その土地で進んだ文化を学び取ったのち、軍隊とともにルバの地に帰り祖父を倒しルバ王国を建国した。
ルバ王国と密接な関係をもつルンダ王国建国の祖はカララ=イルンガの腹違いの兄弟(ムワタ=ヤンボ)とも、カララの末子(チビンダ=イルンガ)とも言われている。
このように進んだ文化を携えた外来の漂泊者(外国の王子や猟師というケースが多い)とその土地の有力者の娘との間に生まれた子が新たな王朝を建てるという建国伝承がアフリカには多く見られる。
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・カランガ |
バカランガとも呼ばれる。ボツワナ第二の人口を持つ民族(第二位といっても一割強にすぎない。圧倒的多数の八割をツワナが占めている)でありバントゥー系言語を話す。北方から現ジンバブウェ経由で現在の居住地に移住してきたと考えられ、ジンバブエの住民ショナとは民族的・言語的に非常に近い関係にある。
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・カリバ湖 |
1963年にザンベジ河中流に造られたカリバダムによってできた人口湖。長さは東西に220q、面積は5500kuに及びアフリカ屈指の規模のダム湖である。カリバダムの作られたザンベジ河がジンバブウェ-ザンビアの国境であったため、そこにできたカリバ湖がそのまま両国国境となっている。
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・カルタゴ |
現チュニジアの首都チュニス郊外にフェニキア人(現レバノン辺りからやってきた)が作った植民都市カルタゴを中心に、地中海全域をまたにかけて繁栄した古代国家。
前9C末に植民都市カルタゴが建設されたと考えられており、そののち前6Cからは西地中海一帯を勢力下に置き、地中海交易の支配し大いに繁栄した。海上交易のみならずカルタゴはサハラ縦断交易にもかかわっていたと考えられるほか、その航海技術を生かし外界(地中海の外の海=大西洋)に積極的に乗り出し、ギニア湾まで到達していたと考えられている(航海者ハンノ)。
前2C〜前3Cにかけて三次にわたってローマとの間で戦われたポエニ戦争に最終的に敗れ滅亡した。
ポエニ戦争中戦象部隊を率いてアルプス山脈を越えイタリア半島に侵攻したカルガゴの将軍ハンニバルは現在でも世界軍事史上有数の名将との声も高く、チュニジアの紙幣にはその肖像が印刷されている。
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・カレンジン |
ケニア西部、大地溝帯地域に暮らす農耕牧畜民。いくつかのサブグループ(ナンディなど)に別れサハラ‐ナイル語族に属する言語を話す。ナイル語族の名が示すように現スーダン共和国南部(現南スーダン共和国)のナイル河流域が故地だと考えられている(2000年ほど前に移住?)。
カレンジンはまた、長距離王国ケニアの名を世界に知らしめた名ランナー、トップランナーを数多く輩出してきたことでも知られている。
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・ガン(カン) |
またはカン、カーンとも。ブルキナファソ南西部を主な居住地とする民族。独自の王を持つ。彼ら独自の宗教観・世界観に基づいた複雑なシンボリズム体系を持ち、それらをあらわす精巧で美しいブロンズ彫刻(主に装身具)を作ることで知られている。
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・ガン |
主にガーナ北部に居住する民族。同国の人口の約4%を占める。16C末頃に同地域に建国されたゴンジャ王国の住民であり王国の名をとってゴンジャとも呼ばれる。王国の建国者は北からやってきたマンデ系民族であったが、ゴンジャ人の言語はクワ語系である。
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・岩塩 |
→サハラの岩塩 |
・カンガ |
→アフリカンプリント |
・カンガバ |
現ギニア共和国北東部ニアニを中心として存在したマンデ人の小王国。後のマリ帝国の母体となった。ガーナ王国後期(10C頃?)には成立していたと考えられ、当初はガーナ王国の属国であり、現ギニアでとれる金の交易の仲介者として活躍していた。ガーナ王国の命脈ともいえる金交易に大きな役割を果たしていたカンガバは、ガーナ王国宗主権下の小王国群の中でも特権的な地位にあったと考えられている。
ガーナ王国の崩壊(11C末)の後混乱の時代に陥った西スーダンで勢力を伸ばしたのがテクルールの王スマングルであり、その支配に対して立ち上がったカンガバの王スンディアタ=ケイタは、キリナの戦いにおいてスマングルを破り西スーダンの支配権を確立した。スンディアタが王位についた1230年頃からカンガバ王国はマリ(マリ帝国)と呼ばれるようになった。
カンガバの名は現在もマリ共和国南西部、ギニアとの国境地帯にある町の名として残っている。
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・ガンダ |
ウガンダ最大の民族グループ。ウガンダ‐タンザニア国境に位置するビクトリア湖北岸地域に居住するバントゥー系農耕民であり、17C頃〜1966年まで同地域に存在したブガンダ王国の中心となった。
イチジクの木の皮で作る樹皮布をはじめとする工芸品の作り手としても知られている。
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・カンバ |
ケニア中部を主な居住地とする民族。ケニアで5番目に大きな人口を抱える民族であり(人口に占める割合約11%)、バントゥー系言語を持つ農耕牧畜民である。ンガイと呼ばれる神を至高神とする伝統宗教を持つが、このンガイという神の名は近隣のキクユ(バントゥー語系)やマサイ(ナイル語系)のそれと共通する。
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・ガンビア |
西アフリカ、ガンビア川に沿って東西に細長い領土を持つ国。大西洋に面した海岸線以外の国境線をセネガルに囲まれている。82年~89年までの間セネガルとセネガンビア連邦という国家連合を形成していた。
主な民族はマリンケ、ウォロフ、フルベ、ジョラなど。
アレックス=ヘイリーの小説「ルーツ」の主人公クンタ=キンテの故郷としても知られている。
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・ガンビア川 |
全長1130q。ギニア共和国北部フータ=ジャロン山地を源とし、セネガル東部、ガンビア全域を横断して流れる国際河川。ガンビアの首都バンジュルで大西洋に注ぐ。
下流域に、アレックス=ヘイリーの小説「ルーツ」の主人公クンタ=キンテの生まれた村があることでも知られている。
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き |
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・キガ |
ウガンダ南西部ルワンダとの国境地帯を主な居住地とする民族。バントゥー系言語を母語とし、ウガンダ人口の約7%の人口を持つ。おそらく17C頃にルワンダ経由で現居住地域に移住してきたと考えられている。
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・キクユ |
ギクユとも。ケニア山の南西麗を中心にケニア中央部に居住するバントゥー系農耕民。ケニアの人口の二割強を占めるケニア最大の民族グループである。
伝統的宗教は「ンガイ」と呼ばれる唯一神を中心とした信仰である(った)。この「ンガイ」という神の名は近隣の民族マサイやカンバの崇める神の名と共通のものである。
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・気候 |
→アフリカの気候 |
・キシ |
ギニア共和国を中心にリベリア、シエラレオネにも居住する農耕民族。バスケタリーと垂直機を利用した機織で知られている。ギニア共和国東南部にキシドゥグという町があるがこれは「キシの町(もしくは郷、国、土地)」という意味。西アフリカ内陸部にはこの「〜ドゥグ」という地名がたくさんある(ワガドゥグとかフェルケセドゥグとかケドゥグとか...)。
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・キシイ |
ケニア西部を主な居住地とするバントゥー系民族。グシイとも呼ばれる。ケニアで6〜7番目に大きな人口を持つ民族である(同国の人口に占める割合は約6%)。バントゥー系言語を持つ農耕牧畜民。北隣の民族ルヒヤとは共通点が多く、おそらくルヒヤが同地域に移住してきた約500年前にそこから分かれた集団がキシイの祖先となったと考えれる。
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・キジバ王国 |
現タンザニア北西部ビクトリア湖畔に存在した王国。ブニョロ王国から移住してきたハヤ人が主な住民であり、17C頃にブニョロ王国の王族がハヤ人を支配することによってキジバ王国を建国したと考えられている。
19C末からの植民地時代にも王国として大幅な自治を認められていたが1961年のタンザニア(タンガニーカ)独立に伴い王国も消滅した。またキジバ王国には「王殺し」の習慣もあったと伝えられている。
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・ギシュ |
ウガンダ東部地域(エルゴン山麓)を主な居住地とするバントゥー系民族。隣国ケニア西部を主な居住地とするルヒヤとは近い関係にある。
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・季節風 |
ある地域である季節に一定の方向に吹く風のこと。アラビア海(インド洋の一部でアラビア半島・アフリカの角とインド亜大陸の間の海)では夏には南西の、秋〜春には反対に北東の風が吹くき、アラビア海沿岸の各地域、アフリカ東岸部・アラビア半島・ペルシャ・インド西岸部などでは古代からこの風(ヒッパロスの風)を利用して帆船による交易が行われてきた(例:北東の風が吹く季節にアフリカやアラビア半島からペルシャ・インドに向かい、夏に南西の風を受けて帰ってくるなど)。
他にもアフリカの季節風としてはハルマッタン(冬にサハラから南へ吹く風)、シロッコ(初夏にサハラから地中海北岸へと吹く風)などがある。
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・キタラ王国 |
東アフリカ現ウガンダ領北西部を中心に栄えた王国。キタラ王国の最初の王朝(テンベジ王朝)は半ば伝説的なものであり実在が確認されていない。第二王朝(バチュウェジ王朝)は15C頃に北方から移住してきた(おそらくは)ナイル系牧畜民によって建国された。
バチュウェジ王朝期のキタラ王国は大湖地方のみならず東・中部アフリカ屈指の大国であり、最盛期にはその版図は現タンザニア西部から遠く現コンゴ民主共和国東部にまで及んだ。
16Cはじめ頃に、やはり北方から移住してきたナイル系遊牧民ルオの一派が実権を握りブニョロ王国が建国された(キタラ王国が滅んでブニョロ王国が成立したという見方もあれば、キタラ王国の第3王朝としてブニョロ王国が成立したという見方もある。このためブニョロ王国はキタラ-ブニョロ王国と呼ばれる場合もある)。
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・キツネザル |
サル目曲鼻猿亜目(霊長類原猿亜目)キツネザル科に属するサルの総称。そのすべてがマダガスカルの固有種である。ワオキツネザルが特によく知られている。
キツネザル科だけでなくコビトキツネザル科やインドリ科を含むキツネザル下目という上位分類もありこちらは広義のキツネザルであるが、通常キツネザルといった場合狭義のキツネザル(キツネザル科)を意味する。
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・ギニア |
地理、歴史学で言うところのギニア(歴史的ギニア)について。地理、歴史学で言うところのギニア(地域名)は、サハラ以南の乾燥地帯を漠然とスーダン(≒サヘル)と呼ぶのに対して、漠然とサヘルの南の、西アフリカ・ギニア湾岸一帯およびその内陸の熱帯雨林、森林地帯地方をさす言葉であり、現国名で言うと西はギニア=ビサウあたりから東はカメルーン西部あたりまでの熱帯性気候の地域をギニアと呼ぶ。ギニア(地域名)に含まれる国は西からギニア=ビサウ、ギニア共和国、シエラレオネ、リベリア、コートジボアール、ガーナ、トーゴ、ベナン、ナイジェリア、カメルーン西部となる(いくつかの国の北部はスーダン≒サヘル地域となる)。
歴史的スーダンがアラビア語でサハラの南にある「黒人の国」を表す「ビラッド アッスーダン」に由来する地名であるのと同様、「ギニア」という呼称もアマジク(ベルベル)の言葉で「黒い人々の土地」に由来する。
15C頃からギニア沿岸部各地と交易を始めたヨーロッパ人たちはそれぞれの地域の特産品にちなんで「〜海岸」との地名をつけていった(胡椒海岸≒現リベリア、象牙海岸≒現コートジボアール、黄金海岸≒現ガーナ、奴隷海岸≒現ベナン)。
アフリカの地域を大雑把に表す呼称としては他に「スーダン/サヘル地域一帯に相当」、「コンゴ/中部アフリカ一帯」、「マグレブ/北アフリカ西部」などがある。
なおギニア湾の範囲の地理学上の定義はリベリアのパルマ岬からガボンのロペス岬までとなる。
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・ギニア湾 |
アフリカ西部から中部にかけて大西洋がアフリカ大陸に大きく湾入している部分(逆に言えばアフリカ西部から中部にかけてアフリカ大陸が大きくくびれている部分)。ギニア湾岸およびその内陸の熱帯雨林地帯はギニアという地域名でまとめて呼ばれることもある。
ギニア湾に面する国は西からリベリア、コートジボアール、ガーナ、トーゴ、ベナン、ナイジェリア、カメルーン、赤道ギニア、ガボン、サントメ・プリンシペ(ギニア湾に浮かぶ島国)の10ヶ国であり、国名にギニアのつくギニア共和国、ギニア=ビサウは含まれない。
ギニア湾の範囲の地理学上の定義はリベリアのパルマ岬からガボンのロペス岬までとなり、ニジェール河河口デルタを境に西をベニン湾、東をボニー湾と呼ぶこともある。
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・ギニア
共和国 |
西アフリカ西端、大西洋に面した国。ギニア=ビサウと区別するためにギニア=コナクリとも言う。沿岸部は熱帯雨林、北東部はサバナ気候、内陸にはフータ=ジャロン、ニジェール河の水源でもあるギニア山地などいくつかの山岳地帯をかかえ、気候的にも地形的にも多様性に富む。マリ帝国、サモリ帝国発祥の地であり、豊かな歴史、伝統文化を持つ国として知られている。1958年、旧フランス領アフリカ植民地の中で最初に独立を達成した。
主な民族はマリンケ、フルベ、ススなど。
マリンケや沿岸部に住む少数民族バガなどが彫刻に優れた民族として知られている。藍染め布でも有名。
ギニアの商品
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・ギニア
ビサウ |
西アフリカギニア湾に面し、北のセネガルと南のギニア共和国にはさまれた大陸側の領土と沿岸の多くの島(ビジャゴ諸島)からなる熱帯の国。15C半ばにポルトガル人が来航し、17C末に交易拠点を築いた。19C末からポルトガルによる植民地化が始まったものの同地域住民は頑強に抵抗し植民地化が完了したのは1936年のことであった(アフリカ全域で最後まで植民地化に抵抗した地域のひとつ)。
第二次大戦後、アフリカ独立のうねりが起きた1960年代にもポルトガル政府はギニア=ビサウを含むポルトガル領アフリカ植民地の独立を断固拒否した。そのためギニアビサウ、アンゴラ、モザンビークなどのポルトガル領アフリカ植民地各地で独立のための武装闘争が起きた。ギニア=ビサウは1973年に独立を宣言、1975年にはポルトガルによる独立承認を勝ち取った(1974年のポルトガルカーネーション革命によって成立した新政府がアフリカのポルトガル植民地ギニア=ビサウ・サントメ=プリンシペ、アンゴラ、モザンビーク、カーボヴェルデの独立を承認)。当初は同じポルトガル植民地のカーボベルデとの国家統合を目指していたが実現しなかった。
主な民族はバランテ、フルベ、マンジャク、マリンケ、パペルなど。ビジャゴス諸島にすむビジャゴという民族は彫刻を施したカヌーの船首をつくることで知られている。
ギニア=ビサウの商品
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・砧打ち布 |
砧(棍棒状の槌。木でつくられていることが多い)で叩いてつやを出した布。砧で叩くことによって織物の繊維がつぶれ滑らかな光沢が生まれる。
砧打ち布の独特の光沢とつや・質感は西アフリカで好まれていて多くの民族が民族衣装に用いている。文様を織り出した綾織の布(機械織り)をさまざまな色に染めて砧で叩いたバザンと呼ばれる布は高級生地として主に晴れ着などに使われ、西アフリカでは特にマリのものがよく知られている(私がマリの首都バマコで滞在していた地区はバザンづくりが多い地区で、町中のあちこちにある道端の小屋の中から、布を叩く砧の音が聞こえてきた)。
またハウサが作る藍染めの砧打ち布はトゥアレグが好んで身に着けることで知られている。
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・喜望峰 |
南アフリカ共和国南部の岬。1488年にヨーロッパ人としてはじめて到達したディアス(ポルトガル)は航海の難所であったこの岬を「嵐の岬」と名づけたが、験が悪いということで後に喜望峰と改称された。
よくアフリカ大陸最南端と間違われるが、最南端は喜望峰の東約100qのところにあるアグラス岬である。
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・キャッサバ |
南米原産のトウダイグサ目トウダイグサ科イモノキ属の熱帯低木。カッサバ、マニオク、タピオカとも呼ばれ、芋(根茎)は食用となる。原産地の南米では1万年程前にはすでに栽培されていた。
アフリカには200年ほど前に持ち込まれ、現在ではコンゴ、ギニアなどの熱帯地方を中心にほぼアフリカ大陸全土で栽培されアフリカの農業、食生活にとって非常に大きな割合を占める作物となっている。
有毒種と無毒種があり、有毒種は水にさらしたりして毒抜きしなければならないが、収穫量が多い、虫害に強いなどの理由から無毒種よりも多く栽培されている。
蒸す、焼く、茹でるなどして食べられるほか、デンプン質を発酵させ保存できるように加工したり、餅状にして食べたりする(コートジボアールのアチェケ、ガーナのフフなどが西アフリカにおけるキャッサバ加工食品の代表格である)。またキャッサバのデンプン質から作ったのりは染め布の防染に用いられることもある。
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・キリスト教 |
現在(1995年統計)のアフリカのキリスト教徒は約3億5千万人。南部、中部、東アフリカ内陸部、西アフリカ沿岸部で広く信仰されている。アフリカの全人口に占める信者の割合は5割に近い。
4C半ばにキリスト教を国教として取り入れたエチオピア(エチオピア正教)、2・3C頃に始まるエジプトのコプト教会、5C頃からキリスト教化した現スーダン共和国南部(現南スーダン共和国)の黒人系住民などの北東アフリカの一部の例外を除きアフリカのキリスト教の伝来は大航海時代以降、本格的な伝道が始まったのは植民地化が本格化した19C以降のことである。4・5Cを頂点として現チュニジアを中心とする北アフリカ地中海沿岸地方(当時地中海一帯はローマ帝国の影響下にあったため)にもキリスト教は広まったが、その後のイスラム勢力の北アフリカへの拡大の影響を受け信者数は激減した。
また16Cのコンゴ王国では前世紀末に来航したポルトガルと友好を結び、王がキリスト教に改宗するということもあった。
現在キリスト教はサヘル以南のアフリカの広い範囲で信仰されているが、様々な面でキリスト教のアフリカ化がみられる。またカトリック、プロテスタントなど既存の教会に属さない独立系教会(アフリカ的な要素を多く取り入れたアフリカ独自のキリスト教宗派)も多く結成されている。
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・キリナの
会戦 |
1230年?に現マリ共和国の首都バマコ近郊のキリナでおこなわれた戦闘。
ガーナ王国の滅亡後の西スーダンで頭角を現したテクルール王国の王スマングルと、テクルールの支配に反旗を翻したマリの王スンディアタ=ケイタが、1230年にキリナにおいて西スーダンの覇権を懸けて戦った天下分け目の合戦。
伝説によれば共に強大な呪術師であったスンディアタとスマングルの妖術合戦の末、白い鶏の蹴爪のついた魔法の矢にうたれたスマングルは魔力を失い逃げ去ったといわれている。
この戦いの勝利によりマリ王国は西スーダンの支配を確固たるものとし、今も語り継がれる大帝国マリへと発展していった。
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・キリマンジャロ |
東アフリカのケニア・タンザニア国境に位置する火山。標高5895mを誇るアフリカ大陸最高峰である。キリマは「山」を、ンジャロは「輝く」を意味する。
赤道直下に位置するが標高が高いため山頂付近には氷河が発達していたが近年の地球温暖化の影響により年々縮小しつつある。
コーヒーの産地としても有名。
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・キリン |
偶蹄目キリン科の大型草食獣。最も背が高い動物。すべて中部、東部、南部アフリカのサバンナや疎林帯にのみ生息する。ケニア北部のアミメキリン、ケニア、タンザニアのマサイキリン、ケニア、ウガンダのウガンダキリンなどいくつかの亜種がある。
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・キルディ |
カメルーン北西部マンダラ山地に住む、固有の信仰を保持し続けているいくつかの(少数)民族の総称。チャド語派やアダマワ-ウバンギ語派に属する言語を持ち、キルディ全体でカメルーンの人口の約10%を占める。
キルディという名称は近隣に住む民族フルベ(19C初頭のジハード運動で同国北西部にイスラム国家を建設した民族)の言語で「異教徒」を意味する言葉に由来する。
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・キルワ |
タンザニア南部沿岸に浮かぶ小島であるキルワは古くからインド洋交易網のアフリカ沿岸部における一大拠点として栄えてきた。キルワが支配していた現モザンビークのソファラからはモノモタパの黄金が、東アフリカ内陸部、中部アフリカからは象牙や奴隷が、主要な商品としてキルワに集められ、そこからアラビア、ペルシア、インドなどに運ばれていった。
キルワ島にはインド洋交易圏に属するさまざまな地域の人々(主にアフリカ系、アラブ、ペルシア系)が集まり、東アフリカ沿岸部に共通するスワヒリ文化を築き上げていった。
キルワは15Cになりインド洋に進出してきたポルトガルの影響で衰退し、現在は少数の漁民が暮らすだけであるが、島内に遺された、往時の栄光を偲ぶ数々の遺跡群は世界遺産に登録されている。
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・キンケリバ |
ケンケレバとも。西サヘルの丘陵地に自生する双子葉植物フトモモ目シクンシ科の低木、またはその葉で入れた茶状の飲み物。セネガル、ギニア共和国、マリ、ブルキナファソなどの国ではキンケリバの葉を煎じてつくった飲み物は伝統的な飲料として広く飲まれている(ドクダミ茶に近い味がする。砂糖を加えて飲むことが多い)。
キンケリバ茶はタンニンやポリフェノールを豊富に含み、やせ薬や抗マラリア薬としての薬効もあるといわれてきた。キンケリバのことをフルベ語では「キキリバ」というがそれは「全てを治す木」という意味である。枝ごと切り取った葉を乾燥させ束にして売っていることが多い。
キンケリバの枝や幹は丈夫なため建材などに使われる。
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く |
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・クウェレ |
ガボン、カメルーン、コンゴ共和国の国境地帯に居住する民族。さまざまな仮面を作るが、狩猟儀礼に用いられるEkukと呼ばれるハート型の縁取りと顔を持つ仮面は、カメルーン、ガボンからコンゴ盆地さらにはザンビアの一部にかけての多くの民族の間で作られる仮面や彫像の顔に見られるハート型の顔の典型として非常によく知られている。
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・クサシ |
ガーナ共和国北部からブルキナファソ南部を主な居住地とする民族。グルンシのサブグループのひとつであり、伝統的生業形態は農耕である。
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・クシュ王国 |
ナイル河中流地方(ヌビア地方:現スーダン共和国北部−エジプト南部にかけての地域)を中心として紀元前9C頃から紀元後4C半ばまで繁栄した王国(またはその文明)。黒人系住民が王国の中心となっていたため最古の黒人王国とも呼ばれる。
前8Cにはナイル河を下りエジプトへ侵攻、エジプト全土を支配下におさめた(エジプト第25王朝)。最盛期のクシュ王国は北は地中海から南はウガンダまで、東はエチオピアから西はチャド湖盆地までの広大な版図を勢力下に置く、古代世界屈指の大国であった。
クシュのエジプト支配は前7C半ばに終わったものの、クシュ王国はもともとの領土(ヌビア地方)にあって繁栄し、前6C頃メロエに遷都してからはさらに繁栄した(メロエ王国時代)。紀元後4C半ばに東方のアクスム王国(エチオピア)に滅ぼされた。
メロエを中心としたクシュ王国領内からは大規模なピラミッド、神殿、宮殿、製鉄所後などの遺跡が発掘され、まだ未発掘のまま沙漠に埋もれている遺跡も多い。
クシュ王国ではエジプトのヒエログリフ(神聖文字)を改良した独自の文字(メロエ文字)を使っていた。
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・クシュ語派 |
アフロ‐アジア語族の中に含まれる言語グループ。アフリカ北東部の「アフリカの角」と呼ばれる地域を中心に、エジプト、スーダン共和国、エリトリア、ジブティ、ソマリア、エチオピア、ケニア、タンザニアの各国にクシュ語系民族が居住する。
クシュ語派のなかでよく知られている言語(民族)はオロモ、ソマリ、アファールなど。
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・クスクス |
小さな粒状にした小麦粉を蒸して、肉・野菜・魚などのソースをかけて食べる料理。またその小さな粒状の小麦粉のこと(乾燥させて保存食としたものもある)。マグレブ・北アフリカ発祥の料理・食品であり、現在でフランスをはじめとするヨーロッパでも多く食されている。
西アフリカ(マリ・セネガルなど)では小麦ではなくモロコシ・トウジンビエ・フォニオなでどクスクス状の食品を作るが、小麦で作ったクスクスが黄白色なのに対しこちらはやや緑がかった色となる。現在では小麦粉から作った乾燥クスクスも北アフリカから輸入されていて、そちらも多く食べられている。
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・クバ |
→バクバ |
・クバ王国 |
17C前半に現在のコンゴ民主共和国の南東部に建設された王国。クバの女王の養子シャムバ=ボロンゴンゴがその地域にいた多くの民族(それぞれ小さな首長国をつくっていた)を統合して建国した(伝承によればシャムバはクバ−それまでは小首長国のようなものだった−の93代目の王だといわれている)。
19C半ばを頂点として栄えたが19C末にベルギーの保護領となった。同地域の統一的な政権は失ったもののクバ首長国とも言うべきものは現在まで存続している。
クバ王国は宮廷美術が発達したことでも知られ、その洗練された作品の数々はアフリカ美術の一つの到達点であるとも言える。それぞれの人格や事績をあらわすものを身に着けた歴代国王の肖像(木の坐像)が特に有名。
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・クペレ |
主にリベリア中部にすむマンデ系農耕民族。同国最大の人口を持ち、隣国のギニア共和国にも居住している。16C頃に北方から移住してきたと考えられている(ソンガイ帝国滅亡による西スーダンの混乱を避けてか?)。
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・クマシ |
ガーナ中南部に位置するガーナ第二の都市。17C末から19C末まで現ガーナ内陸部を支配したアシャンティ王国の首都である(アシャンティ王国は現在も存続し、クマシの王宮は現在も使用されている)。
クマシの王オセイ=トゥトゥ一世が17C末にアシャンティの小国家を統合しアシャンティ連合王国を建国し、連合王国全体の首都ととなったクマシは、中部ギニア最大級の都市として発展し現在に至る。市内には西アフリカ最大規模の市場ケジェティアがある(とにかく広くて一度奥のほうに迷い込むとなかなか出てこれない)。
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・グヤアマン
王国 |
15C(16C?)半ばに現ガーナ-コートジボワール国境地帯内陸部に存在した王国。アカン系アブロン人によって建国され、マンデ系商人によって建設された交易都市ボンドゥクなどを支配下に置き繁栄した。18C半ばからは南方の大国アシャンティ王国の支配下に入ったがしばしば反乱を繰り返し、19C末にはアシャンティ王国の没落に乗じ一時独立を回復した。
その後すぐにフランス保護領となり、一時サモリ帝国の支配を受けた後1897年にフランス植民地となった。
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・グラゲ |
エチオピア中部(南部諸民族集北端)のゲラゲゾーンを主な居住地とする民族。エチオピアの商業民族としても知られていてグラゲ県のほかエチオピア全土に広く居住している。
エチオピアのご馳走料理の代表格の一つ「キットフォー(牛肉のタルタルステーキのようなもの」ももともとはグラゲ人の料理だったものがエチオピア各地に広まったもの。
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・グラスランド |
カメルーン北西部に広がる高原、丘陵地帯を指す。カメルーン高地、カメルーンハイランドとも呼ばれる。現在のグラスランドの住民は、17Cに始まるフルベのカメルーン北部への移住に押され、過去数世紀の間に北から移住してきた民族がほとんどである。
主な民族はバミレーケ、バムン、ティカールなどのバントゥー語と近縁の言語を話す民族であるが、それらの民族のサブグループ、近縁関係にあるいくつもの小民族など、あまり広いとはいえないこの地域に非常に多くの民族が暮らしている(この地域の民族を総称してカメルーンハイランダー/カメルーン高地人と呼ぶこともあり同国人口の約三割を占める)。
いくつもの民族が入れ替わり立ち替わり小王国を建設したり交流を繰り返した結果、この地域はアフリカでも有数の民族的、文化的な多様性を持つ地域となった。上に名前を挙げた三つの民族は彫刻の名手としても知られていて、カメルーングラスランドはアフリカ美術の宝庫の一つに数えられている。
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・グラベリマ
イネ |
アフリカ原産の栽培種イネ。アフリカイネとも呼ばれる。数千年前にニジェール河内陸デルタ地域で栽培種化され西アフリカ各地に広まったものと考えられている。栽培種化される前の原種と思われる野生稲が現在もアフリカ各地に分布している。
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・クランコ |
シエラレオネ北西部からギニア共和国南東部の山岳地帯を主な居住地とする民族でありマンデ系言語を持つ。伝統的生業形態は農耕。
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・クランゴ |
コートジボワール北東部からガーナ中西部にかけてをおもな居住地とする民族。近隣のセヌフォ人の影響を強く受けた彫刻(木彫)を製作する。
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・グリオ |
西アフリカに広く見られる職業的口承伝承演者。「語り部」「吟遊詩人」と訳されることも多い。
王国の歴史、系譜、有力な家系の歴史、褒め歌などその社会の出来事を時には楽器(コラ等)の音色にのせて語り、生活の糧を得る。
グリオは大規模な王国が発展したマンデ系の社会において特によく見られる。この地域ではグリオの家系があり(ジャバテ、シソコなどがマンデ系の代表的なグリオの家系)、グリオの家のものはグリオの家のもの同士で結婚する。この地域の伝統社会において特殊な技能を持つ職能集団(鍛冶屋など)と同様に、社会的には低い地位にあり、またその特殊技能によりある種の畏れをもって接せられる。
ほぼ無文字社会であったサハラ以南のアフリカにおいて彼らの伝える伝承の重要性は高く、
「一人のグリオの死は一つの図書館が灰燼に帰したに等しい。」とまで言われる。
現在伝統楽器をギターに持ち替えた(伝統楽器を使っているグリオもいる)現代のグリオ達がポップミュージックの世界に進出し高い評価を得ている。
今日でも西アフリカ各地で祝い事などの折にはコラを抱えたグリオを見ることが出来る。また時にはコラを抱えレストランや家々をまわって歌を歌っていく「流し」のグリオの姿を目にすることもできる。
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・クリック音 |
吸着音とも呼ぶ。調音方法に基づく自然言語の子音のグループのひとつであり吐く息によって音を出すのではない非肺気流機構の子音であり五種類(両唇吸着音・歯吸着音・歯茎吸着音・硬口蓋歯茎吸着音・歯茎側面吸着音))の音が確認されている。
書いていても何のことかわからないが平たく言えば「舌打ち音」であり、サン、コイなどのコイサン語族、および彼らとの接触の長かった南部アフリカのバントゥー系諸民族(ズールー、コーサ、ソトなど)、ハッザ、サンダウェの言語に用いられる子音である(舌打ちなどの感嘆符的な使用ではなく単語の構成音素として用いられる)。
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・クル |
リベリアの主要民族のひとつ。17C頃から同地域で始まったヨーロッパ人との交易に従事し、象牙交易などで栄えたが、奴隷交易に従事することは断固拒否し、時にはヨーロッパ人との交易で手に入れた銃を用いて奴隷交易に抵抗した。
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・グル語派 |
ニジェール-コンゴ語派に属する一語群。ブルキナファソ、マリ南部、コートジボワール北部、ガーナ北部、トーゴ北部、ガーナ北部、ニジェール南西部などに分布している。最初にこの語群として研究されたのが現ブルキナファソ(昔はオートボルタ-ボルタ川上流地域の意味-と呼ばれていた)で話されてたいくつかの言語であったためボルタ語群とも呼ばれる。
セヌフォ、ドゴン(それぞれ異説もある)、モシ、グルマ、グルンシ、ロビなどが主な言語。
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・グルマ |
ブルキナファソ南東部を中心にベナン、トーゴ北部、ニジェール南西部にまたがって居住する民族。グルマンチェとも呼ばれるニジェール-コルドファン語族ニジェール-コンゴ語派グル語群に属する言語を持つ。
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・グルンシ |
ブルキナファソ南東部、ガーナ北部に住み農耕民族。多くのサブグループをからなる民族集団の総称。白、赤、黒を基調とした彩色を施した仮面を製作することで知られている。
主なサブグループとして、タレンシ、クサシ、コ、レレ、カセナ、ナンカニ、ヌヌマ、シサラ、ヌ二などがある。
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・クルンバ |
ブルキナファソ北部を主な居住地とする農耕民族。クルンバの代表的な彫刻としてレイヨウの頭上面がある。その面は北の隣人バンバラのチワラの影響を造形面でも儀礼面でも強く受けている。
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・クレオール
言語 |
2つ以上の言語の接触の結果生まれた混成言語ピジン言語が、文法、語彙などを充実させ母語化したものをクレオール言語と呼ぶ。
アフリカの代表的なクレオール言語としてはスワヒリ語(東アフリカ一帯:バントゥー系言語とアラビア語などの混成)、リンガラ語(コンゴ:複数のバントゥー系言語の混成)、サンゴ語(中央アフリカ共和国:アダマワ-ウバンギ語派のンガンディ語がベース)などが挙げられる。ヨーロッパ言語とのクレオール語としてはリベリア、シエラレオネなどではピジン英語がクレオール化した例があり、他にも仏語系クレオール(セーシェル、モーリシャスなどのインド洋島嶼部)、ポルトガル語系クレオール(ギニアビサウ、カーボ=ベルデ、サントメ島など)がある。
現在も世界の多くの地域でピジン・クレオール諸語が形成されている。それらの言語は言語の形成過程を研究する絶好の例として研究対象になっている言語も多い。
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・グレート
ジンバブウェ |
ジンバブウェ南部マシンゴ郊外に位置する巨大な石造建築遺跡群。一番有名な、円形の外壁と円錐塔からなる「神殿」と呼ばれる遺跡、「丘の遺跡」、その二つを結ぶ「谷の遺跡」からなる。
11C頃からこの地域を支配したモノモタパ王国期に「丘の遺跡」が作られ「神殿」はその後を襲ったロズウィ王国の時代に建てられたと考えられている。サハラ以南のアフリカでの巨大石造建築は非常に珍しく、特に「神殿の遺跡」の巨大さ、技術の精巧さから、この遺跡を見た初期のヨーロッパ人たちは東方人(フェニキア人、アラビア人など)がこれを建築したと考えたほどである(当時のヨーロッパ人のアフリカ人蔑視がよく表れている)。
ジンバブウェとはショナ語で「石の家」を意味し、同国の国名にもなっている。この遺跡は単にジンバブウェ遺跡とも呼ばれるが、国名との混同を避けるためグレートジンバブウェと呼ばれることが多い。また「神殿」から発掘された鳥の石像はジンバブウェの国旗にデザインされている。
類似の巨大石造建築遺跡はジンバブウェ、ボツワナ東部に数100ヶ所存在している(カミ、ドーロ・ドーロなどがその代表格)。
グレートジンバブウェ特集を見る>>
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・グレート
リフトバレー |
→アフリカ大地溝帯 |
・グレボ |
コートジボアール南西部およびリベリア南東部に居住する民族。クルのサブグループの一つでヤシの栽培などに従事する農耕民族である。
周辺のほかの民族の仮面・彫刻の自然主義的な異なり、グレボの仮面は目鼻口などのパーツが極端に記号化されていて、平らな顔面から円筒形の目(時には4個、6個、8個だったりもする)が飛び出ているという特徴を持っている。
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・グロ |
コートジボアール南東の内陸部に住む、マンデ系農耕狩猟民族。グロの彫刻は仮面のみだが、人面と動物の諸要素が結びついた優雅な仮面を製作することで知られていて、その仮面にはしばしば複雑で立体的な透かし彫りが用いられる。グロの仮面は半人半獣の森の精霊を表すとされ女子供が仮面を見ることは禁じられている。
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・クロス川 |
カメルーンに水源を持ちナイジェリア南東部を流れる川。現地名はオヨノ川。水量が多いため下流域で広大な内陸デルタ(クロスリバーデルタ)を形成し、その大西洋に注ぐ河口は24kmもの幅を持つ。
クロス川流域からニジェール河下流域にかけての地域にはさまざまな民族が暮らし、その多くが彫刻の名手として知られているため、同地域はナイジェリアのみならず大陸屈指のアフリカ美術の宝庫となっている。私見ではあるがクロスリバー流域の諸民族の彫刻には不気味な迫力を持つものが多い(エコイの革張りの頭上面など)。
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・クワウ |
ガーナ共和国南東部、ボルタ湖西岸地域を主な居住地とするアカン系民族。かつてはアシャンティ王国に服属していたが、19C末に一応の独立を果たした(すぐに英国植民地となってしまった)。
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・クワ語群 |
ニジェール-コンゴ語派に属する一語群。主にコートジボワール南東部からガーナ南部、トーゴ中部、南部(一説によればベナン南部、ナイジェリア南部まで)の地域にかけて話されている。この語群に含まれる言語の多くで「人」を表す単語にKwaという語根が含まれていることからクワ語群と名づけられた。
主な言語にヨルバ、イボ、フォン、エウェ(それぞれ現在では異説あり)、アカン系言語(アシャンティ、ファンティなど)など。
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・クンビサレー |
現モーリタニア領南東部にある、ガーナ王国の首都跡と推定される遺跡。ガーナ王国を訪れたアラブ人の地誌家が記した「都には王の街(王、廷臣、騎士、呪術師など:非イスラム教徒)と商人の街(アラブ人・イスラム教徒)があり互いに6000歩離れている。」との記述に一致する特徴が見られることからガーナ王国の都の遺跡であると考えられている。
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け |
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ケイタ,
スンディアタ
(スンディアタ
=ケイタ) |
1190?〜1255。マリ帝国の創始者。1190年頃に現ギニア共和国東部ニアニのカンガバ王(小規模な地方政権)の息子として生まれる。11C後半にガーナ王国が滅亡した後、ガーナ王国の旧領を支配したテクルールの王スマングルでありスンディアタの国もスマングルの支配下にあったが、スマングルの圧政に不満が募り独立の気運が高まった。
異母兄により国外に追放されていたスンディアタは1230年頃?隣国の王の援助を受けカンガバの王位を奪取。さらにスマングルに対し戦いを挑んだスンディアタは、現在のマリの首都バマコ近郊のクリコロの近くに位置するキリナの会戦においてスマングルを(伝説によれば妖術合戦の末)破り、ガーナ王国の旧領の支配権を確立した。
スンディアタが王位についた1230年頃から彼の国は「王の住まう所」を意味するマリと呼ばれるようになった。1255年没。スンディアタの作った帝国はサハラ縦断交易によって富み栄え、サハラ以南のアフリカ史上最も輝かしい栄光に彩られた黄金の帝国として人々に記憶されている。
伝承に謂う。ニアニの王は放浪の狩人が連れてきた醜い女性を娶ればやがて王となるべき運命の子を授かるであろうとの予言を受けた。ある日トラオレ家の狩人二人がソゴロン(バッファローの意味)と呼ばれる醜い女を連れてきた。王はこれを娶りスンディアタという息子を授かった(またの名をソゴロン=ディアタ。ディアタはライオンの意味)。青年になるまで歩くことのできなかったこの子供がやがてアフリカ史に燦然と輝くマリ帝国を築き上げることになる。
スンディアタ自身はムスリムであったが、従来の民俗信仰を抑圧することなく、自身もまた偉大な力を持つ妖術師として知られたいた。スンディアタの出身氏族であるケイタはカバを一族の象徴とし,現在でもケイタ姓を持つ人々がマリ、ギニア、コートジボアールなどに多数居住している。民族の偉大な英雄としてスンディアタの伝説、伝承は現在でもマンデ系民族の間で語り継がれグリオによる伝統的な誉め歌のみならず、ポピュラー音楽の中でも歌われている。
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・ゲエズ語 |
古典エチオピア語とも呼ばれる。アラビア半島からの移住者(古代アラビア語・セム語系)と先住のクシュ語系住民との交流・混交の過程で発生したと考えられている。
アラビア文字から派生した独自の文字(ゲエズ文字:現代でもアムハラ語やティグリニヤ語の表記に使用される)を持ち、アクスム王国の言語として発展したが、王国滅亡後は死語となり、エチオピア正教会などでの典礼言語として現在まで伝えられてきた。
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・ゲゾ |
在位1818〜1858.。ダホメー王国十代目の王(アダンドザンを含めなければ第九代)。ダホメー王国の最盛期を現出した。
1818年クーデターにより兄弟でもある先代の王アダンドザンから王位を奪った。即位したゲゾは軍備を強化。毎年のようにし周辺諸国に侵攻し獲得した戦争捕虜を奴隷として売り払った。奴隷貿易の利益により軍備を強化し、さらに大量の奴隷を捕獲するというシステムがうまく作用しダホメー王国は繁栄した。
軍事大国となったダホメーはゲゾ王の時代に東方の大国オヨへの貢納を廃止。それを理由としてきたオヨ軍を撃退し東ギニア一の強国の地位を確立した。
1858年にヨルバ諸国との戦争で戦死。
ゲゾの紋章はバッファローと枝にとまった二羽の鳥である。
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・ケトゥ |
ベナン南東部内陸に位置する小さな町。ヨルバ人の古都として知られていて、伝説上のヨルバの祖オドゥドゥワの七人の子が作った最古のヨルバ国家の一つと伝えられている。
現在ではゲレデをはじめとするヨルバ彫刻の名産地としても知られている。
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・ケニア |
東アフリカの国。沿岸部はアラブやインドとの貿易によりスワヒリ文化が栄えたマリンディ、ラム、モンバサなどの交易港が発展し、内陸のサバンナにはマサイ等の東ナイル語群系遊牧民が暮す。北東部はアフリカの角と呼ばれる乾燥地帯に属し、クシュ語系の牧畜民が多く居住する。内陸の大地溝帯地域は初期人類発祥の地とも言われ、世界最古クラスの人類化石が数多く発掘されている。
主な民族はキクユ、ルヒヤ、ルオ、カレンジン、カンバ、キシイ、メルーなど
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・ケニア山 |
ケニア中部にそびえ、アフリカ第二の高さを誇る山。いくつかのピークからなり最高点はバティアン峰の5199m(アフリカ第一位のキリマンジャロ山は5895m)。
高山気候であるため赤道直下に位置するにもかかわらず山頂部には氷河が存在する。森林限界よりうえの山域は国立公園に指定され、世界遺産としても登録されている。
現地名は「神の山」を意味するキリニャガ。
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・ケネドゥグ
王国 |
1650年〜1898年にかけて現マリ南部・ブルキナファソ国境地帯に栄えたマンデ系の王国。もともとはセヌフォ人の建国した王国であったがマンデ系民族に征服された。
1870年代に入るとケネドゥグは南のサモリ帝国、さらにこの地方の植民地化をもくろむフランス軍の二大勢力との抗争に巻き込まれる。ケネドゥグはサモリ帝国が崩壊した後も1898年までフランス軍に対して執拗な抵抗を続け、最後の王バベンバ=トラオレは首都陥落と共に自害して果てた。
ケネドゥグは西アフリカで最後までフランス軍に抵抗した王国のひとつでありその記憶は現在でも植民地化への抵抗のシンボルとしてマリの人々に語り継がれている。
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・ケリマネ |
モザンビーク中部の港湾都市。古くから(10Cごろ?)からインド洋交易圏の貿易港として栄えていた(スワヒリ都市)。15C末にポルトガル(ヴァスコ=ダ=ガマ)に「発見」され、16C半ば以降はポルトガルの支配下に入った(モザンビーク独立:1975まで)。
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・ケル-
アイール |
サハラのラクダ遊牧民トゥアレグの氏族、もしくは氏族連合。名前からもわかるようにニジェール北部のアイール山地を本拠地とする。7、8Cに始まるアラブ・イスラムの北アフリカ進出に伴う玉突き現象により、11C〜12C頃に現在のアルジェリア方面からアイール山地へと移動してきたトゥアレグの氏族がケル=アイールと呼ばれ、先住のハウサ人を追い出し、アイール山地周辺を支配するようになった。
18C中頃から19C後半までの100〜150年の間、アイール山地の支配権を北から新たにやって来たトゥアレグの一派ケル−オウェイに奪われたもののその後アイール周辺のトゥアレグの盟主としての地位を取り戻し現在に至っている。
トゥアレグという名称はアラビア人による他称であり、トゥアレグ自身は自らをケル-タマシェクと呼ぶ。
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・ケル-
アハガール |
アルジェリア南部ホガール(アハガール)山地を勢力圏とした、サハラのラクダ遊牧民トゥアレグの氏族連合。連合が結成されたのは18C中頃であるが多くのトゥアレグは伝説的な女王ティン=ヒナンにその起源を求めている。
氏族連合としてのケル-アハガールは1977年にアルジェリア政府により解体された。
トゥアレグという名称はアラビア人による他称であり、トゥアレグ自身は自らをケル-タマシェクと呼ぶ。
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・ケル-
オウェイ |
サハラのラクダ遊牧民トゥアレグの氏族、もしくは氏族連合。1740年代に現在のアルジェリアから南方への移住を開始。サハラを越えアイール山地に侵入し、ケル-アイールから同地方の支配権を奪い、現在のニジェール北部、中部一帯に影響力を及ぼした。
アイール山地はサハラ縦断交易の要衝であり、その地を支配したトゥアレグは自ら交易に従事したり、隊商に保護料を課したり、保護料を払わない隊商を掠奪したりしていた。
19C後半にはアイール山地の支配権をケル-アイールに奪い返されたが、20C初頭の対仏抵抗戦の中心となり、現在でもアイール山地(特にバグザン周辺)では一定に勢力を保っている。
トゥアレグという名称はアラビア人による他称であり、トゥアレグ自身は自らをケル-タマシェクと呼ぶ。
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・ゲレ |
ウェとも(近縁の民族ウォーべとあわせてウェと呼ばれる)。コートジボアール・リベリアの南部国境地帯に居住する農耕民族。クル語系の言語を話す。
ゲレの仮面は近隣の民族の自然主義的な傾向とは異なり、抽象化の進んだ造形をしている。さまざまな様式の仮面があるが円筒形の目、大きく開いた口をもつもの、頬骨と鼻、あごが突き出たものなどが代表的なタイプである。
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・ゲレデ |
ヨルバ(フォン人の一部も)の伝統的な仮面儀礼。その舞踏に使われるヘルメット型の頭上面もゲレデと呼ばれる。
多くの場合人の顔をかたどった面の頭上に様々な寓意を持つモチーフが彫られている(透かし彫りを多用)。近年のものはド派手な彩色を施されていることが多い。
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・懸崖の髪
の名工 |
19Cに活躍したと考えられるルバの彫刻家。19C当時のルバ女性の髪形を表現する彼独自の手法(羽根のように横に突き出た髪型を木の重量感を感じさせないデリケートなタッチで彫り上げる)によってこの名が付いた。
懸崖の髪の名工の作品は20点ほどしか現存せず、アフリカ美術史の中で最も優れた芸術家の一人に数えられている。
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・ケンケレバ |
→キンケリバ |
・言語 |
→アフリカの言語 |
・ケンテ布 |
主にガーナのアシャンティ人やトーゴのエウェによってつくられる織り布。アサンテヘナ(アシャンティの王)の衣装にも用いられる。 色鮮やかな糸を用い、経織りと緯織りを組み合わせて描き出す美しく複雑な織り紋様が特徴。一つ一つの紋様にさまざまな意味や寓意がこめられている。
織りあがった10〜20p程度の細幅布を縫い合わせて使用する。トーゴのケンテは、派手やかな色合いのガーナケンテに比べて渋い色調のものが多い。
アフリカの布の中でも非常によく知られているもののひとつで欧米での人気が高く、アメリカやヨーロッパではアフリカの布の代表格・代名詞として扱われている。
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こ |
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・コイ |
いわゆるホッテントットと呼ばれていた民族。ナミビア南部で牛牧を営む遊牧民であり、サンと共にコイサン語族に属する言語を話す。サンとは形質的特徴、言語、文化の点で多くの共通点・類似点を持ち、バントゥー系民族との接触で牧畜を始めたサンの一派がコイになったと考えられている。
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・コイサン
語族 |
南部アフリカのコイ、サンの言語からなる語族(かつてはタンザニアのハッザ語もこの語族に含まれていると考えられていたが最近の研究ではハッザ語は他の言語との関連が見出せない孤立言語であると考えられている)。サンはかつては中部・東部・南部アフリカに広く居住しアフリカ大陸の最古の住民とも言われているので、その言語はアフリカ最古の言語といえるかもしれない。
最大の特徴はクリック音と呼ばれる音の存在であり、舌打ちのような音や舌を吸うような音が言語を構成する音の一部となっている。
クリック音はコイサン語族との接触の長かった南部アフリカのバントゥー系民族の一部(ズールー、コーサなど)にも引き継がれている。
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・コイル巻き
編み |
バスケタリーの技法の一つ。材料の繊維を何本も束ねたもの(芯材)の外側をコイル状にぐるぐる巻きにしながら、とぐろ状に編み上げていくバスケタリー技法。
ひろくアフリカ全土でかご編みに用いられている技法であり、西アフリカでは主にかご、円形マット(鍋ぶた)を作るのに用いられるがトーゴ南部ではひょうたん容器の縁の補強にも使われる。またルワンダではこの技法によるかご編みの伝統をいかしたアクセサリーを作っている。
アフリカのみならず世界中の多くの地域で広く用いられている技法でもある。
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・紅海 |
アフリカ北東部とアラビア半島を隔てる海(湾)。南東から北西へ細長い形をしており全長約2300q、最大幅360q、最大深度2200m。バーブ=アル・マンデブ海峡によってアデン湾とつながっている。
アフリカ大地溝帯の一部であり、アフリカとアジアが分裂する際、他の部分に比べ早い時期に広がり、また標高が低かったため海水が流れ込み現在の紅海が形成された。
古くから紅海をはさんで北東アフリカとアラビア半島の交易が行われていたこともあり、アフリカとアラビア半島の両方に領地を持った国家もあった(例:アクスム王国:現エチオピア・イエメンなど)。また地中海世界とインド洋交易圏を結ぶ海上交通のルートとして古くから多くの人、ものが往来した。
スエズ地峡によって地中海と隔てられていたが1869年開通のスエズ運河により現在は地中海とつながっている。
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・紅茶 |
茶葉を発酵させて作った紅茶はコーヒーと並び世界中で飲まれている嗜好品であり、アフリカでも広く飲まれている。
北アフリカでは紅茶はシャーイと呼ばれ砂糖をたっぷり、時にはショウガなどの香辛料も入れて供される。意外に思うかもしれないがサハラ・サヘル地域では紅茶よりも緑茶が好まれ、個人的な見聞の範囲ではあるがサヘル地域での緑茶と紅茶の境界線はチャドだと思われる。チャド以西では緑茶が、以東ではシャーイが好まれる。北アフリカは全般的にシャーイが飲まれるがマグレブ諸国ではそれと並行して緑茶も飲まれている。またサヘルの緑茶地域でも現在はリプトンなどのティーバッグ紅茶がよく飲まれている(いずれにせよ砂糖を大量に入れる傾向がある)。
アフリカにおける主な紅茶の産地はケニア、タンザニア、マラウィ、モザンビークなど。
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・黒檀 |
→エボニー |
・黒陶 |
焼き上げた土器がまだ熱いうちに植物原料の液体をかけてその液体の成分(炭素)を土器の表面に焼きつかせて彩色、防水加工をしたやきもの。黒くなるためこう呼ばれるがいわゆる陶器:ガラス質の釉薬を使うものとは違う。アフリカ以外の地域でも作られる(作られていた)が、窯の中に松葉などを入れて燻すなどして炭素を吸着させる方法もある。
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・ココヤシ |
ヤシの一種。何種類もある椰子の代名詞ともいえる植物であり、その高さはときに30mにも達する。世界中の熱帯地方で栽培されていて、その果実は食用(固形胚乳)や飲用(液状胚乳=ココナッツジュース)として用いられるほか、加工してココナッツミルク、コプラとして利用され、その種子はヤシ油(ココナッツオイル.。アブラヤシからとれるパーム油とは別のもの)の原料となる。
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・コーサ |
南アフリカ共和国南東部を中心に居住する民族。バントゥー語族としては最も南に居住する民族であリ伝統的生業形態は農耕・牧畜である。歴史的に大規模な王国を形成したことはないが緩やかな首長制国家を形成していた。先住民サンやコイとの接触が長かったためコイサン語族に特徴的なクリック音音を自らの言語に取り入れた。
シードビーズを使ったビーズ細工の盛んな東・南部アフリカの中でもンデベレ、ズールーなどと並び、そのビーズ工芸によって名を知られている。ズールーやンデベレのカラフルなビーズ細工と異なり、コーサのそれは白を基調としたシンプルなものが多い。
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・古代
エジプト |
紀元前30年、ローマに併合されるまでの時代のエジプト。砂に覆われた国土を南北に貫き流れる大河ナイルのおかげでナイル沿岸部には数千年の昔から灌漑農業が発展し、ピラミッドに代表されるエジプト古代文明を作り上げた。なお上エジプト、下エジプトとはカイロから見てナイル河の上流(アスワンあたりまで)、下流(河口まで)の地域である。
・原始王朝時代/都市国家の成立
・初期王朝時代(第1・第2王朝:前32C〜前2686年)/上下エジプトの統一
・古王国時代(第3〜第6王朝:前2686年〜前2181年)/ピラミッドの建築
・第一中間期(第7〜第10王朝:前2181年〜前2040年)/戦乱の時代
・中王国時代(第11〜第12王朝:前2040年〜前1663年)/上下エジプトの再統一
・第二中間期(第13〜第17王朝:前1663年〜前1570年)/戦乱、ヒクソスの侵入
・新王国時代(第18〜第20王朝:前1570年〜前1070年)/再統一、古代エジプト最盛期
・第三中間期(第21〜第26王朝:前1070年〜前525年)/大司祭国家時代
・末期王朝時代(第27〜第31王朝:前525年〜前332年)/ペルシアによる征服
・プトレマイオス朝時代(前332年〜前30年)/マケドニア王国の後継国家
に区分される。
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・コッパー
ベルト |
コンゴ民主共和国南東部カタンガ州からザンビア中部にかけての地域に存在する幅80q、長さ500kmの世界最大級の銅鉱脈のことをコッパー(銅)ベルトと呼ぶ(カッパーベルトとも)。世界の銅資源の一割強の埋蔵量があるとも推定され、副産物であるコバルトの生産量も多く世界の約半分近くを同地域で生産している。
コッパーベルトの鉱床は、20C初頭に現ジンバブウェ在住のヨーロッパ人技師によって発見され。1925年から本格的な採掘が始められた。
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・コトコ王国 |
現カメルーン北部、ナイジェリア北部、チャド南西部を領土とした王国。それまで同地域に栄えていたサオ文化の衰退に乗じ、いくつもの小王国を吸収し勢力を拡大したコトコ王国は15Cまでには上記の版図を領有する有力な王国となっていた。
その後北方の大国カネム=ボルヌー帝国の侵攻にさらされ19Cには完全にカネム=ボルヌーの支配下に入った。
コトコ王国の末裔はコトコ人と呼ばれている。
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・コートジ
ボアール |
西アフリカはギニア湾に面したほぼ真四角(一辺約600q。32万ku)の形をした国であり、リベリア、ギニア共和国、マリ、ブルキナファソ、ガーナと国境を接する。南部の沿岸地域では熱帯雨林気候、北(内陸部)へ進むにつれ降雨量が減りサバナ気候となる。リベリア、ギニアとの国境地帯には山岳部があるがそのほかはおおむね平坦な地形をしている。西アフリカで最も発展した国のひとつ。かつて象牙の輸出が盛んだったため仏語で象牙海岸を意味するこの名前がついた。
主な民族は、バウレ、ディダ、マリンケ、デュラ、セヌフォ、ロビ、ダン、ヤウレなど。
コートジボアールはセヌフォ、バウレ、ダン、ロビなど仮面、彫刻文化で世界に名を知られた民族が多数居住する、アフリカの木彫文化の中心地のひとつでもある。
また木彫以外にもセヌフォのコロゴ布、セヌフォ、バウレをはじめとするさまざまな民族による緯織り、経織りの縞模様布や、南部のアカン系民族によるケンテクロス、アカン系民族の金工芸、地域特産品の象牙細工(国外持ち出しはできないが)などが盛んに作られている、西アフリカの工芸大国である。
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・ゴードン
=レイン |
1793年〜1826年。スコットランド出身の軍人、探検家(階級は少佐)。現シエラレオネなどでの軍務中にアフリカ内陸部探検を計画。1825年に現リビアのトリポリからサハラを縦断してのトンブクトゥ到達を目指した。途中トゥアレグの襲撃などに悩まされながら命からがら翌年8月にトンブクトゥに辿り着き、トンブクトゥに到達した最初(パークを一人目とすれば二人目)のヨーロッパ人、サハラを北から南に越えた最初のヨーロッパ人となったが、帰路トンブクトゥ付近で殺害された(イギリスの侵略を恐れた現地の権力者の差し金とも、単に物盗りの仕業とも言われている)。
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・コノ |
シエラレオネ南東部に暮らす民族。シエラレオネの人口の8%ほどを占め、マンデ系言語を持つ。現ギニア共和国方面から移住してきて、19C半ばごろに現在の居住地に定住したと考えられている。
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・コーヒー |
コーヒーは世界で最も多く、広く飲まれている嗜好品のひとつである。コーヒー(飲料)のもととなるコーヒー豆はアカネ科に属するコーヒーノキの種子であり、アフリカが原産地である。
エチオピアに自生していたコーヒーの実を、現地の住民が食用としていたのがアラビア半島に伝わり(6C頃)栽培化され、15C頃にコーヒー豆を炒って粉にしてエキスを抽出するという方法がはじめられたとされる。
その後オスマン帝国経由で嗜好品としてヨーロッパ世界に伝わったコーヒーはやがて全世界に広まっていった。
原産地であるエチオピアではコーヒーは日本の茶道のような独特の入れ方・作法があり三煎目まで入れる・飲むのが正式な作法とされる。
またスーダン共和国では香辛料入りの煮出しコーヒーを、小さな注ぎ口がついた独特の形状をした容器にいれて供す。注ぎ口に植物繊維などを詰めて粉を漉しつつ砂糖をたっぷり入れた猪口(中国製の猪口が多い)にコーヒーを注ぎ、あまりかき混ぜすに飲む。最初の一杯はめちゃくちゃに甘いが、容器のコーヒーがなくなるまで何度も猪口にコーヒーを注ぐため最後のほうには砂糖が少なくなり程よい苦さになる。
アフリカにおける主なコーヒー豆の産地はエチオピア、ケニア、タンザニア、コートジボアールなど。
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・コビトカバ |
偶蹄目カバ科コビトカバ属に属する動物(コビトカバ属は一属一種のみ)。ギニア共和国から、シエラレオネ、リベリア、コートジボワールにかけての低地の森林や沼などに生息する。
カバ(偶蹄目カバ科カバ属)によく似ていたため、カバに比べて極端に小さい体長(1.5〜1.8m)にもかかわらず、20Cなかばまではカバの奇形種と考えられていた。オカピ、ジャイアントパンダとともに世界三大珍獣のひとつに数えられる。
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・ゴビル |
ハウサ諸国のうちハウサ-バクワイ(ハウサ七国)と呼ばれた主要な都市国家のうちの一つ。11C頃に建国されたと伝えられている。
ゴビルのイスラム学者ウスマン=ダン=フォディオはハウサのイスラム信仰(土着の宗教との習合的イスラム)を批判。1804年にはフルベとハウサの支持者を集めてゴビル王国に対してジハードを開始した。
1808年にゴビルは陥落しソコト帝国の支配下に組み込まれた。
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・コプト教 |
2・3C頃からエジプトで発展してきたキリスト教の一派。東方正教会の一派に分類されエチオピア正教とは近い関係にある。エジプトでキリスト教?と妙な気もするかもしれないが、アレクサンドリアに古代五主教座のひとつががおかれていたことからもわかるとおり、エジプトは初期キリスト教世界における一大中心地のひとつであった(近年解読されたユダの福音書もエジプトで発見され、コプト語で書かれている)。
7C移行エジプト人の大多数はイスラム化したが、コプト教会は現在もエジプトの人口の一割ほどの信者を持つ。なおコプト教の典礼言語であるコプト語(母語話者はごくわずかしか残っていない)は古代エジプト語の一派であり、古代エジプト語から派生した言語の中で現在まで生き残っている唯一の言語である。
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・ゴマ |
タンザニア西部タンガニーカ湖東岸地域を主な居住地とするバントゥー語系民族。コンゴ盆地からタンガニーカ湖を越え東進した最初のバントゥー系民族の一つと考えられている。
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・コモ |
またはクムとも。コンゴ民主共和国北東部イトゥリ州を主な居住地と刷るバントゥー語系農耕民族。
男子通過儀礼を司るンクンダという(秘密)結社組織を持つ。
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・コモロ |
コモロ・イスラム連邦共和国は南部アフリカはモザンビークとマダガスカルの間に浮かぶコモロ諸島(マヨット島以外)を領土とする共和国である。
マレー・ポリネシア系・アラブ系・ペルシア系・アフリカ系・インド系・マダガスカル系・中国系など実にさまざまな民族が移住を繰り返してきたため住民構成は、人口・面積ともに小さな島国としては驚くほど多様である。
この島域では17Cにはアラブ系イスラム国家がいくつか建国されたが19C末から20C初頭にかけてすべての島がフランス植民地化に入った。1975年に独立。マヨット島をめぐりフランスと係争中である。
コモロ沖では生きた化石と呼ばれるシーラカンスがよく捕獲されることでも有名である。
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・コヤ王国 |
テムネ王国とも。1505?年〜1896年にかけて現シエラレオネ北部から現リベリア西部にかけて存在したテムネ人の王国。
16C初頭に、北部からポルトガル人との交易拠点を求めて移住してきたテムネ人によって建設された。ヨーロッパとの交易、北の内陸諸国との交易で栄えたが19C初頭からイギリスの圧力にさらされ何度かの戦争を経た後1896年にイギリス保護領とされた。
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・子安貝 |
ビーズとともに貨幣として用いられていたことでも知られている子安貝(タカラガイとも呼ばれる)は、その形が女性器を連想させるため古来アフリカでは女性性・母性や生命力の象徴として祭具、偶像、宗教用品、装身具などに用いられ、現在でも子安貝を使ったお守りなどが西アフリカの日常の中に深く根付いている。
西アフリカでは奇数個の子安貝(通常5個か7個)を投げてその散らばり方や表裏の数を用いる占いが盛んに行われている。占いに使ったりまじない、お守り用に使うため子安貝は、伝統的な薬や呪術用品を売る店で売られていることが多い。
西アフリカで通貨として使われていた子安貝の多くはモルジブ産(モルディブ:インド洋の島国。インド亜大陸の南西部に浮かぶ千数百の島からなる島国)のものであったという。サハラを越えて子安貝を西アフリカに運ぶ交易は非常に利潤の大きな商売であった。マリ帝国の時代の記録によれば原産地から西アフリカに運ばれてくる間にタカラガイの価値は3千〜1万倍になったという(アフリカの海岸でも子安貝はとれるがその貝には通貨としての価値は認められなかった)。
つい数十年前まではアフリカの奥地では貨幣の最小単位以下の取引には子安貝が使われていたという。現在では貨幣としての価値は失ったもののビーズ(これも貨幣として使われていた)と並ぶアフリカンアクセサリーの代表的な素材としてアフリカの人々に愛用され続けている。
子安貝を使ったアクセサリーを見る
ネックレス・ピアス・ブレスレット
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・コラ |
サヘル諸国の広い地域で使用されている西アフリカを代表する弦楽器。皮を張った半切りのひょうたんを共鳴器にして、棹と弦を取り付けた楽器。大きいものはひょうたんの直径が40p以上にもなり、一般には21本の弦を張る。西アフリカでグリオ(Griot)と総称される吟遊詩人=語り部が好んで用いることでも知られている。その哀調を帯びた澄んだ音色は世界各地でファンを獲得し、現在欧米で活躍し日本でもその名を知られているコラ奏者も少なくない。
またアフリカ最大のポピュラー音楽賞はこの楽器の名前を冠してコラ音楽賞と呼ばれ,受賞者にはコラをかたどったトロフィーが贈られる。
今日でも西アフリカ各地で祝い事などの折にはコラを演奏するグリオを見ることが出来る。また時にはコラを抱えレストランや家々をまわって歌を歌っていく「流し」のグリオの姿を目にすることもできる。
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・ゴラ |
リベリア西部を主な居住地とする民族。同国の人口の4〜5%を占め、その言語はアトランティック語派に属すると考えられてたが、同語派の他言語とのかかわりが見出せないため現在ではゴラ語一言語をもって上位分類ニジェール=コルドファン語族の中の一語派を形成していると考えられている。
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・コーラ
ナッツ |
アオギリ科コラノキ属の総称。常緑高木で一個の果実の中に5〜10個程度の種子がある(白と赤の二種類がある)。この種子がコーラナッツと呼ばれ、多量のカフェインを含むため噛むと覚醒作用があり、古くから西アフリカや北アフリカで嗜好品として愛用されてきた(イスラム圏では酒が禁じられているため代替の興奮剤・刺激物としての需要が高かった)。コーラの産地は現ガーナなどギニア地方の熱帯、亜熱帯地域であり、古くから西アフリカ内陸の交易網、サハラ縦断交易にとって重要な交易品のひとつであった。
コーラは単なる嗜好品というだけでなく、西アフリカ内陸部では首長や目上の人に対する敬意を表す贈り物として、結納の品として、、また宗教儀式の際の供物としても広く用いられてきた、文化的にも重要な作物である。現在でも西アフリカ各地でお盆にコーラの実をのせて売っているのをよく目にする。
味はひたすら渋い。覚醒作用があるといってもカフェインのせいなのか渋みせいなのか判らないくらいであるが、なれると結構病み付きになる(個人的には結構好きであるが、日本の知人や欧米人に食わせてみたところみんな一口で吐き出した)。
乾燥させたコーラナッツの粉末を溶かして飲料として使用することもある。コカコーラにコーラナッツのエキスが入っていたということでも有名。
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・ゴリラ |
世界最大の霊長類。サル目(霊長目)ヒト科ゴリラ属に属する(一属一種)。オスの成獣は身長1.8m、体重200kgほどにもなる。ガボンからウガンダにかけての熱帯雨林帯のいくつかの地域に棲息し、マウンテンゴリラ、ニシローランドゴリラ、ヒガシローランドゴリラの3亜種に分かれる。寿命は30年ほど。
現在、森林伐採による棲息地域の縮小、密猟などによって各棲息地域で個体数が激減しており、絶滅の危機に瀕している。
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・コルドファン
語派 |
ニジェール-コルドファン語族に含まれる語派のひとつ。スーダン共和国南部、南コルドファン州のヌバ山地近辺に住むいくつかの少数民族がこの語派に属する言語を持つ。この語派に含まれる語群はタロディ・ヘイバン・ラシャド・カトラ・ラフォファ・カドルの6つの語群である。
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・ゴレ島 |
セネガルの首都ダカールの沖合いに浮かぶ島。かつてヨーロッパ勢力による奴隷貿易の基地として使用されていた。
1628年にオランダが占領。地政学上の要衝という事もあり以後ヨーロッパ勢力によるゴレ島争奪戦が繰り広げられ最終的にはフランスのものとなった。1814年にフランスによって奴隷貿易が廃止されるまで、フランス領西アフリカ最大の奴隷貿易基地であり、島内には当時の建物、奴隷を閉じ込めておいた地下牢などが残され、世界遺産に登録されている。
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・コロゴ布 |
コロゴはコートジボアール北部に位置しマリ、ブルキナファソと国境を接する州(県?)であり、その中心都市の名でもある。
セヌフォ人の多く住むこの地域で作られる泥染め布は、マリのボゴランが幾何文様を描くのに対し、動植物やセヌフォの仮面儀礼などをモチーフにした絵画的な文様を染め抜くことが特徴的で、コロゴ布の名で知られている。
生成り木綿布の柔らかな白色をキャンパスに見立て、絵画的模様を描いたコロゴ布はマリのボゴランとはまた違った味わいがあり、地域の特産品として人気が高い。
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・コンゴ |
一口にコンゴといっても国名としてのコンゴ、または地理上の地名、歴史的地名としてのそれがある。国名として現在コンゴの名を使っているのはコンゴ共和国(コンゴ‐ビラザビル)とコンゴ民主共和国(コンゴ‐キンシャサ・旧ザイール)の2ヶ国である。地名としてコンゴという場合は狭い意味でコンゴ盆地をさす場合と、さらに広く歴史的地名として中部アフリカ一帯をさす場合とがある。
アフリカ大陸中央部に位置するコンゴ盆地はアフリカ一の流域面積(世界でも第二位)を誇る大河コンゴ河の流域とほぼ重なり約350万kuの面積を持つ。コンゴ盆地北部は広大な熱帯雨林に覆われその南部(コンゴ民主共和国南部からアンゴラ北部にかけて)には広々としたサバンナが広がっている。
歴史的地名としてのコンゴはギニア湾から大湖地方の間の中部アフリカ一帯をさす言葉であり、現国名としてはコンゴ共和国・コンゴ民主共和国・アンゴラ・カメルーン・ガボン・中央アフリカ共和国・赤道ギニア・サントメプリンシペの全部、または一部が含まれる。
アフリカの地域を大雑把に表す呼称としては他に「スーダン/サヘル地域一帯に相当」、「ギニア/現在のギニア湾岸諸国に相当」、「マグレブ/北アフリカ西部」などがある。
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・コンゴ(民族) |
→バコンゴ |
・コンゴ王国 |
マニ・コンゴ(コンゴ王)の統治のもと中部アフリカ、コンゴ河河口部南岸を中心に現在のコンゴ、アンゴラ地方を広い範囲にわたり支配した王国(14C〜19C)。コンゴ河北岸のロアンゴ王国、さらに北のテケ王国とは同系の王国と考えられている。
15C末に来訪したポルトガル人と友好関係を結び、王自らキリスト教に改宗するほどの友好振りであったが、やがて奴隷貿易の影響により国力が衰退。毎回繰り返される王位継承争い、ポルトガルの軍事侵攻などのせいもあり王国は有名無実化していった。19C末ベルギーによる植民地化により滅亡。
王国の担い手であったバコンゴ民族は彫刻の名手としても知られている。全身に釘を打ち付けたNkisiと呼ばれる呪術用彫像、各王の事績をあらわすために彫られた王の彫像などが有名である。
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・コンゴ河
(ザイール河) |
全長4700km(アフリカ第2位)、流域面積実に369万ku(アフリカ第1位。世界第2位)を誇る大河。数多くの支流が覆うその流域はコンゴ民主共和国(旧ザイール・以下RDC)全土、コンゴ共和国、中央アフリカ共和国、ブルンジ、タンザニア、ザンビア、アンゴラに及ぶ。河口地帯にはコンゴ王国・ロアンゴ王国が、上流部にはクバ王国やルバ‐ルンダ王国などが栄えた。
本流とみなされるルアラバ川はRDC南東部ザンビアとの国境付近に端を発し途中ルブア川、タンガニーカ湖から流れ出るルクガ川などの支流と合流しキサンガニからコンゴ河(ザイール河)と呼ばれるようになる。さらにRDC南部を覆うカサイ川、中央アフリカから流れてくるウバンギ川などの大支流を集めアンゴラとRDC国境付近で大西洋に注ぐ。
アンゴラ、RDC国境で大西洋に注ぐが河口からしばらく入った地域からは滝や急流があり河口から内陸への河川交通を阻んでいる。両コンゴの首都キンシャサとブラザビルが河を挟んで並ぶ地域から上流は川幅も広くRDC東部の主要都市キサンガニまでは大型船による河川交通も盛んである。熱帯雨林に覆われ道路事情の悪いこの地域では河川交通は地域の住民の生命線ともなっている。
コンゴ河の源流のひとつはRDC・ウガンダ国境のルウェンゾリ山地であるがこの山地はナイル(白ナイル)の水源でもあり、ルウェンゾリの東に降った雨はやがてナイル河となりアフリカ大陸を北上し地中海へ、西に降った雨はコンゴ河へと流れ込み大西洋に注ぐ。
流域にはバコンゴ、ヨンベ、バクバ、バルバなどアフリカ屈指の彫刻の名手として知られた民族が多数住んでいる。
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・コンゴ河
探検史 |
18C後半からのアフリカ内陸探検ブームの中、地理的「発見」を求めて多くの欧米人探検家がコンゴ河の水源を目指した。1874年、イギリスの探検家キャメロンはタンガニーカ湖とルアラバ川がルクガ川によって結ばれていることを確認。ルアラバ川がコンゴ河の源流であると予想したが未検証に終わった。
アメリカ人探検家スタンリーは1876年にタンガニーカ湖からルクガ川を下りルアラバ川に到達した。ルアラバ川がコンゴ河の源流であることを証明するためにスタンリーは翌年までかけてさらにルアラバ川を下り、河口まで到達した。
アフリカ三大水系、ナイル、コンゴ、ニジェールの源流探索のうち最後に解決したのがコンゴ河の源流探索であった。
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・コンゴ-
キンシャサ
(コンゴ
民主共和国) |
旧ザイール。中部アフリカに広大な面積を占める大国。資源大国でもあることがたたり1960年の独立以来何度もの内戦に見舞われてきた。国土の大半を熱帯雨林が占め北部を横断してアフリカ第二の大河コンゴ(ザイール)河が流れる。
主な民族はバコンゴ、ヨンベ、バルバ、バクバ、モンゴ(以上バントゥー系)、アザンデ、マングベトゥなど200以上の民族が暮らすといわれている。(森林地帯にはピグミーも居住している。)
この国はバコンゴ(コンゴ)、ヨンベ、バルバ(ルバ)、バクバ(クバ)など世界的に名の知れた彫刻に長けた民族が多数暮らす、アフリカ木彫文化の中心地のひとつである。
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・コンゴ-
ブラザビル
(コンゴ
共和国) |
アフリカ中部の国。コンゴ民主共和国とよく間違えられるが別の国。コンゴ民主共和国との国境をアフリカ第二の大河コンゴ(ザイール)河が流れる(一部はウバンギ川)。コンゴ共和国の首都ブラザビルとコンゴ民主共和国の首都キンシャサはコンゴ河をはさんだ対岸同士に位置する。
主な民族はバコンゴ、ヨンベ、サンガ、ムボシ、テケ、クウェレなど。アフリカ美術の宝庫としても知られ特にバコンゴやヨンベは彫刻の名手として名高い。全身に釘を打ち付けたNkisiと呼ばれる呪術用彫像などが有名である。
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・コング |
1710年から1895年にかけて現コートジボアール北東部からブルキナファソ南西部に存在した王国。
現コートジボアール北東部にあった小国家コングを、1710年頃にニジェール河中流域のマシーナからやって来たセク=ワッタラという軍事指導者が征服し、さらに近隣諸国を征服して領土を拡大し、1730年代にはニジェール河以南の西アフリカで最大の強国の一つとなっていた。
19Cに入り支配下の諸民族の反乱に悩まされ続け、1895年サモリ=トゥーレによって征服された。サモリ帝国がフランス軍に敗れた後フランス植民地に編入された(1898年)。
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・ゴンジャ |
16C末から現ガーナ共和国北部に存続している王国。16Cに盛んになった同地域へのマンデ系商人集団の進出に伴いにこの地域にやって来たマンデ系の騎馬軍団(一説には帝国崩壊によってこの地域に取り残されたソンガイ帝国の騎馬軍団)によって建国された。
いくつもの小王国に枝分かれし連合王国を形作っていた。南部のアカン系諸民族や東部のハウサ諸国、北のサヘル地域の交易の仲介者、中継地として繁栄したが19C末にイギリス保護領下に入った。
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・コンソ |
エチオピア南部の人口20万人ほどの少数民族。山岳地帯の頂上付近に砦のような村を築き、段々畑を作って農耕を営んでいる。
墓標として立てる祖先像「ワーカ」の制作でも知られている。
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・コンベ |
主に赤道ギニアに居住する民族。バントゥー系言語グループに属する。赤道ギニア大陸部の沿岸地方が主な居住地域である(同地域にいくつかの民族をンドウェと総称することがある)。
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