さ |
|
・サイ |
奇蹄目サイ科に属する大型草食動物の総称。全部で5種が現生し、アジアに3種、アフリカには2種が分布する。
アフリカに生息するのはクロサイとシロサイの2種であり中部、東部、南部アフリカのサバンナや潅木林地帯に生息する。角目的の密猟により絶滅の危機に瀕している。
シロサイ/White Rhinoと名づけられているが別に体色が白いわけではなく、、オランダ語でワイト(広い:口幅が広いため)が転訛してホワイトになったといわれている。カメルーンからウガンダにかけて生息していたシロサイの亜種キタシロサイはここ数年や成果での目撃例がない。
関連商品
|
・サイイド=
サイード |
1791?〜1856。アラビア半島の東端現オマーン(マスカット)の領主として生まれた。マスカットはインド洋交易の要衝であり、交易を通じ東アフリカ沿岸部とも深いかかわりがあった。
サイードは傾きかけていたオマーンの国運をインド洋交易の支配権を握ることで盛り返そうと決意し1820年代末から東アフリカ沿岸各地を攻略。1840年に本拠地をザンジバル(現タンザニア)に移し、オマーン(アラビア半島)、現ソマリア中部沿岸から現モザンビーク北部沿岸までに及ぶ一大海洋帝国を築いた。
サイードの国:オマーン海洋帝国は丁子(クローブ)栽培、インド洋交易などで栄えたが、サイードの死後オマーン(アラビア半島部)とアフリカ部に分裂。アフリカ側の領土は19C末にはヨーロッパ勢力の植民地となった。
|
・再生トンボ玉
/再生グラスビーズ |
ヨーロッパなどから輸入されたガラス製品のガラスくずを利用して19C頃から西アフリカ(ギニア湾地域が中心)で作られ始めたトンボ玉またはグラスビーズ。
ガラスくずを粉末にし粘土で作った型の中に詰め、火にかけてガラスを溶解させてつくる。その際中心に植物の茎などを立てておくので、火にかけて茎が燃えた後にはひもを通すための穴が残ることになる。様々な色のガラス粉を交互に型に詰めれば好きな模様のトンボ玉を作ることができる。
つやのないざらざらした質感が特徴的な素朴な味のトンボ玉であり、現在もギニア湾沿岸地域で数多く作られている。
<<ビーズ特集を見る
<<ガラス工芸特集を見る
関連商品
|
・犀鳥/
サイチョウ |
→カラオー |
・ザイール河 |
→コンゴ河 |
・サカラバ |
マダガスカル島南西部を中心に居住する牧畜民族(アラブ系移民の末裔とも言われている)。かつて独自の王国を形成しマダガスカル島南西部を支配したがイギリスやアラブ奴隷商が同地域、海域に勢力を伸ばすにつれ衰退し、やがてメリナ王国に呑み込まれた。
|
・ザガワ |
チャド東部、スーダン共和国西部にかけて居住する半遊牧民。自称は「ベリ」でありザガワとはアラブ人からの他称である。
8C後半頃にチャド湖周辺地域にカネム=ボルヌー帝国の前身となる国家を築いた。後にカネム地方の支配をカヌリ人の王朝(カネム=ボルヌー帝国)に奪われ、チャド湖周辺から追い払われ現チャド東部、スーダン共和国西部に移り住んだ。
|
・酒 |
アフリカ各地には様々な種類の酒があり多様な酒文化を持っている。外来の酒(ビール、洋酒など)を除いて西アフリカで作られ飲まれてる酒は主にヤシ酒とチャパロと呼ばれる雑穀ビールである。チャパロは主にサヘル・サバナ地域で、ヤシ酒はサバナ・熱帯地域で作られる。酒は古くから各種の儀礼や祝い事、村での共同作業などの時に振舞われ地域の文化の中で重要な役割を果たしてきたがイスラム化の進行とともに伝統的な酒文化が失われつつある(イスラム化した地域でもあまり気にせず酒を飲んでいるところもある)。
他にもエジプトやチュニジアなどの北アフリカ地中海沿岸地方では古代からワイン作りが行なわれ、禁酒国家スーダン共和国にもアラキと呼ばれる蒸留酒がある。エチオピアには蜂蜜酒が、ウガンダにはバナナ酒が、南部アフリカにも伝統的な雑穀ビールがあり、瓶詰めビールや洋酒の普及にもかかわらずアフリカの各地に工業化されていない多様な手作りの酒文化が残っている。
|
・刺し子 |
→アップリケ |
・サード朝
モロッコ |
16C初頭に起こり1659年までモロッコを支配していた王朝。16C初頭に興り同世紀半ばには現在モロッコと呼ばれている地域の大半を支配下に置いた。
1578年にポルトガル軍の侵攻を退け勢いを増していたサード朝モロッコはサハラの南にあるソンガイ帝国の富、サハラ縦断交易の利権を狙い、まず1584年にソンガイ帝国の勢力化にあったサハラの塩鉱タガザを攻略した。
タガザ攻略が期待通りの利益を産まなかったため、サード朝は1590年にスペイン生まれの元キリスト教徒フダルを隊長とする4000人の部隊(ほとんどがイベリア半島出身の傭兵か囚人)を派遣し、サハラを越え直接ソンガイ帝国の首都ガオへ侵攻した。火縄銃、大砲で武装したこの部隊はサハラを越え、1591年3月13日ガオの北トンディビでソンガイ帝国の大騎馬隊と衝突した。ソンガイ帝国は西スーダンで無敵を誇った騎馬軍約4万人をもってモロッコ軍を迎え撃ったが、初めて対戦する本格的な鉄砲部隊(火縄銃)の前に敗退し、モロッコ軍はガオへ、ついでトンブクトゥ、ジェンネを占領した。
ソンガイ帝国を滅亡させたモロッコ軍ではあったが、ソンガイ帝国旧領各地で相次いだ散発的な反乱、本国とあまりに離れていて、十分な支援を得られなかったことなどにより、帝国旧領の強固な支配を確立するには至らなかった。
サード朝はその後ヨーロッパ勢力の西アフリカ進出によるサハラ交易の衰退、王家の分裂などが重なり1659年に消滅した。
ソンガイ帝国に侵攻・占領したモロッコ軍がつくった政権は本国よりも長く生き延びたが、17C末には小さな地方政権の一つとなっていた。
|
・サハラ |
サハラ沙漠はアフリカ大部北部を横断する形に横たわる世界最大の沙漠であり、総面積約1000万ku、アフリカ大陸の約1/3を占め、モロッコ、アルジェリア、チュニジア、リビア、エジプト、スーダン、チャド、ニジェール、マリ、モーリタニア、西サハラの10(11)カ国にまたがる。
「サフラーウ/荒れ果てた地」という意味のアラビア語からサハラと呼ばれる。乾燥化以前のサハラは湿潤な土地であり(緑のサハラ)、その時代に描かれたゾウ、カバ、サイ、キリンなどの壁画がタッシリ=ナジェールをはじめサハラ各地に遺されている(→サハラの岩面画壁画)。前2000年ごろから乾燥化が始まり、現在のサハラ沙漠が形成された。
サハラというと見渡す限りの地平線に延々と連なる大砂丘群、という光景を連想する人も多いが、砂丘が発達するような砂沙漠は実際には全サハラの1〜2割の面積を占めるだけであり、残りの面積を岩石、砂礫に覆われた礫沙漠か、岩山の連なる山岳沙漠が占める。一口にサハラといってもさらに細分化され地域ごとにテネレ沙漠(ニジェール)、西部大沙漠(アルジェリア)、リビア沙漠(リビア)、ワラヌー沙漠などと名前がつけられていることが多い。
サハラの拡大は近年急速に進行しつつあり、サハラの南縁にあたるサヘルがサハラ化し、大きな問題となっている。
サハラに限らず沙漠は砂の海に、ラクダは砂漠の舟とたとえられることが多い。サハラによりアラブ・地中海世界とサハラ以南のアフリカは隔てられはしたが、荒海を越え交易を行った人々がいたように、砂の海をラクダという舟でわたり、交易に従事したのがベルベル系のトゥアレグ、アラブ系諸氏族などだった。彼らの張り巡らせたサハラ縦断交易路は大げさに言えばサハラを網の目のようにおおい、サハラ以南の諸王国と、北アフリカ諸国、さらには地中海世界とを結びつけていた。
7C以降のイスラムの拡大に伴い北アフリカに進出してきたアラブ人は現在では北アフリカのほぼ全域に居住し、サハラの住民の大部分もアラブ系のラクダ遊牧民である。またニジェール、マリ北部にはトゥアレグが、チャド北部、ニジェール東部にはトゥブが、マグレブ諸国にはアマジク(ベルベル)系住民がそれぞれ居住し、伝統的な遊牧生活(ラクダ)を送るものもまだ多く残っている。これらの諸民族はほぼ全てがイスラム教徒であり、サハラを縦断するほどの規模ではないものの、現在でもローカルなラクダキャラバンを組織し交易に従事している。
<<サハラ特集を見る
|
・サハラ
縦断交易 |
トランスサハラ交易とも。主にサハラの南北間(東西の交易がなかったわけではない)、つまりサハラの南の岸であるサヘル諸国とサハラの北の地中海世界との交易を指す。サハラという砂の海によって隔てられたサハラ以南のアフリカが世界の他地域と隔絶した世界であったと一般には考えられてきたが、実はトランスサハラ交易を通じて地中海世界と活発な人的、物的交流があり、地中海世界を通してヨーロッパ世界とも結びついていた(インド洋岸の地域およびその後背地もインド洋交易網の重要な一部として機能し外の世界と結びついていた。→インド洋交易)。
トランスサハラ交易の歴史を辿ることは資料文献の少なさから難しいが、ニジェール河河畔のガオなどで見つかった四頭立て馬車の岩壁画から古代ローマ時代にフェニキア人またはガラマンテス人がこの地域まで到達し,おそらく交易を行なっていたであろうことが推察される。
その後サハラの乾燥化に伴いサハラ交通の手段は馬から西アジア原産のラクダへと移っていった。7Cに始まるアラブの北アフリカ侵入の結果トランスサハラ交易の主役はアラブ人、トゥアレグなどのベルベル人(北アフリカの先住民)によるラクダキャラバンへと移り(マリ、ソンガイ帝国の時代には黒人系民族もサハラ越えのキャラバンに従事していた)、サヘルには交易の利益によりアフリカ史上最大規模を誇る国家がいくつも誕生し(現モーリタニア領を中心に栄えた古代ガーナ王国:7、8C〜1077/現マリ、ギニア領を中心に栄えたマリ帝国:13C?〜15C末/現マリ、ニジェール領を中心に栄えたソンガイ帝国:14C〜16C末/現チャド、ニジェール領を中心にさかえたカネム=ボルヌー帝国:9C〜19Cなど)、トンブクトゥ、ガオ(以上現マリ領)、アガデス(現ニジェール領)、クンビサレー(現モーリタニア領)、カノ(現ナイジェリア領)などの交易都市が栄えた。
サハラ縦断交易は西スーダンでは別名塩金交易とも呼ばれ、サハラの塩とサヘル以南で取れる金との交換が交易の柱であった。他にも北からは・繊維製品・装飾品・ガラス・馬などが、南からは象牙・銅・奴隷などがサハラを越えて運ばれた。時代により異なるが主なルートとしてトリポリ-フェザーン(以上現リビア領)-アガデスもしくはビルマ(現ニジェール領)を経由しボルヌー(現チャド領)、もしくはカノを結ぶ東ルート、現アルジェリア領からトンブクトゥ、ガオへ至る中央ルート、現モロッコ領からアウダゴースト、ワラタ(現モーリタニア領)、さらに時代が下ってからはトンブクトゥ、ガオへと至る西ルートがあった。
サハラを越えて運ばれてきた品物はトンブクトゥ、ガオ、カノなどの交易都市から南に向かってに張り巡らせれた交易網を辿り、西アフリカ内陸部南部(ギニア地方)各地へと運ばれ、またギニア地方の産物はそのルートを逆に辿りトンブクトゥ、ガオ、カノなどに集められ、サハラ交易網に乗って遠く地中海世界へと運ばれていった(西アフリカ内陸部の長距離交易を担っていたのがマンデ系商人、ハウサ商人などである)。
現在はラクダと自動車という交通手段の違いからルートも変わり(ラクダキャラバンは水の見つけやすい山岳沙漠を通る傾向が強く、自動車は走りやすい平地を選ぶ傾向がある)、モロッコ-西サハラ-モーリタニアを結ぶ西ルート、タマンラセット(アルジェリア)-トンブクトゥもしくはガオを結ぶ中央西ルート、タマンラセット-アガデス(ニジェール)を結ぶ中央ルート、セブハー(リビア)-ビルマ-アガデスを結ぶ中央東ルート、エジプト-スーダン共和国を結ぶ東ルートが主に使われている。
大航海時代に始まる海上交通の発達、さらに近年の自動車の普及に伴い地中海からサヘルまでのサハラを縦断するほど大規模なラクダキャラバンはもはや見られなくなった(小規模なラクダキャラバンはまだ各地で健在である)。主役こそ詩的なラクダキャラバンから散文的なトラックに取って代わられたとはいえ、サハラ縦断交易そのものは今日も健在であリ、ラクダ使いならぬトラック野郎がサハラを縦横無尽に走り回っている(以前ニジェールからアルジェリアに向かうときに乗り込んだトラックにはヨーロッパへ働きに行くという人たちでいっぱいだった)。
<<サハラ特集を見る
関連商品
|
・サハラの
岩塩 |
数億年の昔サハラは海の底にあった。その後のプレート隆起、大陸移動などを経て現在のアフリカ大陸が形成されたが、かつて海の底だった名残としてサハラにはいくつかの岩塩鉱や塩湖、塩水の湧き水などが残されている(マリのタガザ、タウデニ、モーリタニアのイジル、ニジェールのビルマ、インガールなど)。
塩分は人類の生存に不可欠なため、古来人類は塩の製造、入手に工夫を凝らしてきた。サハラの岩塩鉱はたいてい水平鉱床であり、地表から数m掘れば容易に岩塩が手に入ったため古くから人類によって利用されてきた。サハラで掘り出された岩塩はラクダのキャラバン(アザライ)によりサハラを超え南のサヘル地域へと運ばれた。
サハラの岩塩採掘がいつ頃から始まったのかはっきりしたことは不明であるが、7、8Cから現モーリタニアを中心に栄えたガーナ王国の時代にはすでに塩と金の交易が成立していたことが資料から伺える(ガーナの王は、国に入ってくる塩には金1ディナールの、出て行く塩に対しては金2ディナールの税を徴収したとの記録が残っている)。
海から遠い西アフリカ内陸部の住民にとって塩は非常に貴重なものであり、サハラを越えて運ばれてきた岩塩は時には同じ重さの黄金と交換されたという。ガーナ、マリ、ソンガイなど西スーダンに勃興した王国がアフリカ史上最大規模の国家に発展したのも、塩と金の交換を柱としたサハラ縦断交易から上がる利益に負ったところが多い。ソンガイ帝国滅亡の原因となったモロッコ軍の侵攻も、もとはと言えばサハラの塩鉱とサハラ縦断交易の権益をめぐってのことであった。
ガーナ・マリ・ソンガイの時代のサハラの岩塩生産の中心地はタガザであったが16C末のモロッコ軍侵攻により荒廃した。またその時にはすでに鉱脈が枯渇しかかっていたため、岩塩採掘の中心地は現在サハラの岩塩鉱として最も有名なのがマリ北部のタウデニへと移っていった。
17Cごろから採掘を始めたこの鉱山は現在も稼動中であり、今日でも往復1500kmの道のりを約40日かけて往復し岩塩を運ぶラクダキャラバンの、昔と変わらぬ姿を見ることが出来る。
<<サハラ特集を見る
関連商品
|
・サハラの
岩壁画 |
今でこそ世界最大の砂漠として名高いサハラもかつては清流流れる緑の大地であった。氷河期にはサハラは拡大、間氷期には縮小もしくは消滅するというサイクルを繰り返し、約1万年前に最後の氷河期が終わった後、約9〜8千年前に最大の湿潤期を迎えた。しかし4千5百〜4千年前頃に始まったサハラの乾燥化により、現代に至るまでサハラは拡大し続けている。
サハラ各地の山岳地帯にはこの緑のサハラの時代以来サハラに住み着いた人類の残した岩壁画、岩刻画が数多く残されている。主な遺跡はアルジェリアのタッシリ=ナジェール、リビアのフェザーン、チャドのティベスティ山地、エネディ山地、ニジェールのアイール山地、ジャド台地、マリのイフォラ山地など。
サハラに人類が住みついた時期は不明であるが(近年、数百万年前の初期人類の化石がサハラ中部で相次いで発掘されている)、8千年以上前の中石器時代のものと思われる岩壁画(岩刻画)がサハラ各地の山岳地帯で見つかっている(古拙時代)。
狩猟民の時代と呼ばれる8〜6千年前の新石器時代には動物や人間を描いた彩画、刻画が多くつくられた。この時代の人物像には瘢痕装飾、仮面らしきものをかぶった様子など現在もサハラ以南の黒人系民族固有の習俗が描かれていることから、絵の作者は黒人系の民族と考えられる。
6〜4、3千年前の時代は牛の時代と呼ばれ、牛、羊などの家畜の群れ、人々の生活や戦争の様子などが描かれている。この時代の絵の作者は描かれた習俗によく似た習俗を持つサヘルの牛牧畜民フルベと考えられている。
サハラに馬が導入されたのはおよそ3千年前であり、四頭立ての二輪馬車に乗って疾駆する人物像が数多く描かれた。この時代を馬の時代と呼び、作者はガラマンテス人(現在のベルベル人の祖先)と考えられている。
サハラの乾燥化が進むにつれより乾燥に強いラクダ(ヒトコブラクダ)が西アジアから導入されたのが前200年頃であった。この時代ラクダを主題に下絵が多く描かれ、ラクダの時代と呼ばれている。絵とともに古代リビア文字(現在トゥアレグが使っているティフィナグ文字の原型)が描かれるようになった。
11以降のアラブ人とベルベル人がこの地域に共存するようになってからの絵はアラボ・ベルベル時代に区分される。
(上記のサハラ岩壁画の時代区分は木村重信氏の提唱した区分に由る)
<<サハラ特集を見る
関連商品
|
・サバンナ |
サバナとも。イネ科植物の草原と疎林帯の入り混じった植生の地域。アフリカ、中南米、南アジア、東南アジア、オーストラリアに広く分布している。地理学の気候帯の名称でもあり、気温の年較差が少ない、雨季乾季がはっきりしている(通常夏季が雨季)、年平均降水量が乾燥限界以上であることなどが特徴である。
アフリカでは大陸中央部(コンゴ盆地)からギニア湾岸にかけて熱帯雨林が広がりその周辺をサバンナが、さらにその外周を沙漠が取り囲むというドーナツ型の気候・植生分布が見られ、サバンナはアフリカの面積の約4割を占めている。
←アフリカの気候
|
・サヘル |
サハラ沙漠の南縁地域のことを指す。アラビア語のサーヒル(岸辺)が語源。アラブ世界から見てサハラという砂の海の南の岸辺、イスラム世界の南の縁という意味でサーヒルと呼ばれた。地理、歴史でスーダンと呼ばれる地域とほぼ一致する。過去においてこの地域にはアフリカ史上最大規模の広域国家がいくつも興亡した(ガーナ王国、マリ帝国、ソンガイ帝国、カネム=ボルヌー帝国など)。
現在サハラの拡大、砂漠化の進行が問題になっているのが主としてこの地域であり、モーリタニア、セネガル、マリ、ブルキナファソ、ニジェール、チャド、中央アフリカ共和国、スーダン共和国などが含まれる。もともと雨が少ない地域であり近年の異常気象の影響で何度も旱魃に見舞われている。
アラブ世界からインド洋をはさんで向こう岸に当たる東アフリカ沿岸地域もアラビア語のサヒールに由来するスワヒリという名称で呼ばれている。
|
・サモ |
ブルキナファソ北部を主な居住地とするマンデ系農耕民。一部はマリにも居住。彼らの作る仮面・彫刻はブルキナファソのほかの諸民族の多くと同様、同心円状に彩色された飛び出た目、白、黒、赤の三角形を基調とした幾何文様の彩色という特徴を持つものが多い。
関連商品
|
・サモリ帝国 |
現ギニア共和国東部のマリンケもしくはジュラの商人の家に生まれたサモリ=トゥーレ(1830年〜1900年)がニジェール河上・中流域に築いた大帝国。
若い頃は商業に従事していたサモリはその後軍人になり1881年にはニジェール河上流域の支配を確立していた。この頃からサモリはイスラムに傾倒、86年には自らアルマミを称し帝国をイスラム国家として運営することを宣言した。1880年代にはニジェール河上・中流域一帯を支配する大帝国を築いたが91年にフランス軍と衝突、敗退。東方に転進しながらフランス軍への激しい抵抗戦を繰り返した。転進を繰り返しコートジボアール、ガーナ北部(この時期を第二次サモリ帝国と呼ぶこともある)に本拠地を移しフランス軍に対し頑強に抵抗するも98年についにに降伏。サモリはガボンに流され同地で1900年死亡した。
フランスによる植民地化に激しい抵抗を繰り返したサモリは現在でもギニア・マリ・コートジボワールなどで民族の英雄として語り継がれている。ギニア共和国の初代大統領セク=トゥーレはサモリの子孫であり彼もまたフランスの新植民地主義に抵抗。1958年にフランス共同体にとどまる事を拒否しアフリカの旧フランス植民地として最初の独立を達成した。
|
・サラ |
主にチャド南部に居住する農耕民。同国最大の民族グループでありチャドの全人口の30%を占める。ナイル-サハラ語族シャリ-ナイル語派中央スーダン諸語に属する言語を持つ。
サオ文化の担い手の末裔とも言われており、自らはエジプト方面からの移民の末裔との伝承を持っている(サラとはエジプトの太陽神ラーの息子という意味だとの伝承がある)。サラだけではなく西アフリカの諸民族には民族の起源を北方、または東方に求める伝承を持つ民族が少なくない。
|
・サラコレ |
→ソニンケ |
・ザリア |
ハウサ諸国のうちハウサ-バクワイ(ハウサ七国)と呼ばれた主要な都市国家のうちの一つ。15C末にイスラム教が伝来。他のハウサ諸国と同様イスラム化したザリアはイスラムの商習慣を取り入れ、サヘルと南の森林地帯を結ぶ交易者(または交易の仲介者)として栄えた。16Cにはアミナ女王の統治のもとハウサランド一の強国となり、近隣のヌペ王国、ジュクン王国を支配した。
ハウサ諸国はアシャンティ王国のような同族連合を組織することがなく、むしろハウサ都市国家同士で敵対することもしばしばであったため他国の干渉を受けることも多く、ザリアは一時は東の大国ソンガイ帝国の朝貢国となったり、統治下に置いた事もあるジュクン王国に侵攻されたりして、1805年にはソコト帝国に征服された。
|
・サルーム
王国 |
セネガル中西部にあった(ある)セレール人の王国。15C末に建国され、一時隣国のシン王国を支配下に置くなど強勢を誇ったが1850年にフランス軍によって占領された。サルーム王国は世俗的権力を持たない王国として現在まで存続している。
ストーンサークルを含む石造構造物(多くは用途不明)を多く残した王国としても知られている。
|
・サン |
いわゆるブッシュマンと呼ばれていた民族。コイと共にコイサン語族に属する言語を持つ。アフリカ最古の住民とも言われ、古くはアフリカ中部、東部、南部などに広く居住していたが、バントゥー系民族の拡大、ヨーロッパ人の進出などにより、次第にカラハリ沙漠などの僻地に追いやられていった。
低めの身長、球状毛(螺髪みたいな状態の髪)、黄褐色の肌等の形質的特長を持ち、時折モンゴロイドそっくりの顔貌をしたものもいる。
南部アフリカ各地にはサンの祖先が描いたと考えられる岩壁画が多数のこされていて、その範囲はタンザニアから南ア共和国南端にまで及ぶ。制作年代については6000年前くらいから19Cまでと考えられている。
現在でも一部のサンはカラハリ沙漠で狩猟採集生活をおくっているが、純粋な狩猟採集生活を送るものはだんだんと少なくなってきている(アフリカの狩猟採集民には他にピグミー、ハッザ、ドロボなどがいる)。
|
・サンウィ
王国 |
18C半ば(1740年?)に建国されたアカン系民族アグニ人の王国。現コートジボワール南東部を領有していたが、19C半ばにフランスの保護国となり、その後もフランス植民地体制下で王国として存続していたが、コートジボワール独立を控えた1959年に公式に消滅した。
|
・サンガ |
コンゴ共和国北西部サンガ地方を主な居住地とする民族。同国においてはバコンゴの次に大きな人口を抱える民族集団である(人口比で20%を占める)。
|
・ザンジバル |
タンザニア北部の沖合いに浮かぶザンジバル島、ベンバ島、および30余りの小島からなる島域。古くから、インド、ペルシア湾地方、アラビア半島、アフリカの角、アフリカ大陸東岸を結ぶインド洋交易網の拠点として栄えてきた。
キルワ島、ポルトガル、オマーンなどいくども支配者が変わり、19C半ばにオマーンの領主出身のサイイド=サイードがザンジバルを中心に現ソマリア中部沿岸から現モザンビーク北部沿岸までに及ぶ一大海洋帝国を築いた。サイードの国は丁子栽培、インド洋交易などで栄えたが19C末にはイギリス、ドイツの植民地となった。
住民構成は複雑な歴史を反映し、アフリカ系、アラブ系、ペルシャ系、インド系、それらの混血などと大変複雑である。
1963年にアラブ人主導の王国として独立。64年のクーデターにより王国は倒れアフリカ人主導の政府が成立。同年タンガニーカ共和国(現タンザニアの大陸部に当たる)と合併しタンザニア連合共和国の一部となった。
|
・サンダウェ |
タンザニア中央部を居住地とする民族。ヨーロッパ人(ドイツ)による現タンザニアの植民地化以前は昔ながらの狩猟採集生活を送っていた。クリック音を使用する言語を持ち、その言語はコイサン語族に含まれると考えられることや形質特徴から、サンダウェはサンやコイと同じく東・南部アフリカの先住民の子孫ではないかと考えられている。
|
・ザンデール |
ニジェール中南部に位置する人口約20万人のニジェール第二の街。古くからサハラ縦断交易の中継地として栄えてきた。
ザンデールの最初の住民はハウサ人だったらしい。その後1731年にカヌリ人の王により建国されたダマガラム王国(ザンデールのハウサ語名がダマガラム)の首都となり、南方のハウサ国家や東方のカネム=ボルヌー帝国との交易により栄えた。
1899年にフランス軍により占領。1911年から26年まではフランス領ニジェールの首都であった。
ザンデールの位置を見る>>
|
・サントメ
プリンシペ |
ギニア湾最奥部カメルーン・ガボン西沖約100〜200qの洋上に点在する島々からなる共和国。主な島であるサントメ島とプリンシペ島の名前をつなげて国名としている。
15C後半にポルトガル人がこの初頭に到達・入植したときには無人島であった。サントメプリンシペは交易の中継地として、またポルトガル人入植者による大規模農園によって繁栄した。1975年にポルトガルから独立。
植民地時代に連れてこられたアフリカ人の子孫、近隣国からの出稼ぎ労働者などが主な住民であり、彼らの言語と旧宗主国の言語ポルトガル語が混ざったクレオール語が広く用いられている。ポルトガル人入植者は独立時にほとんどが引き揚げた。
|
・サンの
岩面画 |
アフリカ大陸の最古の住民サンが描いた岩壁画が、東部・南部アフリカ各地に数多く残されている。乾燥地帯(カラハリ)をのぞく南部アフリカのほぼ全域から北はタンザニアまでの広い範囲にわたって残されているこれらの遺跡は数千を数え、6000年ほど前から100〜200年ほど前までの期間にわたって描き残されてきたと考えられている(現在のサンは岩面画の製作を行わない)。
壁画の主題は、レイヨウ類をはじめとする動物、弓矢を持ち疾走する人物像、ダンス、宗教儀式の場面などが主なものであるが、後期のものには銃を持ったヨーロッパ人の姿も登場する。技法としては輪郭のみの絵、彩画、線刻画などがある。
|
・サンハジャ |
マグレブ地方のベルベル人氏族連合。連合に属する氏族をサンハジャ人と総称することもある。現モロッコ領アトラス山脈のあたりを拠点としていたが、イスラム受容後、勢力を拡大しマグレブ地方にいくつもの王国をうちたてた。
11C頃にはムラービト朝を建国し、マグレブ一帯、イベリア半島の一部を支配下に置き、果てはサハラの南へ侵攻しセネガル河流域までを勢力下に置いた(ムラービト朝の侵攻の結果ガーナ王国が滅亡した)。
|
・ザンビア |
アフリカ大陸中南部の内陸国。コンゴ民主共和国、アンゴラ、ジンバブウェなどの8ヶ国と国境を接している。17C前後にはバントゥー系民族の小王国がいくつも建設された。イギリスによる植民地化を経て1964年に独立。世界一の銅産出国としても有名。
主な民族はベンバ、チェワ、ツォンガ、ロジ、ンセンガ、トゥンブカ、ンゴニ、バチョクウェなど。
ザンビアの商品
ザンビアの写真を見る>>
<<東・南部アフリカ特集を見る
|
・サンブル |
ケニア中央部に住む牧畜民。牛を中心にヒツジ、ヤギ、ラクダなどを飼育し半遊牧の生活形態を持つ。サンブル語はマサイの言語とほぼ同じであり、生活形態なども非常に似通っているにもかかわらず、サンブルはマサイを、マサイはサンブルを別の民族とみなしている。
サンブルはマサイからの他称であり自称はロコプ(またはロイコプ)である。
|
・ザンベジ河 |
全長2700km、流域面積133万kuを誇るアフリカ第四の大河(インド洋に注ぐ川の中では最大最長)。ザンビア北西部の山岳地帯に端を発しモザンビーク中部でインド洋に注ぐ。支流も含めると流域の中にはザンビア、アンゴラ、ナミビア、ボツワナ、ジンバブウェ、コンゴ民主共和国を含む国際河川である。主な支流としてはシーレ川、カフェ川、ルアングワ川などが挙げられる。
流域に複数の大ダム・ダム湖(カリバダムとそれによるダム湖:カリバ湖など)を持ち、中流には世界第二の幅を持つ瀑布モシ=オ=トゥーニャ(ビクトリアフォールズ)がある。内陸漁業も盛んであり、ナマズ・コイの類が主な獲物である。
|
し |
|
・ジェ |
ウガンダ北東部のケニアや南スーダンとの国境に近い地域を主な居住地とする半遊牧の(牛)牧畜民。近隣の民族カラモジョン(南隣)やドドス(北隣)とは近縁関係にあり、(ナイル-サハラ語族東スーダン諸語東ナイル語群)の方言を用いる。
|
・シエラ
レオネ |
西アフリカ、ギニア湾に面した国。国名の由来は山岳地帯に響く雷鳴を聞いたポルトガル人が「獅子の山」と名づけたことによる。テムネやメンデが過去にこの地域にいくつかの王国を形成したがヨーロッパ人が来航する15C以前の歴史については不明なことが多い。1808年に解放奴隷のアフリカ帰還のための入植地としてイギリス植民地となり、150年以上を経た1961年に独立を果たした。
主な民族は、テムネ、メンデ、リンバ、シェルブロ、ヴァイ、コノ、ロコ、クランコや国家のエリート層を占める(占めていた)帰還奴隷入植者の子孫たちなど。
メンデは彫刻に秀でた民族として世界的に知られていて、ポロ、サンデ(アフリカには珍しい女性の秘密結社)などの秘密結社の儀式に使用される仮面、彫刻はアフリカ美術の傑作のひとつといわれている。また、かつてシェルブロやテムネがヨーロッパ向けにつくった象牙細工はシェルブロ=ポルトギーズと呼ばれアフリカ象牙工芸の最高峰といわれている。
|
・シェルブロ |
シエラレオネ南西部を中心として居住する民族。最も早い時期にヨーロッパ人と接触した西アフリカの民族のひとつであり(15Cにポルトガル人と接触)、ヨーロッパ人との交易により力を蓄え、15,16Cから植民地時代には同地域で大きな勢力を持っていた。
アフリカで最も美しい象牙工芸品を作ったことでも知られ、15,16C頃ヨーロッパ向けに輸出されたシェルブロの象牙細工はシェルブロ=ポルトギーズと呼ばれ、大変珍重された。
|
・ジェルマ |
ニジェール南西部に居住する民族。主にマリに住むソンガイとは近縁関係にある。ソンガイ帝国の時代に現マリ共和国のニジェール河大湾曲地帯のあたりから移住してきたと考えられている。18C半ばにニジェール南西部の街ドッソを首都とするドッソ王国を建国した。
鮮やかな色模様を織り込み、房飾りなどをつけた布(Couverture de Djerma)をつくることでも知られている。
関連商品
|
・ジェンネ |
マリ共和国ニジェール河中流域に発展した交易都市。もともとは漁労民ボゾの村であったが、地理的な好条件からおそらく12,3世紀頃に交易都市として発展し始めたと考えられている。
サハラ縦断交易の中心地トンブクトゥとはニジェール河の水運で結ばれ、トンブクトゥがサハラの北とスーダン(サヘル)の仲介役であったのに対し、ジェンネはスーダンとギニア(サヘルより南の森林地帯)の仲介の役を果たしていた。交易の中継地としての重要性からマリ、ソンガイ帝国が何度もジェンネを支配下に置こうとしたが15C末までその独立を保持し、ソンガイ帝国の支配下に組み込まれた後もかなりの自治を享受し続けた。
月曜ごとに開かれる大市には近隣の住民が大挙して押し寄せ、昔日の交易都市の賑わいを思い起こさせる。1280年頃に建てられたスーダン様式の壮大な日干し煉瓦のモスクは世界最大の泥(日干し煉瓦)のモスクとして有名である。現在モスクを含むジェンネ旧市街は世界遺産に登録されている。
マリの地図を見る>>
|
・ジェンネ
=ジェノ |
マリ共和国ニジェール河中流域に発展した交易都市ジェンネの郊外数kmの場所にある遺跡。前3C半ばに建てられ14Cごろ消滅したと考えられている。アフリカ最古クラスの鉄器使用の痕跡(前250年ごろ)、アフリカ原産米の最古の栽培の痕跡(1C半ば〜4C末頃)などがのこる、西アフリカ史研究の上でも非常に重要な遺跡のひとつである。
ニジェール河の水運を利用しトンブクトゥ等との交易で栄えた。。現在のジェンネはその後継都市と考えられている。ジェンネ・ジェノ遺跡からは素焼きの人物像などが多数発掘され近隣のドゴンの彫刻と何らかの関連があるのではないかと議論されている。またノク遺跡(ナイジェリア)をはじめニジェール河中・下流域に散在する多数の遺跡からは、古いものでは紀元前2世紀頃にさかのぼると見られる素焼きのつぼ、塑像が大量に出土している。
|
・塩 |
→サハラの岩塩 |
・シコクビエ |
西アフリカから東アジアまでの広い地域で栽培されているイネ科の雑穀。原産地は東アフリカと考えられ作物化も同地域で始まったと考えられている。現在でもエチオピアからジンバブウェにかけての地域では非常に重要な作物である(エチオピアではその他にもテフという雑穀が主要作物となっている)。なおシコクは漢字では四石であり四国ではない。
|
・刺繍 |
→アップリケ |
・シジルマサ |
現モロッコ北部フェズの南東に位置するオアシス。8C頃にオアシスを中心として町が建設され、サハラ縦断交易(西ルート)の北の終点として、またサハラ以南アフリカの産物をさらに北のヨーロッパへと送る交易中継地として繁栄した。
シジルマサはサハラの南の、ガーナ王国(後にはテクルール王国、マリ帝国)、アウダゴースト、ワラタ(後にはトンブクトゥ)などの交易都市とアラブ・地中海世界を結ぶ交易網における北アフリカ側の最も重要な拠点の一つとして繁栄していたが、1363年モロッコの内乱により破壊され18Cまで再建されないままであった(19C初頭にまた破壊された)。
|
・シダモ |
主にエチオピア南西部に居住する民族。クシ語系の言語を話し、エチオピアでは5番目に多い人口を持ち(人口比約4%)、伝統的な農耕牧畜の生活を営むものが多くのこっている。
9C頃から同地域に居住していると考えられ緩やかな王国群を形成していたが、19C末のエチオピア帝国の拡張により同帝国に征服された。
|
・失蝋法 |
金属鋳造の技法の一つ。脱蝋法、溶蝋法とも。蝋(ろう)で作った型を蝋抜きの管をつけて粘土で包み、粘土を熱して蝋が流れ出た空洞に溶けた金属を流し込むという鋳造法であり、粘土を壊せば蝋型と同じ形をした青銅、真鍮などの像が得られる。
通常融点の低いブロンズ、真鍮などの金属を使った鋳造に用いられる。アフリカにおける失蝋法による青銅器製作はイボ・ウクウ文化(9C頃?)が確認できる限り最古のものである。
<<アフリカのブロンズ工芸特集を見る
|
・シード
ビーズ |
小粒の管引きグラス(ガラス)ビーズのこと。溶かしたガラスで管を作りそれを引き伸ばしたものを輪切りにしてつくる。極小のものは特に高い技術が必要なため、古代から中世においては高品質のシードビーズはインドでほぼ独占的に生産され世界中に輸出されていた。
アフリカにはインド洋交易、サハラ縦断交易、時代が下ってからはヨーロッパとの大西洋交易を通して持ち込まれたが、貨幣の代わりとして使われることもあるくらいの貴重品であり、それらをふんだんに使った装飾品を用いることができるのは王侯貴族、聖職者などの特権階級のみであった。
ヨーロッパではアフリカとの交易品として15C頃にヴェネチア(現イタリア:現在は生産していない)が、17C頃からはボヘミア(現チェコ)でもシードビーズの生産を始めた。
様々な色のシードビーズを複雑な文様を描くようにして編みこんでつくった王や貴族の衣服、帽子(冠)や、そうやって編みこんだビーズ細工で表面をおおったいす、仮面、彫像、ひょうたんなどの工芸品が西アフリカではナイジェリア(ヨルバ)、カメルーンを中心として作られてきた。
アクセサリーとしては西アフリカでは一般的に大粒のビーズ(トンボ玉)が好まれたのに対し、古くからインド洋貿易を通じて大量のシードビーズがもたらされた東・南部アフリカではシードビーズを用いたビーズ細工によるアクセサリーが好まれ、コーサ、ズールー、ンデベレなどのビーズ細工・アクセサリーは世界的に有名である。
<<ビーズ特集を見る
シードビーズを使ったアクセサリーを見る
ネックレス・ピアス・ブレスレット
アクセサリー以外でシードビーズを使った商品
|
・シファカ |
サル目曲鼻猿亜目(霊長類原猿亜目)インドリ科の一属。シファカ属にはカンムリシファカ、タタールシファカ、ベローシファカ、コクレルシファカの4種が含まれる(いずれもマダガスカル固有種)。なかでもベローシファカ(マダガスカル島南西部に棲息)は地上を移動する際に横っ跳びで移動するユーモラスな姿がよく知られている。
|
・ジブティ |
ジブチとも表記される。アフリカ北東部、紅海に面しエリトリア、エチオピア、ソマリア(ソマリランド)に囲まれた小さな国(面積2万2千ku)。アフリカ大地溝帯陸地部分の北端に当たる。
紅海の出入り口(紅海とアデン湾を結ぶ位置)にある良港としての地政学上の重要性から、19C半ばからフランスが勢力を伸ばし、同世紀末には植民地化した(フランス領ソマリ海岸)。1977年に独立。アフリカ最低標高地点であるアッサル湖がある。
主な民族はソマリ系イッサとアファール。他に少数のアラブ人など。
|
・ジブラルタル
海峡 |
アフリカと欧州を、大西洋と地中海を隔てる海峡。長さは約60q、幅は一番狭いところでは14kmとなっている。
基本的にはスペインとモロッコの間に横たわる海峡といっていいのだが、ややこしいことにアフリカ側の港町セウタはスペイン領でヨーロッパ側の港町ジブラルタルはイギリス領となっている。
はるか昔のギリシャ時代から現在まで交通・地政学上の要衝として知られ、さまざまな国家がこの地域を支配してきた。
ジブラルタルの岩山とセウタの岩山はヘラクレスの柱と呼ばれ古代の地図にも記載されている。穏やかな地中海から、荒れた外海(大西洋)への出口として、地中海世界の重要な境界線とみなされていた。
|
・シマウマ |
ウマ科ウマ属のうち体に縞模様を持つ種の総称。サバンナシマウマ、グレービーシマウマ、ケープヤマシマウマ、ハートマンヤマシマウマ4種からなる。
体の大きさ、縞のはいり方など(全身縞模様の種、体の前部のみ縞模様のものなど)種・亜種によってさまざまであり、東部アフリカから南部アフリカのサバンナ地帯、山岳地帯に棲息し通常は群れ単位で生活する。
ウマと名づけられているがどちらかといえばロバに近い。
関連商品
|
・シャカ |
1787年〜1828年。19Cに南部アフリカに栄えたズールー王国の建国者。ズールー人の首長の息子として生まれたが、母の追放に伴い隣国に亡命。隣国の軍司令官となりその武力を背景に、父の死後その後継者を殺しズールの首長となった(1816年)。
シャカによる軍制改革の結果ズールーは強大な軍事国家となり、周辺諸民族を征服、版図を拡大していった。イギリス人から火器を入手したズールー軍はさらに勢力を増し、王国は南部アフリカ一の強国へと成長したが、国内に恐怖政治を強いていたシャカは1828年に異母弟たちによって暗殺された。
ズールー王国はシャカの死後も勢力を拡大し、時にはヨーロッパ勢力と互角以上の戦いを繰り広げ1880年まで存続した。
|
・ジャド台地 |
ニジェール北東部に位置するサハラ沙漠内の台地(高原)。西にはホガール山地(アルジェリア)が、東にはティベスティ山地が連なり南はテネレ沙漠に面している。主な住民はラクダ遊牧民の西のトゥアレグと東のトゥブである。サハラの岩壁画が遺されているほか、廃墟となった遺跡(砦や町)などが遺されている。
|
・シャリ川 |
中央アフリカ共和国北部を源流とし、チャド南部を北西方向に流れチャド湖に注ぐ大河。カメルーン北部アダマワ高原を源流とするロゴヌ川(ロゴヌ川は中流〜下流ではカメルーン・チャドの国境線となっている)が合流するチャドの首都ンジャメナから下流ではカメルーン・チャドの国境線をなす。
全長約950q、流域面積は約55万ku。中流域でスーダン共和国西部ジェベル=マッラ(マッラ山地)を源流とする2つの支流バハル=アウク、バハル=サラマトゥを併せる。
チャド南部の人口密集地帯はほとんどがシャリ河流域に集中している。またチャド湖の水量のほとんどを供給しているのもこのシャリ河であり、流域住民にとって重要な水資源となっている。
|
・シャリ-
ナイル語派 |
ナイル-サハラ語族を構成する語派のひとつ。主にナイル河とチャドのシャリ川の流域に挟まれた地域に分布しているためにこの名がついた。中央スーダン諸語(マングベトゥ、ルグバラ、サラなど)、東スーダン諸語に下位分類され、東スーダン諸語にはヌエル、ディンカ、シルック、マサイなど民族誌で有名な民族が含まれる。東スーダン諸語に属する諸民族には牛を中心とする牧畜民が多く含まれ、社会的、文化的、宗教的に牛を非常に重要視(神聖視)する民族が多い(東アフリカ牛牧文化複合)。
また、ベルタ語(スーダン共和国-エチオピアに居住するベルタ人の言語)、クナマ語(エリトリア-エチオピア国境地帯に居住するクマナ人の言語)という孤立言語(他の言語との関係性・近縁性が不明瞭な言語)も、シャリ-ナイル語派に含められることもある。現在ではこの語派の存在を否定する学説もある。
|
・シャンゴ |
シャンゴは雷・嵐の神、万物の誕生を司る神であり、ヴードゥー教の神々の中で最も多くの信者を持つ神の一人である。
シャンゴは生前オヨの第三代の王であったとされ、恨みをのんで死んだといわれている(勇猛な戦士であり医者でもあったが、暴君であったため臣下に攻め滅ぼされた)。人々はシャンゴの祟りを恐れ、シャンゴの霊を慰めるために彼を神として祀った。
双頭の斧はシャンゴのシンボルであり、シャンゴ像やシャンゴの社、シャンゴに関する儀式用品などにそのモチーフが用いられている。
ヴードゥー教特集を見る>>
関連商品
|
・宗教 |
→アフリカの宗教 |
・住民 |
→アフリカの住民 |
・ジュクン |
現ナイジェリア東部およびカメルーン北西部に住む民族。詳しい起源は不明であるがナイジェリア東部ベヌエ川流域に王国を築いた(14C頃には建国されていたと考えられている。)。
ジュクン王国は16Cには一時ハウサ諸国のひとつザリアの支配下に入ったものの、16C末には逆にザリアを一時占領するほどの強国になっていた。その後ジュクン王国は19C初頭にソコト帝国によって滅ぼされるまで同地域に存続していた。
ジュクン王国には「王殺し」の習慣があり、これは国家を繁栄させるための神聖なエネルギーに溢れているべき王の体に衰えが出てきた場合には、臣下の手によって王が殺され新たにエネルギーに溢れた王が即位するという慣わしであった。
関連商品
|
・樹皮布 |
木の皮を薄く延ばして作った布。おそらくはアフリカで最も古くから作られていた植物性素材の布。主にイチジク属の木の皮をはぎ、砧打ちのように槌などで叩いて薄く柔らかく延ばして作る。
樹皮布の製作はギニア湾岸地域からコンゴをとおり東アフリカのウガンダ、ルワンダ、マラウィ、およびマダガスカルなどの地域で行われている(もしくは行なわれていた)。現在ではこれらの地域で樹皮布は日常品としての地位を失い、何らかの儀礼的な意味を持つ場においてのみ着用されることが多い。
日常の衣料として樹皮布を使用するのは現在ではコンゴのピグミーの一部に限られるが彼らのつくる樹皮布はその染色と文様の美しさで知られている。
|
・ジョス高原 |
ナイジェリア中部(北部)に位置する高原。平均標高1200mほどの高原が約9千kuにわたり広がっている。中心都市はプラトー州の州都ジョス。カドゥナ川(ニジェール河の支流)、ゴンゴラ川(ニジェール河の支流ベヌエ川のそのまた支流)、ヨベ川(チャド湖水系)などの源流地帯である。
またかつてこの高原地帯にアフリカ最古の鉄器文化ノク文化が栄えた。
|
・ショナ |
ジンバブウェ、モザンビーク南部を中心に居住するバントゥー系農耕民族。総人口は約1000万人であり、ジンバブウェでは最も高い人口比を占める。多くのサブグループに分かれている。
11C〜15Cにかけて現ジンバブウェを中心に繁栄したモノモタパ王国を建国した。
|
・ジョラ |
セネガル南部のカザマンス地方を中心にガンビア、ギニア=ビサウにも居住する農耕民。民族の起源ははっきりとしていないが、現在この地方に住んでいる他のどの民族よりも早くこの地方に定住したと考えられている。
|
・シーラカンス |
硬骨魚網総鰭類シーラカンス目に属する魚の総称。デボン紀(約4億年前)に出現し多様な主に分化し繁栄したが白亜紀末(約6500万年前)に全て絶滅したと考えられていたが、1938年に現南アフリカ共和国東岸で捕獲され、現生種が確認された。
その後マダガスカル近海、コモロ諸島近海などで多く捕獲されている。20C末にはインドネシア沖でもう一種のの現生種が確認された。
数億年前の魚類の形質を多く持っているため「生きた化石」と呼ばれている。
|
・シルック |
スーダン共和国南部および(現南スーダン共和国)ナイル河上流域に居住する黒人系農耕・牧畜民族。牛、ヤギ、羊などを飼育するが東アフリカのほかの牧畜民同様特に牛が重要視(時には神聖視)され、また東アフリカのほかの牛牧民の多くと同様ナイル‐サハラ系の言語を使用する。シルックの形成した王国は王殺しの習慣によっても知られている。
|
・シルック王国 |
スーダン共和国南部ナイル河上流地域にあるシルック人の王国。伝承によればニイカングという初代の王によって建国されたと伝えられている(15C頃?)。シルック王は代々このニイカングの子孫によって継承される。1865年に滅亡した後1956年に儀礼的存在として再興した。
シルック王国では王の身体的な活力がそのまま国家の活力に直結していると考えられていたため、老いや病で王の体が衰えるとそれに引きずられて王国の力も衰えると考えられていた。そのため力の衰えた王のせいで王国が衰えるのを防ぐため、そのような王は小屋に閉じ込められ食物を与えられずに餓死させられ、新たに活力に満ち溢れた(つまり国家の繁栄を導く)王が即位する「王殺し」の習慣があった(殺し方はさまざまであるが「王殺し」の習慣はジュクン、アンコレ、ブニョロ、などアフリカのいくつもの王国で行われていた)。
|
・白ナイル |
世界最長の大河ナイル河を形成する2つの主流のうちの長いほうのひとつ。ウガンダ、ケニア、タンザニア国境に位置するアフリカ最大の大湖ビクトリア湖に源を発し北へと流れ、スーダン共和国の首都カルトゥームで青ナイルと合流しナイル河本流を形成する。
正確に言えばビクトリア湖から南スーダン共和国でバハル=エル・ガザル川と合流するまでの区間はバハル=エル=ジェベルと呼ばれ、白ナイルと呼ばれるのはガザル川との合流地点から青ナイルとの合流地点までだが、一般にはビクトリア湖からカルトゥームまでの約3700qを白ナイルと呼ぶ。
|
・シン王国 |
セネガル中西部にあったセレール人の王国。14C末には成立していたと考えられている。シネ王国はその初期にはジョロフ王国の属国であったが16C半ばに独立を達成した。その後王国は一時サルーム王国の属国となったりはしたものの、植民地時代にも名目的首長としての地位を維持し、セネガル独立後の1968年まで存続した。
|
・シンゲッティ |
モーリタニア北部アタールの西に位置する砂丘に囲まれたオアシスの町。かつてはマグレブ諸国で最も重要なイスラム学問都市のひとつであった。
(伝承によれば)777年に建設されたシンゲッティは11C頃にはサハラ縦断交易の重要な交易都市のひとつとなっていた。13Cには交易の安全を護る要塞都市となったシンゲッティは、マグレブ有数のイスラム学問都市でもあり、メッカへの巡礼の集合地としても知られていたため、北西アフリカではイスラム第七の聖都とも呼ばれている。
現在のシンゲッティは砂丘に飲み込まれかけた小さなオアシスであるが、石と日干し煉瓦をつんで造った家が建ち並ぶ旧市街には、金曜日モスク(13C頃建立)、中世から続くイスラム図書館などの重要な文化遺産が現存する。
|
・身体変工 |
体の一部を半永久的に変形させること。伝統的社会においては成人儀礼・通過儀礼として、また民族・氏族などの出自を表すものとして施術されることが多い(ファッションとしての身体変工も行われているが)。
身体変工にはいくつかの種類がある。
穿孔:耳たぶや鼻に穴を開ける。そこにアクセサリーを通すことが多い(アフリカ全土)。
伸張:体の一部を伸ばす。穿孔と伸張を組み合わせたスルマ・ムルシなどの例
(リッププレート)がよく知られている。
狭窄:体の一部を圧迫して変形させる。マングベトゥの頭蓋変工など。
切断:体の一部を切断する。割礼などが代表例(アフリカの広い地域で行われている)。
歯 :歯を削ったり、穴を開けたり、抜いたりする。マサイ、サンなど。
文身:瘢痕装飾/刺青。体表面に刃物ややけどの傷などで文様を描く(瘢痕装飾)、
またその傷に色素を刷り込み定着させる(刺青)。
アフリカの広い地域で行われている。
耳たぶの穿孔はアフリカ全土で(特に女性に)行われているが儀礼的な意味はほとんど失われファッションの一部となっている(いわゆるピアス)。瘢痕装飾・刺青(特に顔面の)はスーダン共和国南部(現南スーダン共和国)から中部、西アフリカの広い地域で、民族・氏族等の出自を表すものとして広く行われている(東・南部アフリカについてはよく知らない)。
|
・ジンバブウェ |
南部アフリカに位置する内陸国。国土の大半がステップに覆われザンビアとの国境には世界第二位の幅を誇る瀑布モシ=オ=トゥーニャ(ビクトリアフォールズ)がある。ジンバブウェとはショナ語で「石の家」を意味し、同国南部にある巨石建造物「グレートジンバブウェ遺跡」に由来する。
この地域の先住民はコイ・サン系の民族であったが2C頃からバントゥー系民族が北から移住してきた。この地域は東アフリカ沿岸部を仲介者としてインド洋交易圏に組み込まれ、豊富な鉱産資源(金など)と交易の利益をもとにモノモタパ王国、ロズウィ王国などの強大な王国が栄え、数多くの巨石建造物(グレートジンバブウェなど)を遺した。
19Cに興ったンデベレ王国が同世紀末にイギリスに降り、この地域はローデシアと名付けられイギリス植民地となった。1923〜24年には南ローデシア(現ジンバブウェ)、北ローデシア(現ザンビア)、ニヤサランド(現マラウィ)に分かれ、1965年に南ローデシアの白人政権は人種差別政策を維持するためにイギリス連邦から脱退。以後アフリカ人独立勢力による武力闘争を経て1980年にジンバブウェとして独立を達成した。
主な民族はショナ、ンデベレ、白人系住民など。工芸品としてはソープストーンの彫刻、ンデベレのシードビーズ細工などが良く知られている。
ジンバブウェの写真を見る>>
<<東・南部アフリカ特集を見る
<<グレートジンバブウェ特集を見る
|
す |
|
・垂直機 |
または竪機(たてはた)。経糸(たていと:織機に固定、つまり綜絖に取り付けられた糸。綜絖棒の運動によって杼口が開かれる。通常布の長辺方向に平行に織り込まれる)を地面に対し垂直方向に張って布を織る織機。ラフィア布の製作に使用されるほか、ナイジェリア南部では木綿布の製作に使われることも多い。
水平機の使用が男性に限られるのに対し、垂直機による機織は男女共におこなう。しかしひとつの村や共同体で男女共に機織をおこなうということはなく、村ごとに織り手の性が決まっているという。またこのような社会では男性の織る布は販売用、女性の織る布は自家用という区別がされることが多い。
関連商品
|
・水平機 |
経糸(たていと:織機に固定、つまり綜絖に取り付けられた糸。綜絖棒の運動によって杼口が開かれる。通常布の長辺方向に平行に織り込まれる)を地面に対し水平方向に張って布を織る織機。この織機で作られる木綿布は、織機の構造上織り幅が5〜30cm程度に制限されるため「西アフリカの細幅木綿布」として知られている。
水平機は西アフリカのほぼ全域で使用されている織機であり、その使用は男性のみがおこなうがこれに対して垂直機は使用者の性が限定されない。
伝統的な木製の、ときには現代的な金属製の織機(水平機/手織り)による機織作業は西アフリカの町や村で現在でもよく目にすることができる。
|
・スエズ地峡 |
地中海とスエズ湾(紅海)に挟まれた細長い陸地部分。かつてはアジア大陸に属するシナイ半島と、アフリカ大陸(エジプト)を地続きで結ぶ陸地部分であった。
1869年にスエズ地峡を断ち切って完成したスエズ運河は全長163q。地中海と紅海、インド洋を直接で結ぶ水路として非常に重要な運河となっている。
|
・スクマ |
タンザニア最大の人口を持つ民族グループ。タンザニア北西部ビクトリア湖南岸地域に居住するバントゥー系農耕民族。南のニャムウェジからわかれ、北に移住してきた一派がスクマの祖先となったと考えられている。
スクマはかつては数十の小さな首長国に分かれ、ニャムウェジのように統一王国を形成することは無かった。
|
・頭上面 |
かごや革で作った帽子等の上に取り付けて頭上に固定して使用するタイプの仮面(彫像)。大体の場合踊り手は樹皮などで作った蓑状の衣装で体を覆い、カゴや革で作った帽子状の被り物に頭上面を固定して踊る。
仮面としての機能(共同体や結社の儀式に用いられ仮面をかぶった踊り手は仮面が象徴する祖霊や精霊・神と同一視される)を持つが、踊りの衣装や頭上に取り付けるための帽子などから切り離されて形状だけで見る場合は彫像のように見えることも多い(当店でも便宜上、仮面ではなく木彫り像として分類しているものもあります)。
(バガのニンバ像、バンバラのチワラなど)
関連商品
|
・スス |
主にギニア共和国沿岸地方に住む農耕民族。13C初頭の西スーダンの覇権をマリ帝国と争ったテクルール王国の遺民がススの祖先と考えられている。ススの祖先は14C末頃に現ギニア共和国北部のフータ・ジャロンに王国を築いたが、18Cごろにフルベ系王国の拡張に追われる形で現在の居住地に移住して来た。
スス語はギニアの首都コナクリを含む沿岸地方、中部地方での商取引の際の共通言語となっている。
|
・スーダン |
北アフリカの国スーダン共和国についてでなく、歴史、地理で言うところのスーダンについて(本サイトでは特に断りなくスーダンという場合はこちらの歴史的スーダンを指す)。
アラビア語でサハラの南にある「黒人の国」を表す「ビラッド アッスーダン」に由来する地名で、アラブ世界に知られていたサハラ以南アフリカ地域に対する呼称。おおむね現在のサヘル地域を指す(現在の国名で言うと西からセネガル、モーリタニア、マリ、コートジボアール北部、ブルキナファソ、ニジェール、ナイジェリア北部、カメルーン北部、チャド、スーダン共和国、南スーダンを含む)。
アフリカの地域を大雑把に表す呼称(歴史的地名)としては他に「ギニア/現在のギニア湾岸諸国に相当(アマジク(ベルベル)の言葉で「黒い人々の土地」に由来)」、「コンゴ/中部アフリカ一帯」、「マグレブ/北アフリカ西部」などがある。
|
・スーダン
共和国 |
アフリカ第三位(南スーダン共和国独立前は一位)の面積を持つ北アフリカの国。国土を南北に貫き流れるナイル河はサハラに覆われた沙漠地帯はもちろんのこと比較的湿潤な南部地方でも貴重な水源となっている。現在のスーダン共和国北部ヌビア地方には最古の黒人王国といわれるクシュ王国が栄えた。
主な民族は、北部を中心にアラブ人、南部のディンカ、ヌエル、シルック(共に黒人系)などであり、西部にも多数の黒人系の民族集団が居住する。2011年7月9日に南部10州が南スーダン共和国として分離独立した。
スーダン共和国の国名はサハラ以南のアフリカをさすアラビア語「ビラッドアッスーダン/黒人の国」に由来する。
スーダン共和国の写真を見る>>
|
・スーダン
様式モスク |
西スーダンに見られるモスクの建築様式。主な材料が泥であるため泥のモスクとも呼ばれる。主にマリ、ニジェール、ナイジェリア北部、ブルキナファソ西部、ガーナ北部で見られ、泥を固めて造った日干し煉瓦を積み上げてつくった建物の表面を化粧土で漆喰のように塗り固めるという、この地方の住居にも用いられる建築技法で作られる。
等間隔に突起の並んだ胸壁、胸壁やミナレット(尖塔)の側面に無数に突き出た梁などが特徴。主な材料が泥なので定期的な補修が欠かせないが、この突き出た梁は補修時の足場にもなる。
ドームと尖塔(ミナレット)といった、普通我々のイメージするモスクとはかなり異なる外観を持つが、無数の梁が突き出た砂色のモスクの姿はサヘルの景色と調和した美しさを持つ。
世界遺産にも登録されているジェンネの大モスクは世界最大のスーダン様式のモスクである。
スーダン様式のモスクとしては他にトンブクトゥの三大モスク、モプティ、ガオの大モスク(以上マリ)、アガデスの大モスク(ニジェール)、ボボデュラッソの大モスク(ブルキナ)などが有名。
|
・スタンリー |
ヘンリー=スタンリー・1841年〜1904年。ウェールズ出身のジャーナリスト、探検家。青年期にアメリカ合衆国に渡り新聞記者となった。ナイル河水源探査行中に消息を絶ったリビングストンの捜索に新聞社から派遣され1871年に現タンザニアのタンガニーカ湖畔でリビングストンを発見した。
70年代中期には東アフリカからコンゴ河河口までアフリカ大陸中央部を横断。70年代末にはベルギーのレオポルド二世の命を受けコンゴ河流域を探検し各地の首長と保護条約を締結。ベルギー国王の私領であるコンゴ自由国(同時期のアフリカの植民地の中で最も現地住民の扱いが過酷であったといわれている)の創設に重要な役割を果たした。
19C後半のアフリカ植民地化を前提・目的とした探検家の代表例。
|
・スッド |
白ナイル上流域(南スーダン共和国)に広がる世界最大級の大湿地帯。雨季の面積は13万kuにも及ぶ(乾季は3万ku)。スッドとはアラビア語で「障壁」を意味する。細かな水路が複雑に絡み合ったこの湿地帯はその名のとおり白ナイル上流と下流を隔てる障壁である。同地域の主な住民はヌエル、ディンカ、シルックなどの牧畜民である。
|
・スマングル |
スマングル=カンテまたはスマオロ=カンテ。13Cのテクルール王国の王。ガーナ王国崩壊後の西スーダンの動乱の時代の中で頭角を現したのが現セネガル北部、モーリタニア南部を中心とするテクルール王国であった。
テクルールの王スマングルは旧ガーナ王国の首都クンビ=サレーを攻略。さらにガーナ王国旧領の諸国に支配の手を広げようとしたが、現ギニア北東部の王国カンガバの王スンディアタ=ケイタとの戦いに敗れた(キリナの戦い:1230年?・伝説によれば妖術合戦の末敗れたスマングルは唯一彼を傷つけることのできる魔法の矢で射られ姿を消したと伝えられている)。
強大な妖術師として畏れられていたスマングルは強大な魔力を秘めたバラフォンを持っていたが、それをスンディアタの家来に盗まれたため妖術合戦に敗れたという。そのバラフォンは現在でもそれを盗んだスンディアタの家来の子孫の家に伝えられているといわれている。
|
・スリット
ドラム |
木鼓とも呼ばれる。丸太、木材などをくりぬき細い割れ目を残した太鼓(皮を張って音を出す通常の太鼓は膜鳴楽器であるがスリットドラムは体鳴楽器)であり、アフリカをはじめアジア・太平洋地域、中央アメリカなどで多く用いられている。皮は張らない。
アフリカでも多くの民族によってさまざまな彫刻を施した美しいスリットドラムが作られているが、一番有名なものはおそらく野牛の形を模したバンダやヤンゲレ(中部アフリカ)のスリットドラムであろう(日本の木魚もスリットドラムの一種である)。
|
・ズールー |
南アフリカ共和国東部を中心に居住する民族。同国の中で最大の民族であリ伝統的な生業形態は牧畜・農耕である。10〜14C頃に北方から南部アフリカに移住してきたと考えらている。バントゥー系言語を持つが先住民サンやコイとの接触が長かったためコイサン語族に特徴的なクリック音を自らの言語に取り入れた。
19C初頭、強力な指導者であるシャカ王の下にズールー王国を形成、ケープ植民地から北上してきたボーア人と激しく争ったが破れ、1879年にはイギリス軍に占領された。
シードビーズを使って幾何文様を編みこんだ細工物で有名で、コーサ、ンデベレなどと並びズールーのビーズ工芸は、シードビーズ細工の盛んなにあっても高い評価を得ている。特にカラフルな幾何文様を施しチューブ状に編み上げたビーズアクセサリーは有名。
関連商品
|
・ズールー
王国 |
1816年〜1880年。南部アフリカ東部(主に現南アフリカ共和国)に栄えたズールー人の王国。10〜14C頃に北から南部アフリカへと移住してきたズールー人は19C初頭、シャカ王による軍制改革によって勢力を増し、周辺の民族を次々に征服。王国は南部アフリカ一の強大な国家へと成長していった。
クーデターによってシャカが暗殺された後も王国の勢力は衰えず、版図を拡大していった。1837年にはボーア人を、1879年にはイギリス軍を破るなどヨーロッパ勢力に対し時には互角以上に戦い頑強に抵抗したが、1880年にイギリス軍によって王都陥落、王国旧領はボーア人とイギリス人によって分割統治されることとなった。
|
・スルマ |
エチオピア南西部に居住するナイル-サハラ語族東スーダン諸語スルマ語系に属する3つの牧畜民族スリ・ムルシ・メエンの総称。
スリとムルシの女性は下唇に穴を開け、その穴を広げ、その穴に素焼きの円盤(リッププレート)をはめ込むという風習でよく知られている(円盤をはめる邪魔になるので下の前歯を抜いてしまう)。円盤が大きければ大きいほど美しいとされ、時には直径40cmにも及ぶ巨大な円盤をはめた女性もいたという(→身体変工)。一説によればリッププレートは奴隷狩りを避けるためにこのような風習が広まり、やがてそれが美の基準になって入ったともいわれている。
|
・スワジ |
南部アフリカのスワジランド、南アフリカ共和国、モザンビークを主な居住地とするバントゥー系民族。スワジランドの人口の大半を占め、上記の三か国で350万人ほどの人口を持つ(スワジランド内に約120万人)。
|
・スワジランド |
正式にはスワジランド王国。南部アフリカは南アフリカ共和国とモザンビークの間に位置する内陸の王国である。
この地域の最古の住民はサンであるが16C以降北方から移住してきたバントゥー系住民が定着した。そのバントゥー系の一派であるスワジ人が19Cのはじめごろスワジ王国を建国したが20C初頭にはイギリス領に組み入れられた。1968年にスワジランド王国として独立。サハラ以南のアフリカではスワジランドとレソトだけが君主制国家である(実権を伴わない儀礼的存在として国家の中に存続している王国はサハラ以南アフリカに数多く存在する。北アフリカの君主制国家はモロッコのみ)。
主な住民はスワジ・ズールー・ツォンガなど。
|
・スワヒリ語 |
ケニア、タンザニア、ウガンダ、コンゴ民主共和国など東アフリカ諸国で広く話されている言語。東、中部アフリカ一帯でリンガフランカ(共通語)として広く通用しているアフリカを代表する言語の一つ
東アフリカ沿岸部のバントゥー系言語と同地域に交易にやって来たアラブ商人の言語(アラビア語)の接触の過程でピジン言語として成立し、世代を経るうちにクレオールとして定着していった。同語の主な使用地域である東アフリカ沿岸部をスワヒリ(地域)、同地域の町をスワヒリ都市と呼ぶこともある。
スワヒリとはアラビア語のサヒール(岸辺)が語源。サハラの南縁部にあたる地域もサハラの向こう岸(アラブ世界から見て)という意味でサヒールに由来するサヘルという名称で呼ばれている。
|
・スンディアタ
=ケイタ |
→ケイタ,スンディアタ |
・スンニ=アリ |
生年不詳〜1492年。ソンガイ帝国の建国者(もしくは中興の祖。ニジェール河中流域ガオを中心に古くから存在した地方政権を大帝国へと成長させた)。スンニとは救世主を意味し、アリ=ベルまたはシとの名でも知られている。
1464年頃にソンガイ地方の領主となる。この時代すでにマリ帝国は衰退し、帝国の支配下にあった各地域でそれぞれの領主が独立したり、外部からの侵入者に悩まされていた。
ソンガイ地方の領主となったアリは後に西スーダンを席巻することになる騎馬軍団を率い、まずソンガイ領に侵入を図った南方のモシ人を撃退、ドゴン、フルベの軍をバンディアガラで撃退し、1468年には1433年以来トンブクトゥを占領していたトゥアレグを追い払いトンブクトゥの支配権を確立した。1476年には7年に及ぶ包囲戦の末ジェンネを占領。ニジェール河中流全域を支配下に置いた。
その後も領土拡大、侵入者撃退の戦いに明け暮れたアリは1492年乗馬ごと川に落ち溺死した。アリの死後息子のスンニ=バルが王位を継いだがわずか2年でムハンマド=トゥーレという将軍に王位を簒奪された。
|
せ |
|
・青銅 |
→ブロンズ |
・ゼイラ |
現ソマリア北東部(ソマリランド)、アデン湾に面した港湾都市。「エリトゥーラ海案内記」に記述された港町アヴァリタエがゼイラであると考えられ、おそらくは紀元前からインド洋交易圏の重要な港町として繁栄していたと思われる。
|
・セグー王国 |
現マリ共和国中部の、ニジェール河沿いの街セグーを都として17C半ば〜19C中頃にかけて栄えたバンバラ人の王国。バンバラ帝国とも。伝承によればソンガイ帝国崩壊後の西スーダンの動乱期の中、17C初にバラマ=ンゴロとニア=ンゴロという兄弟が建てたと伝えられている。実際には17C半ばにカラディアンという王が建国したと考えられている。
カラディアンの死後崩壊状態にあった王国を再建したのがカラディアンの曾孫であるママリ=クリバリ(在位1712〜1755)である。1712年に若くして王位についたママリによりセグー王国は西スーダンの強国となった。
ママリは現マリ共和国の首都バマコからトンブクトゥにいたるニジェール河中流域を支配し(これはニジェール河の河川交通、河川交易を支配下に置いたことを意味する)セグー王国繁栄の基礎を築いた。ママリとの権力争いに敗れたバンバラ人の一派は北に走り、18C半ばに現在のマリからモーリタニアの地域にかけてカアルタ王国を作った。
ママリは王国再建のために軍を強化したが、肥大化した軍はママリの死後クーデターによって王位を簒奪。その後も軍人クーデターが相次ぎ、11年のうちに4人の王がクーデターによって殺されるという異常事態に陥った。その混乱状態を収拾し王位に就いたンゴロ=ディアラの統治のもとセグー王国は繁栄を取り戻し、1861年にトゥクロール帝国に占領されるまで西スーダンの強国として栄え続けた。
1796年に王国の都セグーを訪れたイギリスの探検家マンゴ=パークはセグーの繁栄を驚きをもって讃え記している。
マリの地図を見る>>
|
・赤道ギニア |
ギニア湾最奥部カメルーンはドゥアラ沖約40kmに浮かぶビオコ島とカメルーンとガボンにはさまれた大陸部領土からなる共和国。ビオコ島は火山島であり対岸の大陸部にそびえるカメルーン山と同じカメルーン火山系に属する。18C後期からスペイン領となる。
大陸部に領土を有するも国の首都は島嶼部(ビオコ島のマラボ)にある。余談ではあるが大陸部と島嶼部に領土を持ち、首都を島に置く国はこのほかにはデンマークがあるのみである。
1968年に独立を果たすも初代大統領マシアスのしいた恐怖政治により国民の約3〜4割が国外に逃亡するという異常事態に陥った(マシアス大統領は1979年に失脚・刑死)。
主な住民はファン、コンベ、ブビなど。ファンは彫刻に長けた民族としてアフリカでも一二を争う評価を受けている。
|
・セーシェル |
セイシェルとも表記。アフリカ大陸の東約1700qの沖合いに浮かぶ大小約90の島々を領土とする島国。これらの島々の存在は8C頃にはアラブ人の船乗りの間で知られていたらしい。18C半ばにフランス領に、19C初頭にイギリス領となり1976年に独立を果たした。
この諸島に入植したマレー・ポリネシア系・インド系・アフリカ系・ヨーロッパ系住民の混血の子孫たちが島の住民のほとんどを占める。
|
・セナ |
モザンビークやマラウィに住む民族でありバントゥー系言語を持つ。モザンビークで大きな人口を持つ民族のうちのひとつである。
|
・セヌフォ |
コートジボアール北部を中心に隣国のブルキナファソ、マリ、ガーナにまたがって住む農耕民族。ニジェール-コルドファン語族グル語派/ボルタ語群に属する言語を持ち、人口は200万人ほどと考えられている。
各種の手工芸に長けた民族として有名だが特に仮面、木彫についてはアフリカを代表する名手として広く世界に名を知られている。その彫刻文化は、仮面結社と密接に結びついて発展してきた。人物をかたどった彫像、仮面には静的表現が、動物をかたどったそれには動的な表現が好んで用いられる。
またアルジェリアのタッシリ=ナジェールの岩面画の狩猟民の時代(前6000年〜前4000年頃)の壁画に描かれた仮面が現在のセヌフォの仮面に酷似しているとの指摘もある。
仮面・彫像のほかにもイス・そのほかの民具などの木彫製品も有名である他、真鍮工芸、金属工芸、陶芸、皮革工芸、ひょうたん細工、機織りなどでも知られている、西アフリカを代表する芸術民族。
セヌフォの作る泥染め布はマリのもの(幾何文様が多い)とは違い動植物や祭礼の場面などを描いた絵画的な文様が特徴的でセヌフォの中心地コロゴの名をとり「コロゴ布」の名で世界的にも知られている。
セヌフォの商品
<<コートジボアール特集を見る
|
・セネガル |
アフリカ最西端の国。北から南へサヘル‐サバンナ‐亜熱帯と気候も変化する。アフリカンポップの旗手ユッスー=ンドゥールの母国。南部の一部の民族(ジョラ・バサリ・ベディクなど)を除き伝統的な彫刻等はあまりつくられない。手工芸よりも芸能が活発で歌手や音楽家の中には世界的に名を知られたものも少なくない。
ちなみにおしゃれ上手なアフリカの中にあってもセネガルの女性は「セネガルの着倒れ」といわれるほどのおしゃれ好きである。
主な民族はウォロフ、フルベ、セレール、トゥクロール、ジョラなど
セネガル特集>>
セネガルの商品
セネガルの写真を見る>>
|
・セネガル河 |
全長1630km、流域面積44万kuのアフリカ第8の大河。ギニアのフータ・ジャロン山地に源を発し、ギニア、マリを流れ中・下流域ではセネガル・モーリタニアの国境をなし、セネガル北部のサン・ルイ(かつてフランス領西セネガルの首都が置かれたこともある街)で大西洋に注ぐ、4つの国にわたる国際河川でもある。急流域や滝などがないため河口からかなりの内陸部まで船舶での航行が可能である。
過去にはガーナ、マリの古代王国、トゥクロール帝国などの興亡の舞台となってきた。
|
・セネガンビア |
古くはセネガル川とガンビア川の間の沿岸地域を指したが(ヨーロッパ人の知識が沿岸地方にしか及ばなかったため)、次第にその内陸地域も含むようになり、やがて現セネガルとガンビアに相当する地域をあらわす地名となった。
英仏の植民地獲得競争が原因となり同地域はセネガル(旧仏領)とガンビア(旧英領)の2つの国家に分かれて独立した。1980年代には両国の合邦による連邦国家セネガンビア連邦が誕生したが89年には再び分離した。
|
・セネガンビア
連邦 |
1982年から89年まで存在したセネガルとガンビアの連邦国家。81年にガンビアで起きたクーデターをセネガル軍が制圧したことをきっかけとして成立した。両国の主権を維持しながらも、さまざまな分野での統合を目指したが、公用語の違い(セネガル:仏語。ガンビア:英語)、国家規模の大きいセネガルの優位などで摩擦がおき、両国の合意の下で89年に解体された。
|
・セレール |
主にセネガル中西部に住む民族でセネガルで3番目の人口を持つ。かつてシン王国、サルーム王国という独自の王国を形成していた。もともとはフータトロ地方に居住していたが北方のベルベル王朝(アルムラビート朝)の圧迫やサハラの乾燥化に押され12,3Cに現在の居住地に移住して来た。
セネガルの初代大統領レオポール=サンゴールはセレールの出身である(名前からもわかるようにセレールにはカトリック教徒も多い)。
|
・センザンコウ |
漢字表記では穿山甲と書く。有鱗目センザンコウ科の哺乳類の総称。アルマジロに似た動物。哺乳類であるのに体中にうろこを持つ。東南アジアに3種、アフリカに4種生息する。
サハラ、カラハリ、ダナキルなどの沙漠をのぞきアフリカのほぼ全土に広く生息し、哺乳類のくせに蛇や魚のようなうろこを持つことから、アフリカでは異形の動物とみなされ、タブー視されたり、逆に儀礼において象徴的な動物として扱われたりしている。
センザンコウのうろこをお守りとして使用することも多い。
関連商品
|
・染色 |
現在アフリカでは様々な方法で布地を染めて多様な染め布を作り出しているが、アフリカの染色の起源は織物の起源と同じくはっきりとしない(織物と同時期に始まったのではないかと考えられている)。伝統的な染料としては植物、鉱物等の天然の染料が用いられてきた。現在では輸入綿布をつかった化学染料による染色も広くおこなわれている。
伝統的な染色技法としては西アフリカ全域で広くおこなわれている絞り染め、泥染めなどに用いられる手描き文様染め、ヨルバの藍染め布によく用いられる絣(かすり)、アシャンティの布に用いられる型押し文様染め、キャッサバのりを用いた型染め、手描き防染、ろうけつ染めなど、じつに様々な染色技法が用いられている。
西アフリカでは染色は女性の仕事であることが多いがハウサの藍染め職人組合など、染色を男性の仕事としている民族社会も存在する。
西アフリカの伝統的な染め布としてはサヘル地域の泥染め(ボゴラン・コロゴ布など)、西アフリカ全域で広くおこなわれている藍染めなどが広く知られている。
アフリカの布特集を見る>>
アフリカの布特集Uを見る>>
アフリカの布特集Vを見る>>
アフリカの染め布特集を見る>>
アフリカの染め布
|
そ |
|
・ゾウ |
長鼻目ゾウ科の大型草食動物。世界最大の地上動物。現生種はアフリカゾウとインドゾウの2種のみ。アフリカゾウにはサバンナゾウとマルミミゾウの2つの亜種があり前者は中部、東部、南部のサバンナ地帯に、後者は西、中部アフリカの森林地帯に生息する。牙(象牙)は古来工芸素材、薬(漢方)として珍重されてきた。
インド象と比べると気性が荒いため使役獣化されることはまれだが、古代エジプト、カルタゴ(ハンニバルのゾウ軍団)などの例もある。
人間の生活圏の拡大や人口増加、象牙目的の密猟のために年々個体数は減り地域によっては絶滅の危機に瀕している。
関連商品
|
・象牙 |
牙状にのびたゾウの門歯。古来ユーラシアでは装飾品の材料として珍重されてきた。アフリカは古くから象牙の供給地として知られ西・中部アフリカ産の象牙はサハラ縦断交易によって、東アフリカ産のものはインド洋交易によって外の世界へと運ばれていた。アフリカの象牙細工としてはベニン王国で宮廷美術として発達した象牙細工が有名だが、これははヨーロッパ人の交易者が争うように求めたほど高度な水準に達していた。
15C頃にヨーロッパ交易者のために西アフリカでつくられた象牙細工はアフロ=ポルトギーズと呼ばれベニン王国のビニ=ポルトギーズ、現シエラレオネに住むテムネ、シェルブロのつくったシェルブロ=ポルトギーズが最高のものとされた。
現在ではワシントン条約によって象牙の取引は基本的に禁止されている。アフリカでも象牙細工の技術を生かしイノシシの牙、ラクダの骨などの代替素材を用いた牙彫が盛んであるが、いまだ堂々と象牙製品が売られていることも多い。また象牙目当てのゾウの密漁が絶えず、ゾウの減少の主な原因となっている(主な密輸先は中国、日本であったが、近年の経済成長による購買力の伸長に伴い中国への密輸が増加。さらに東南アジアへの密輸も増えてきている)。
関連商品
象牙の代替素材を使ったアクセサリー
|
・ソガ |
ウガンダ南東部(ヴィクトリア湖北岸)を伝統的な居住地とするバントゥー系民族。ウガンダ人口の約8%を占める。同地域にいくつかの小王国を建てたが20C初頭にそれらを統合する王を戴いた(ブソガ王国)。
植民地時代にも存続していたブソガ王国であったが、独立後の1966年のクーデターの結果消滅した。1995年に世俗権力を持たない文化指導者としての王位が、ウガンダ国内のほかの伝統王国(ブガンダ、アンコレなど)と同様、公式に復活された。
|
・ソコト川 |
ニジェール河の支流のひとつ。ナイジェリア北部ザリア付近に端を発し、幾つかの支流を集めてナイジェリア、ベニン、ニジェール国境付近でニジェール河本流に合流する。流域の生活用水、農業用水として重要な河川であるほか交通手段としても活躍している。
ソコト川中流沿いの街ソコトはかつてナイジェリア北部を中心に大帝国となったソコト帝国の都が置かれた街であり、現在のナイジェリアのイスラム宗教界においても重要な街である。
|
・ソコト帝国 |
ナイジェリア北部ハウサランドのフルベ出身のイスラム指導者ウスマン=ダン=フォディオ(1754年〜1817年)が築いたイスラム神権国家。
ハウサ諸国におけるイスラムのあり方(従来の民俗信仰との混合)を批判しジハードを宣言したウスマンに率いられたフルベ・ハウサ軍は19C初頭にはハウサランド全域を征服。さらにはハウサランドの南に位置するジュクン王国やニジェール南部、カメルーン西部に至る地域を平定しアフリカ史上最大規模の国家の一つであるソコト帝国(フラニ王国とも)を建国した。ソコト帝国は内部にいくつもの半独立王国(≒属国)を含んでいた(例:アダマワ王国など)。
ウスマンは建国後すぐに息子に譲位し自身は隠遁、学究生活を送った。ソコト帝国は首都ソコトのカリフの権威の下にいくつもの首長国があり、さらにその首長国の中にもいくつもの下位国家群が含まれるという連邦制国家をとり、ウスマンの息子ムハンマド=ベロ(トゥクロール帝国の建国者エル・ハジ=ウマルの義父でもある)の下繁栄したが19C末沿岸部から北上してきたイギリス軍に敗退。1900年にイギリス保護領下に入った。
ウスマンのジハードは18C〜19Cにかけて西スーダンを席巻した一連のフルベのジハード、イスラム国家樹立の流れの中に位置づけらるが、その中である程度の広域を強力に支配したイスラム国家を築いたのはウスマンが初めてであり、後に相次いだマシーナ王国、エル=ハジ=ウマルのトゥクロール帝国、などフルベによるジハード、イスラム国家建設に大きな影響を与えた。
|
・ソト |
主にレソト王国、南アフリカ共和国に居住するバントゥー系民族。18C頃にドラケンスバーグ山脈の北から南へと移住し、バスト王国を築いた。19Cにズールーの圧力にさらされたバスト王国は山岳地帯に逃げ込み(バスト高原:現在のレソト王国のある地域)、そこで国を保ったが今度はボーア人(オランダ系移民)の侵入に悩まされ、イギリスの保護を求め保護領下に入った。
現在のレソト王国は名前からもわかるとおりソト人主体の王国である。
|
・ソニンケ |
自称はソニンケ。ウォロフからはサラコレ、バンバラからはマルカとも呼ばれる。セネガル東部からマリ西部に居住するマンデ系農耕民族。古代ガーナ王国を築いた民族と考えられている。ガーナ王国崩壊後、西スーダン、ギニア西部に散らばったソニンケ人たちは商業に長けた民族としても知られている。
またサハラ以南のアフリカ史上最大の国家ソンガイ帝国の王は初代、二代目はソンガイ人であったが、ソンガイ帝国のソニンケ人将軍ムハンマド=トゥーレ(アスキア=ムハンマド)が三代皇帝となってからはソンガイ帝国皇帝はアスキアの血統、つまりソニンケ人となった。
頭に数本の垂直の角を持つ、玲羊と人面が混ざったような風貌の仮面をつくることで有名。
関連商品
|
・ソファラ |
モザンビーク南部の港ソファラは10C頃からインド洋交易圏の一部として発展してきた。ソファラの内陸現ジンバブウェに栄えたモノモタパ王国で採掘された金が主要な積み出し品であり、その金はインドはもちろんのことさらに遠く中国まで運ばれたという。
15C末までは現タンザニア南部の交易都市キルワの支配下に置かれていた。16Cになり南部アフリカ沿岸部に進出してきたポルトガルの勢力下に置かれることになったが、この頃にはもう内陸部の金鉱はほぼ掘りつくされていたため金の積出港としての地位を失い衰退していった。
|
・ソマリ |
ソマリア、エチオピア東部(ソマリ州)、ケニア北東部などアフリカの角と呼ばれる地域に暮らすラクダ遊牧民でありソマリアでは人口の9割以上を占める多数派となっている。。アフロ‐アジア語族クシュ語派に属するソマリ語を話しイスラムを信仰する。ソマリ人の帰属意識はソマリ民族全体に対してよりも、数多くある氏族に対してのほうが強く、そのことがソマリア内戦の一因ともなっている。
ソマリの女性はその美しさで知られていて、世界的に知られたファッションモデルを何人も輩出している。
関連商品
|
・ソマリア |
北東アフリカの東端、「アフリカの角」と世ばれる地域に位置する国。紅海の出入り口に位置し、インド洋と地中海を結ぶ交易ルートの要衝にあたり、非常に古くから(エジプト古代王国時代)香料の産地として知られていた。
19C末イギリスとイタリアにより植民地化されたが1960年にはイギリス領ソマリランドとイタリア領ソマリランド(第2次大戦後は信託統治領)が合併しソマリア共和国として独立した。
1991年のクーデター以来事実上の無政府状態が続いているうえ、北部地域(旧イギリス領)がソマリランドとして、北東部がプントランドとして分離独立した(国際社会は未承認だがソマリランドなどはソマリアよりも格段に治安がいいらしい)。近年は紅海、インド洋で多発する海賊の拠点としても問題になっている。
主な住民はソマリ人であり国民の9割近くを占める。他に黒人系住民、アラブ系住民などが居住している。
|
・ソマリランド |
アフリカ大陸東部アフリカの角(ソマリア半島)に位置する国家。国際的にはソマリアの一部(ソマリアの北西部)とみなされているが、独自の政府、通貨などを持つ事実上の独立国家。19C後半にイギリス植民地となり、1960年に独立。同じくイタリア植民地であったイタリア領ソマリアと統合してソマリア連邦共和国(現在のソマリア)となった。ソマリア内戦が始まった1991年に(再)独立をし「ソマリランド」となる。
国際的には承認されていないものの政治的にかなり安定し治安もよいため、長年内戦、無政府状態が続き現在も不安定な状況にあるソマリアよりもよほど国家としての態をなしているとの声もある。
ソマリアと同様 主な住民はソマリ人である。
|
・染め布 |
→染色 |
・ソルガム |
アフリカ原産のイネ科植物の一種であり、いわゆる雑穀と呼ばれるもののひとつ。5000年ほど前からアフリカ大陸で栽培化されていたことが確認されている。
ひとつの穂に数千の小さな種実をつける。和名はモロコシ、中国では高粱(高粱)と呼ばれている。その名前から誤解されることもあるがトウモロコシとはまったく別のものである。
米麦などは生長できない環境下でも栽培可能であり、アフリカ、アジア、アメリカなど世界中で広く栽培されている(作付面積世界第5位の穀物)。西アフリカでは主に粉にしてクスクスやかゆ状の食べ物にするほか、自家製ビールの原料とすることもある。
|
・ソンガイ |
マリ東部に居住する民族。主にニジェールに住むジェルマとは近縁関係にある。15C〜16Cに現在のマリの都市ガオを中心とし、アフリカ史上最大の版図を誇ったソンガイ帝国を築いた。ソンガイ帝国は1591年、サハラの岩塩鉱山とサハラ縦断交易の利権をめぐるモロッコ軍の侵攻により滅亡した。
マリの地図を見る>>
関連商品
|
・ソンガイ
帝国 |
15C末〜16C末にかけて、現在のマリ東部の都市ガオを中心に栄えた大帝国。
9〜10Cにサハラ縦断交易の要衝ガオ近隣にすでに勢力を張っていたソンガイ人の王国はマリのマンサ=-カンカン=ムーサ皇帝の下いったんはマリ帝国に併合されたが、14C末に再び独立を奪回した。その後1460頃にソンガイの王となったスンニ=アリは南のモシを撃退し、トンブクトゥからトゥアレグをたたき出し、ジェンネを攻略し、と八面六臂の活躍で領土を拡大しソンガイ帝国の基礎を築いた。
アリの死後1494年に高級軍人であったムハンマド=トゥーレが王位を簒奪。彼がアフリカ史上最も広大な領地を統べたアスキア=ムハンマド皇帝である。アスキアはスンニ=アリの偉業を引き継ぎ、西スーダン中央部全域を支配する大帝国を築き上げた。彼の治世下でサハラ縦断交易は最盛期を迎え、帝国は空前の繁栄を謳歌した。
アスキア大帝の後数代の皇帝は国をよく治めソンガイ帝国は繁栄していたが、1580年代から内憂外患に悩まされるようになった。領内の諸民族の反乱が続いたところにサハラの岩塩鉱山とサハラ縦断交易の利権をめぐって北からモロッコ軍が侵入してきた。
1591年3月モロッコ軍とソンガイ帝国軍はガオの北のトンディビで衝突。スーダンで無敵を誇ったソンガイ帝国の騎馬軍団4万騎も、火縄銃で武装したわずか4000人のモロッコ軍に蹴散らされ、ソンガイ帝国は滅亡した(これが銃がサハラ以南のアフリカの戦争で火器が本格的に使用された最初の戦闘である)。
ソンガイの滅亡以後西スーダンにはサハラ縦断交易に立脚した広域国家は現れなかった。同地域に興った大国としてはウスマン=ダン=フォディオのソコト帝国(18〜19C・現ナイジェリア北部を中心としたイスラム神権国家)、エル・ハジ=ウマルのトゥクロール帝国(19C後半・現セネガル、マリ領を中心としたイスラム神権国家)、サモリ=トゥーレのサモリ帝国(19C末・現マリ、ギニア領を中心とした国家。フランスによる植民地化に徹底的に抗戦した)などがあるがいずれも性格が異なる。
|
・ソングェ |
→バソンゲ |