な |
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・ナイジェリア |
西アフリカギニア湾に面した、アフリカ最大の人口1億5000万を抱える大国。北部のサバンナ地帯にはハウサ諸王国が、北東部チャド湖地方にはカネム=ボルヌー帝国が、南部の熱帯地方にはヨルバ諸王国をはじめとする数多くの王国が興亡した。
ギニア湾に面した実質上の首都ラゴスはアフリカで2番目に危険な街というありがたくない称号を頂戴している(名誉ある一位に輝くのはもちろん南アフリカのヨハネスブルグ)。
イフェ、ベニン王国の伝統を受け継いだ精巧なブロンズ彫刻、南部の諸民族の仮面、彫刻など芸術的にもアフリカ有数の大国のひとつである。
主な民族は南西部のヨルバ、南東部のイボ、北部のハウサ、フルベ。他にもジュクン、イビビオ、イジョ、ティブなど200以上の民族が居住しているといわれている。
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・ナイル河 |
全長6700q(世界第1位)、流域面積287万kuを誇る世界最長の大河。流域はエジプト、スーダン共和国、南スーダン共和国のほぼ全土、エチオピア、ケニア、タンザニア、ブルンジ、ルワンダ、ウガンダ、コンゴ民主共和国(以下RDC)に及び、そのあまりの大きさからエジプト、スーダン共和国ではアラビア語で海を意味する「バハル」とも呼ばれている。
ウガンダ、RDC国境に源を発する白ナイルとエチオピア北部に源を発する青ナイルがスーダン共和国の首都カルトゥームで合流し北上、広大なデルタ地帯(ナイルデルタ)を形成しエジプトのアレキサンドリアで地中海に注ぐ。
「エジプトはナイルの賜物」というヘロドトスの言葉どおり、ナイル河は乾ききった沙漠地帯に大量の水と栄養に富んだ土砂をもたらし、流域での農業発展の結果、下流域には古代エジプト文明が、上・中流域ではクシュ(前9C〜後4C)などの古代黒人王国が栄えた。
ナイル河は毎年非常に規則的に増減水を繰り返すため、増水期の水を貯めておく灌漑工事のための土木技術、増減水の周期を正確に予測するための天文学、暦法などが発達しエジプト文明の基礎となった。
現在でもナイル河はスーダン、エジプトの生命線であり、流域にはいくつもの巨大ダムとダム湖(アスワンハイダムとそれによるダム湖:ナセル湖など)が作られ農業・工業用水、水力発電など様々な形で利用されているが、近年ナイル河の水利用権(100年ほど前の植民地時代に定められた条約が基になっていて下流域の国々に有利な内容となっている)をめぐり上流域の国々(ウガンダ・エチオピア・ケニア・タンザニア・ルワンダ)と下流域の国々(エジプト・スーダン)の対立が顕在化してきている。
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・ナイル河
探検史 |
青ナイルの源流はエチオピアのタナ湖、白ナイルの源流はタンザニアのビクトリア湖であるが、長い間ナイル河の源流はなぞのままであった。
ナイルの水源を探る試みはすでに古代エジプトの時代に始まっていた。ローマ支配の時代に派遣された源流探索隊は現南スーダン共和国に広がる大湿地帯(スッド)まで到達したと考えられている。
AD1Cのギリシア人船乗りはアフリカ内陸部を踏査し、ナイルの水源は二つの湖であるとの情報をもたらした。
中世にはアフリカの大河、ナイル、コンゴ、ニジェール、チャド湖は一つの同じ水系に含まれると考えられていたが、18Cのアフリカ内陸探検熱の高まりの中、スコットランドのブルースがエチオピアのタナ湖を青ナイルの水源として同定した。
青ナイルよりも長く、途中スーダン南部の大湿地帯などの難所のある白ナイルの水源探索はさらに困難を極め、イギリスの探検家スピークによりビクトリア湖が白ナイルの水源であると確認されたのは1862年のことであった。
一般にはビクトリア湖が白ナイルの源流とされているが、ビクトリア湖に注ぐいくつかの川の源流が白ナイルの真の源流とみなされることもあり、現在でも真の源流を探索する試みが続けられている。
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・ナイル河
デルタ |
エジプト北部ナイル河の河口(地中海に注ぐ)に形成されてデルタ地帯。首都カイロの下流からはじまり南北160km、東西240kmにわたる扇形(三角形)に広がった典型的なデルタ地帯(三角州)であり、ナイル河によって運ばれた肥沃な土壌の農業地帯である(エジプト人口の約半数がこの地域に暮らす)。
河口部分の西端にはエジプト第二の都市アレクサンドリア、東端にはポート=サイードが位置する。
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・ナイル-
サハラ語族 |
中央スーダン、中部アフリカからナイル河上流域(エチオピアも含む)、ケニア、タンザニアに散らばる多数の小言語群からなるアフリカ第二の言語グループ。
ソンガイ、カヌリ、サハラ諸語などの比較的独立性の強い7つの言語群と、シャリ-ナイル語派という大きな語派から構成される。シャリ-ナイル語派は中央スーダン諸語(マングベトゥ、ルグバラ、サラなど)と東スーダン諸語などに下位分類され、東スーダン諸語にはヌエル、ディンカ、シルック、マサイなど民族誌で有名な民族が含まれる。東スーダン諸語に属する諸民族には牛を中心とする牧畜民が多く含まれ、社会的、文化的、宗教的に牛を非常に重要視(神聖視)する民族が多い(東アフリカ牛牧文化複合)。
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・ナセル湖 |
1970年にナイル河中流に造られたアスワンハイダムによってできた巨大な人口湖。長さは南北550q(エジプト南端から国境をまたいでスーダン共和国北端まで)、面積は5250kuに及ぶ。
エジプト側(アスワン)とスーダン側(ワジ=ハルファ)を結ぶ定期船が運航している。ナセル湖ができる際、水没区域にあったアブ=シンベル神殿をまるまる湖畔へと移築したのは有名な話。
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・ナツメヤシ |
単子葉植物ヤシ科に属する植物の一種で北アフリカか西南アジアが原産地と考えられている。その果実は非常に古くから食用にされ、一説には8000年以上前から栽培されていたとも言われている世界最古の栽培植物のひとつである。
一本の葉柄に数百個の3〜7pほどの実を房状につける。熟した実は非常に甘く生食もされるが、サハラ・サヘル地域では主に乾燥させて保存食としたものが食べられる。
ナツメヤシは乾燥地帯でも栽培が容易でありその果実は栄養価が高くビタミンも豊富、さらに保存も利くことから、中近東、北アフリカ、サハラ、サヘルでは非常に重要な食料となっている。
果実を発酵させ酒(アラキ)をつくることもある。
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・ナマ |
ナミビア、ボツワナ、南アフリカなどに居住するコイサン系民族。コイのサブグループの中で一番大きいグループである。
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・ナミビア |
南部アフリカ南西部、大西洋に面した国。非常に乾燥した国であり国土の全てが砂漠もしくはステップ気候帯に覆われている(沿岸部のナミブ沙漠、内陸部の比較的乾燥が穏やかな高地帯、東部のカラハリ沙漠)。南アフリカとの国境地帯にはアフリカ第六の大河オレンジ河が流れる。北東部から東西に細長く伸びる通路状の領土を持つ(カプリヴィ回廊)。
古くはコイ、サンなどが先住民族として暮らしていたが16、17Cごろにバントゥー系民族の南下に追われカラハリの奥地へ追いやられた。19C末にドイツ植民地(ドイツ領南西アフリカ)とされ、第一次大戦時に南アフリカ連邦(南アフリカ共和国の前身)の委任統治領とされた。第二次大戦後南アは南西アフリカ(ナミビア)を一方的に併合、アパルトヘイト政策を適用した。1960年代から始まるアフリカ人独立勢力による武装闘争を経て1990年に独立を達成。
主な民族はオバンボ、カバンゴ、ヘレロ、ダマラ、ナマ、コイ、サンなど。北部アンゴラ国境付近には現在も伝統的な牧畜生活を送るヒンバが住む。かご細工、ダチョウの卵を使った工芸品、ヘレロの人形などの工芸品がみやげ物として人気がある。
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・ナミブ沙漠 |
南部アフリカ西岸、アンゴラ南部からナミビア沿岸地方全域にかけて南北1600km、東西40〜130km、約14万kuを占める海岸性沙漠(寒流-この場合はベンゲラ海流と西風の影響でできる西岸沙漠)。ナミブ沙漠はカラハリ沙漠の一部だと考える地理学者もいる。
アフリカの南半球部分では最も乾燥した地域であり、乾燥地帯の苛酷な自然環境に適応した独特な生態系が発達し、多くの固有種が生息している(1000年以上生きるといわれているウェルウィッチアなど)。またナミブ沙漠は8000万年ほど前に形成されたと考えられ現存する世界最古の砂漠であり、砂丘もよく発達し世界最大といわれる砂丘もこのナミブ沙漠にある。
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・ナンジ |
ナイジェリア東部からカメルーン北部にかけて居住する民族。木彫りの人形の製作で有名。人形は非常に抽象化されたデザインで多くの場合両手両足を広げた形をし、シードビーズのネックレスやタカラガイなどの装飾品で飾り立てられている。
この人形はナンジの少女たちに用いられ、少女たちはまるで自分の子を世話するように人形の世話をするという。
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・ナンディ |
カレンジンのサブグループのひとつで、ケニア西部ナンジヒルズ付近を主な居住地とする民族。伝統的生業形態はウシ主体の牧畜であり、ナイル・サハラ語族東スーダン諸語に属する言語を持つ。他のナイル系牛牧民族に多く見られる年齢階梯組織を持つ。
陸上競技長距離王国ケニアの名を世界に知らしめた名ランナー、トップランナーを数多く輩出してきたことでも知られている。
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に |
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・西アフリカ
経済共同体 |
西アフリカ諸国経済共同体(Economic COmmunity of West African States)。西アフリカ地域の15カ国が加盟するアフリカの地域機構。 ベナン、ブルキナファソ、カーボベルデ、コートジボワール、ガンビア、ガーナ、ギニア、ギニアビサウ、リベリア、マリ、ニジェール、ナイジェリア、セネガル、シエラレオネ、トーゴ(*モーリタニアは2000年に脱退)が加盟国であり1975年に発足した。加盟国間の経済統合を目指すアフリカ有数の規模の地域機構である。本部はナイジェリアのラゴスに置かれている。なおフランス語での略称はCEDEAOである(Communaute Economique Des Etats de l'Afrique de l'Ouest)。
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・ニジェール |
西アフリカ内陸の国。国土のほとんどをサハラ沙漠が占め、人口は南部に集中している。南西部にはニジェール河が流れ首都ニアメもその岸に位置する。北東部には世界でもっとも過酷な沙漠といわれるテネレ沙漠が横たわり、今なおラクダキャラバンが行き来してる。
主な民族はハウサ、ジェルマ、フルベ。北部のアイール山地には今なお伝統的な遊牧生活を送るトゥアレグが居住している(余談だがアイール山地には温泉が湧き、各地から湯治客が訪れる)。トゥアレグのつくる工芸品(特に銀細工)はその優美なデザインと繊細な技術によって世界的によく知られている。
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・ニジェール河 |
アフリカ第三の大河(全長・流域面積ともに3位)。ギニア東部シエラレオネとの国境に位置する山岳地帯に端を発し、、マリ共和国中部に広大な氾濫原(ニジェール河内陸デルタ)を形成しつつそのままトンブクトゥ、ガオを北端とする大きな弧を描いて(ニジェール河大湾曲地帯)、ニジェールを通り、ベヌエ、カドゥナ、ソコト川等の支流を集め、ナイジェリア東部で大きなデルタ地帯を造りつつギニア湾に注ぐ。
ギニア、マリ、ニジェール、ベナン(ニジェールとの国境線)、ナイジェリアを通過する全長4180kmの国際河川。支流にもバニ川、ベヌエ川など全長1000kmを越える大河がある。、流域面積は支流まで含めると209万kuに及び、ギニア、コートジボアール、マリ、アルジェリア、ニジェール、ブルキナファソ、ベナン、ナイジェリア、カメルーンの10カ国が含まれる。
ニジェール河は流域地帯の農業、漁業、交通、物流の大動脈であり、早くから人類が定住、農耕・漁撈を行い多くの文明を育んできた。下流域ではサハラ以南のアフリカ最古の鉄器文化が確認されている(例:タルガ遺跡・前500年頃以前、ノク文化・前500年頃〜:共にナイジェリア。中流域ではおそらくジェンネ=ジェノが最古:マリ・前250年ごろ〜)。またニジェール川中・下流域一帯(マリ・ニジェール・ナイジェリア・ちょっと外れるけどブルキナファソなど)では、古いものでは紀元前2世紀頃にさかのぼると見られる素焼きのつぼ、塑像が大量に出土している。
上・中流域には西アフリカ最古の大規模国家ガーナ王国(正確にはセネガル河流域だがニジェール河流域も一部領有)、さらにはマリ、ソンガイのアフリカ史上最大規模の大帝国が勃興した。中流域にはニジェール河水運で結ばれたジェンネ、トンブクトゥ、ガオなどの交易都市が繁栄し、下流域ではイボ・ウクウ文化、ベニン王国などが栄えた。
また内陸デルタ地域はサハラ以南のアフリカで最も早く農業が始まった地域のひとつとも考えられ、稲・モロコシ・トウジンビエなどの穀物を主体とするスーダン農耕文化の発祥の地であったとする説もある。現在でもこの地域の農業はアフリカ原産の稲・グラベリマが栽培されている、ニジェール河の増水を利用した浮き稲が栽培されているなどの特徴を残している。
道路網の未発達なニジェール河中流域では現在でも河川交通が主要な移動、輸送の手段であり荷物を満載した大型木造船が行き交う姿を目にすることができる。
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・ニジェール河
探検史 |
ニジェール河は謎の大河とも呼ばれ、古代においてはナイル河と同一視されるなど(かのイブン=バットゥータもそう思っていたらしい)、長い間流れる方向、水源、河口の位置などが流域住民にすら不明のままであった。
初期のヨーロッパ人探検家たちはニジェール河が西に流れセネガル河となると考えるものもいたが、18C後半からのアフリカ内陸探検ブームの中、19C初頭イギリスの探検家マンゴ=パークが水源の大まかな位置、流れの方向を確認したが探検途中に死亡。その後イギリスのランダー兄弟によってニジェール河が下流で無数の支流に分かれ広大なデルタを形成しつつギニア湾に注いでいることが確認された。
日本の急峻な川の流れになれている我々には、流れの方向がわからないなんてそんな馬鹿なことはないと思えるかもしれないが、実際にニジェール河を眺めてみると(特にマリ中部のニジェール河大湾曲地帯では)、探検家たちの困惑を実感できる。
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・ニジェール河
デルタ |
ニジェール河内陸デルタと紛らわしいがこちらはニジェール河の河口デルタ。ニジェール河がギニア湾に注ぐナイジェリア南西部に形成された広大なデルタ地帯。
ニジェール河はナイジェリア南西部オニチャ付近から下流に向かい枝分かれをはじめ、無数に分かれた支流は広大なデルタ地帯を形成、300q以上の海岸線から海に注ぎ、その面積は約7万ku(アフリカ第一位)に及ぶ。
またこの地域およびその沖合いはナイジェリア随一の産油地帯でもある。
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・ニジェール河
内陸デルタ |
ニジェール河中流域およびその支流であるバニ川下流域に、河川、湖沼、氾濫原によって形成された広大な内陸湿地帯。どの川筋が本流なのかわからないくらいに入り組んでいる。ニジェール河本流においてはモプティの上流から、バニ川においてはサン付近から始まりトンブクトゥまでの地域がこの内陸デルタに含まれる。
内陸デルタ地域はサハラ以南のアフリカで最も早く農業が始まった地域のひとつとも考えられ、稲・モロコシ・トウジンビエなどの穀物を主体とするスーダン農耕文化の発祥の地であったとする説もある。現在でもこの地域の農業はアフリカ原産の稲・グラベリマが栽培されている、ニジェール河の増水を利用した浮き稲(増水に伴ない稲の茎が長く伸び、時には数mにも達する)が栽培されている、などの特徴を残している。
ニジェール河内陸デルタの主な住民はドゴン(農耕民)、フルベ(牧畜民)、ボゾ(漁撈民)。
ニジェール河デルタと紛らわしいがそちらはニジェール河の河口デルタのこと。
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・ニジェール-
コルドファン
語族 |
コンゴ-コルドファン語族とも。アフリカのみに存在する語族。ニジェール-コンゴ語派とコルドファン語派に下位分類される。アフリカ最大の言語グループであり、サハラ以南のアフリカのほぼ全域に分布している(ニジェール-コンゴ語派の下位分類にアフリカ最大の言語群バントゥー諸語を含むため)。
ニジェール-コンゴ語派がサハラ以南アフリカのほぼ全域に広がる大言語グル−プであるのに対しコルドファン語派はスーダン共和国南部コルドファン山地のみに分布するいくつかの中小言語群からなる。
この語族の特徴として、名詞クラスという文法が見られる(例外的に名詞クラスを持たない言語もあるが)。これは一つの言語の中ですべての名詞がいくつかのクラスに分類され、それぞれの名詞クラスにそれに対応する指標(通常は接頭辞)が存在するというものである。
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・ニジェール-
コンゴ語派 |
ニジェール-コルドファン語族の下位分類で、サハラ以南アフリカのほぼ全域に分布している大言語グループ。ひとつの言語グループとしては(その中に含まれる言語の数が)世界最大規模の語派でもある。
・マンデ語派(バンバラ、マリンケ、ボボなど)・アトランティック語派(フルベ、ウォロフ等)・グル語派/ボルタ語群(モシ、セヌフォ、ドゴン等)・クワ語派(ヨルバ、アシャンティ、フォン等)・アダマワ-ウバンギ語派・ベヌエ-コンゴ語派(バントゥー諸語など)の6つの言語グループに下位分類される。
バントゥー諸語を含みアフリカで最も広く分布している言語グループであるベヌエ-コンゴ語派は、紀元前後に現ナイジェリア東部ベヌエ川流域の故地から移住を開始し、現在は中部、東部、南部アフリカの広い地域に居住している。
←アフリカの言語
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・西サハラ |
またはサハラ・アラブ民主共和国。サハラ砂漠の西端・アフリカ大陸北西部モロッコ−モーリタニアの間に位置する係争地。そのほとんどはサハラ砂漠に覆われている。19C末〜20C初頭のアフリカ分割の時代にスペイン領となり1976年までスペインが領有していた。
スペイン撤退後モロッコとモーリタニアの分割統治が始まるが、西サハラ独立派はPOLISARIO(サギア・アルハムラおよびリオ・デ・オロ解放人民戦線)を結成しサハラ・アラブ民主共和国の独立を宣言。武力闘争を開始した。1979年のモーリタニア撤退の後はモロッコが西サハラのほぼ全土を実効支配している。独立かモロッコ領の一部となるかの住民投票が行われる予定ではあるが立案から20年近くたった今に至るまで延期され続け実施されていない。
サハラ・アラブ民主共和国は現在アフリカ・中南米の国を中心に約80カ国に承認されていて、AU(アフリカ連合)にも加盟している(日本は未承認。また西サハラに対するモロッコの領有権はほとんどに国が承認していない)。
主な住民はアラブ人・ベルベル人・少数の黒人系住民などであり、遊牧生活を送る人々が多いのが特徴である
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・ニャキュサ |
タンザニアからマラウィにかけての高地を主な居住地とするバントゥー系民族。総人口は100万人を超えその7割以上がタンザニアに、残りがマラウィに、少数がザンビアに居住し、ソキレ、ンゴンデなどとも呼ばれる。
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・ニャムウェジ |
タンザニア北中部最大の民族(タンザニア第二位の人口を持つ)。ニャムウェジとは「西の人々」または「月の人々」の意味。16C末〜17C初頭にかけて同地域に移住してきたと考えられている。
19Cには沿岸のスワヒリ都市と現コンゴ民主共和国南東部を結ぶ交易に従事し徐々に勢力を蓄えた。19C半ばに現れたニャムウェジの一首長ミランボはそれまでいくつもの小王国に分裂していたニャムウェジを統合しニャムウェジ王国を作り上げたが、ミランボの死後またもとの分裂状態に戻った。
小規模ながら王国的組織を持っていたニャムウェジ社会では宮廷美術が発展し、祖先像を彫りこんだ首長の玉座などが作られた。ニャムウェジ彫刻で最も有名なのが極端に細長くデフォルメされた人像であり水占いの儀式に用いられていた。
タンザニア最大の民族グループスクマは北に移住したニャムウェジの子孫といわれている。
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・ニョロ |
ウガンダ中西部を主な居住地とする民族。バントゥー系の言語を持つ。かつて同地域に栄えたキタラ王国の後を襲い、16Cはじめごろブニョロ王国を建国した。王国は1966年にいったん廃止された後、1993年世俗権力を持たない文化指導者としての王位が復活された。
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・ニンバ |
ギニア共和国大西洋岸に居住する少数民族バガの信仰する豊穣・多産・子孫繁栄を司る女神、またはその神をかたどった頭上面のこと。
ニンバ像はその独特の髪型、顔の造形、豊かな乳房などが特徴的であり、バンバラのチワラ、アシャンティのアクワバなどと共に世界的にもっとも有名なアフリカの彫像のひとつである。
ニンバ像は農耕儀礼の際に樹皮等で作った蓑状のカバーで体を覆った踊り手の頭上に取り付けられ使用される。
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ぬ |
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・ヌエル |
スーダン共和国南部および南スーダン共和国)ナイル河上流の低湿地帯(スッド)に住む牛牧畜民。自称はナース。ヌアーとも呼ばれる。マサイやディンカなど北東アフリカの牛牧民と同じくナイル‐サハラ語族の言語を話し、牛を経済的価値観、社会的価値観、宗教的価値観の中心にすえている(東アフリカ牛牧文化複合)。
イギリスの文化人類学者エヴァンス=プリチャードによる民族誌で知られている。
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・ヌヌマ |
ブルキナファソ中部を主な居住地とする民族。グルンシのサブグループのひとつ。ヌヌマの作る仮面・彫刻はブルキナファソのほかの諸民族の多くと同様、同心円状に彩色された飛び出た目、白、黒、赤の三角形を基調とした幾何文様の彩色という特徴を持つものが多い。
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・布 |
サハラ以南のアフリカの木綿布製作の起源についてははっきりしないことが多いが10Cにはすでに始まっていたことは確からしい。
西アフリカに広く見られる水平機によって織られた木綿布は織機の構造上織り幅が5〜30cm程度に制限されるため「西アフリカの細幅木綿布」として知られている(現代では木綿以外にも合成繊維などが用いられることもある)。伝統的な木製の、ときには現代的な金属製の織機(水平機/手織り)による機織作業は西アフリカの町や村で現在でもよく目にすることができる。
織られた布は織り耳を縫い合わせて一枚の幅広布とした後、染色などを施されて使用される。(つづれ織りやかすりなどの技法で直接模様を織り込むこともある。)このような木綿布はかつては王侯貴族のような特権階級しか身に着けることの出来ない貴重品であった。
西アフリカの細幅布はおおむね平織りの無地布でそこに染色を施すことが多いが、民族によっては文様用、緯縞(よこしま)用の緯糸(よこいと)を使い、浮織り、緯織り(よこおり)、綴織り(つづれおり)、縫取織りなどの技法を用いて独自の文様、ヨコ縞を織り出すこともある。こうした布は何枚も縫い合わせて一枚の幅広布に仕立てたときに、一枚の布として大きなヨコ縞模様、市松模様、幾何文様などを描き出すようにつくられている。
西アフリカの伝統社会では水平機による織物は全て男性職人によっておこなわれる(染色は女性の仕事であることも多い)。垂直機による織物はナイジェリア南部やラフィア布を作る地域で多用されるが、この場合は男女共に織物をつくる。ただしこの場合もひとつの村の中で男女共に織物をつくるということはなく、村ごとに織り手の性が決まっているという。
西アフリカの伝統的な織り文様布としてはガーナ、トーゴのケンテ布やフルベ、ジェルマ、ソンガイ、ハウサ、ヨルバが作る布が知られている。
細幅布の楽しみ方/使い方>>
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アフリカの布
アフリカの織り文様布
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・ヌビア |
エジプト南部からスーダン共和国北部にかけてをあらわす地名(サハラ砂漠の一部でもある同地域をヌビア砂漠と呼ぶこともある)。古代エジプトとともに古くから文明の栄えた地でもあり、エジプトとの交易で栄えた。
前9C頃にヌビアに興ったクシュ王国は最盛期にはエジプト全土を支配するほどの繁栄を誇ったが、紀元後4Cにアクスム(エチオピア)に滅ぼされた。7C以降はイスラム勢力下に入った。スーダン北部のメロエを中心として、ピラミッドをはじめとするクシュ王国の遺跡が数多く残されている。
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・ヌペ |
ナイジェリア中央部ニジェール河とカドゥナ川の合流地点を中心に居住する農耕民族。15・16世紀には独自の王国を形成した。
伝承によればヌペは以前は小さな首長国に分裂していて、その中の一つは南の強国イガラの朝貢国であった。イガラの王子とヌペの首長の娘との間に生まれた子供が、やがてヌペを統一し初代のエツ(王)となったツォエデであった。
ヌペ王国はその後数世紀にわたり存続した。地域の強国として繁栄したこともあれば、時には近隣の強国の貢納国となることもあった。18C後半にはイスラム化したが、19C初頭のフルベのジハードを免れることはできずソコト帝国に征服されたが、王国(もしくは王室)は現在まで存続している。
北のサヘルと南の森林地帯を結ぶ交易路の中間に位置するという利点を生かし交易中継地として繁栄した。その伝統をいかし、現在でも商業民族として活躍している。またヌペはヨルバと近い関係にあり、ベニンの青銅器文明の伝統を受け継ぎ独自の工芸文化を発展させた。特にツォエデ王の彫刻と呼ばれる一連のブロンズ像(イダ製とも言われている)が有名。
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・ヌミディア |
現アルジェリア北東部に存在した王国、または同地方をさす古い地名。ポエニ戦争中(紀元前200年ごろ)に成立したヌミディア王国は最盛期には現アルジェリア北東部から現リビア西部に及ぶ地域を支配したが約100年後にはローマの属国となった。
ヌミディアの主な住民はベルベル系の半遊牧民であり、その軍隊はヌミディア騎兵として古代地中海世界に名をとどろかせていた。
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・ノク文化 |
ナイジェリア中北部ジョス高原に前500年頃〜後200年頃にかけて栄えた文化。代表的な遺跡の名をとってノク文化と呼ばれる。粘土製の彫像(人物像、動物像等)で有名である。サハラ以南のアフリカの彫刻文化として現在遺物が残っている文化の中では最も古いものの一つである。
またノク文化はサハラ以南のアフリカでは最初期の鉄器文化としても有名であり、周辺のニジェール河下流域、チャド湖周辺からも同時代の鉄器製造の遺構が発掘されていて、同地域がサハラ以南のアフリカで初めて製鉄技術が開発、または導入された地域と考えられている。
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