た |
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・太鼓言葉 |
ドラムランゲージ。太鼓(ドラム)のリズムや音色によって言語的メッセージを伝達する方法。単なる音による信号、合図ではなく、下敷きとなる言語メッセージを持つものを太鼓言葉と呼ぶ。サハラ以南のアフリカのいくつかの社会(ブルキナファソのモシ社会など)で発達し、かなり複雑な内容を太鼓の音によって伝えることができる。太鼓言葉に使われる太鼓を指してトーキングドラムと呼ぶこともある。
数千はあるともいわれるアフリカの言語のうち、かなりの言語が文法的声調言語(声調によって単語の意味が変わるだけでなく、文法的要素も変化する言語:声調の高低によって動詞の時勢が変化するなど)であり、言語自体にたぶんに音楽的要素が含まれているために太鼓の音のリズムや高低によって言語メッセージを伝達する太鼓言葉の発達が可能になったと考えられている。
他にもアフリカでは太鼓以外の楽器による言語メッセージの伝達手段もある(例:笛言葉など。また嘘か本当かはわからないがブルキナファソにはバラフォン言葉というものもあるらしい)。
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・大湖地方 |
北東アフリカから南部アフリカにかけてはしる大地溝帯(グレートリフトバレー)の中にできた湖をアフリカ大湖沼と総称し、ビクトリア湖、タンガニーカ湖、マラウィ湖、アルバート湖などアフリカを代表する湖沼が集中し、ビクトリア湖、タンガニーカ湖周辺はアフリカ屈指の高山地帯を形成している。
アフリカ大湖沼の周辺地域をアフリカ大湖地方と呼ぶことがあり、ルワンダ・ブルンジ・ウガンダの全土、コンゴ民主共和国、ケニア、タンザニアの一部が含まれる(ザンビア、マラウィ、モザンビーク、エチオピアは含まれない)。
大湖地方では15C頃からバントゥー系農耕民による王国、北方から移住してきたナイル系牧畜民による王国が数多く興亡した。
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・大西洋 |
アフリカ・ヨーロッパとアメリカ大陸の間の大洋。面積は約8700万ku。アフリカにおいては通常ジブラルタル海峡(モロッコ)から喜望峰(南アフリカ共和国)までが大西洋沿岸とみなされる。
アフリカの大西洋岸では古くは一部(モロッコなど)を除き、外部との大規模な海洋交易は行われていなかったが、大航海時代以降ヨーロッパの交易者が次々と訪れ沿岸各地に交易拠点を築いていった。
その後アメリカ大陸での労働力の需要に応じてアフリカから奴隷をアメリカに、アメリカから農産物(砂糖・綿・タバコなど)をヨーロッパに、ヨーロッパからアフリカへ武器(火器)、酒、布などを運ぶ三角貿易が盛んになり、最盛期の16C〜19Cにかけて実に1500万人以上のアフリカ人がアメリカ大陸へと売り払われともいわれている。
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・ダウ船 |
インド洋(主に紅海・アラビア海・東アフリカなどのイスラム圏)で用いられているある種の帆船の総称。大きな三角帆を持ち釘のかわりにひも・タール/接着剤・目止め剤などを用いて組み立てられる。通常20〜30人乗りほどの小型船だが、かつては数百人が乗り組む大型船も作られていたという。
その歴史は古く、おそらくインド洋交易が始まったころから用いられていると考えられている。インド洋で夏には南西に、秋〜春には反対に北東に吹く季節風を利用し、インド洋沿岸のインド、ペルシア、アラビア、アフリカの角、アフリカ東海岸などを結ぶ長距離海上交易の主役として活躍した。
現在でも動力付きのダウ船が活躍しているが、帆のみを動力としたダウ船による交易もつい近年まで行われていたという。
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・タウデニ |
マリ共和国北部、サハラ沙漠のど真ん中、アルジェリアとの国境に程近い場所に位置する岩塩鉱。サハラにいくつかある塩の産地(岩塩鉱のほか塩湖・塩水の泉:例ビルマ‐などもある)の中でもっとも有名な場所であリ、現在まで掘り続けられている岩塩は、昔と変わらぬラクダキャラバン(アザライ)でサハラを越えはるか南のトンブクトゥまで運ばれる。
16C末〜17C初頭にかけてほぼ掘りつくされ、またモロッコ軍の侵攻により荒廃したそれまでの岩塩採掘の中心地タガザ(タウデニの約170q北に位置する)の代わりとして、タウデニでの岩塩採掘が始まったと考えられている。
人類の生存に不可欠なため、古来人類は塩の製造、入手に工夫を凝らしてきた。海から遠い西アフリカ内陸部の住民にとって塩は非常に貴重なものであり、サハラを越えてまで運ばれてきた岩塩は時には同じ重さの黄金と交換されたという。ガーナ、マリ、ソンガイなど西スーダンに勃興した王国がアフリカ史上最大規模の国家に発展したのも、塩と金の交換を柱としたサハラ縦断交易から上がる利益に負ったところが多い。
タウデニの岩塩鉱は地面から数mのところにある水平鉱床であり、掘り出された岩塩は約100×60×5pほどの板状に形を整えられ、らくだのキャラバンによって約750q南の交易都市トンブクトゥまで運ばれる。
タネズルフトと呼ばれるサハラでも最も過酷な地域を越え、往復1500kmを約40日間で踏破するキャラバンの道のりは言うまでもなく過酷なものであるが、彼らの運んでくるタウデニの岩塩は時代を越えマリの人々に愛され続け、海塩の入手が容易になった現代においてもマリではタウデニの岩塩には特権的な地位が与えられている。
タウデニの位置を見る>>
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・ダウラ |
ハウサ-バクワイ(ハウサ七国)と呼ばれたハウサ諸国の中でも古く、権威のある都市国家のうちの一つ。伝説によればハウサの祖となったバヤジッダという男がサハラを越えてダウラの地にいたったときに人々を苦しめていた大蛇を退治し、土地の首長の娘と結婚したという。バヤジッダの7人の孫はそれぞれダウラ、カノ、ゴビル、カツィナ、ザリア、ラノ、ビラムと名づけられそれぞれの名を冠した都市国家(ハウサ七国)を建設したと伝えられている。
ウスマン=ダン=フォディオのおこしたジハードにより1805年に征服されソコト帝国の一部となったもののダウラの王家は存続し現在に至っている。
なおダウラには現在まで蛇を退治したバヤジッダの剣といわれる剣が伝えられている。
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・タガザ |
マリ共和国北部、タウデニの北西約170kmの地点に位置する岩塩鉱。現在は破棄されているが10Cごろから16C末〜17C初頭までサハラの岩塩生産の中心地であった。
タガザから掘り出された岩塩はラクダキャラバン(アザライ)や奴隷によってサハラを越え、はるばると南のガーナ王国(ワラタ)やマリ帝国(ワラタ・トンブクトゥ)、ソンガイ帝国(トンブクトゥ)まで運ばれ金と交換された。この岩塩と金の交換を柱とするサハラ縦断交易の利潤が、ガーナ・マリ・ソンガイという西スーダンの大国家の繁栄を支えた。
1352年、モロッコ生まれの大旅行者イブン=バットゥータがマリ帝国へと赴く旅の途中でタガザを訪れている。シジルマサ(現モロッコ南東部)からタガザまで25日間、タガザからワラタまで23日間、タガザ滞在などを含めると約二ヶ月のサハラ越えの旅であったという。
タガザは14C前半からはマリ帝国の影響下に、15C末頃からはソンガイ帝国の管理下に入っていたが、1582年タガザの岩塩鉱の利権を狙ったサード朝モロッコ軍がタガザに侵攻。モロッコ軍はタガザ攻略に成功したものの期待した程の利益が上がらなかったため、1591年にはサハラを越え直接ソンガイ帝国本国へと侵攻した。
モロッコ軍の侵攻によりタガザの岩塩鉱は破壊され、また当時すでに枯渇しかかっていたためサハラの岩塩採掘の中心地は170km南東のタウデニへと移った。
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・タカラガイ |
→子安貝 |
・タケッダ |
現ニジェールの砂漠地帯(サハラ)に存在したサンハジャ人の王国(首長国)。アガデスの西方100kmほどのところにあるアゼリクの遺跡がタケッダの都の遺跡と考えられている。
14C半ばマリ帝国訪問の帰途にイブン=バットゥータが立ち寄った。
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・ダゴンバ |
ガーナ北部を中心に居住する民族。ガーナ北部の中心都市タマレの主な住民でもある。グル語派の言語を用い、言語的、歴史的にもマンプルシ、北のモシと密接な関係があると考えられている(マンプルシなどの近縁の民族とまとめてモレ=ダグボンと総称されることもある)。
かつてイェンディに首都を置くダゴンバ王国を建設し、はやくからイスラム化した。またモシ王国の始祖イェネンガはこのダゴンバ王国の皇女であったと伝えられている。
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・ダチョウ |
ダチョウ目ダチョウ科ダチョウ属の鳥。一属一種。サハラ以南のアフリカのサバンナ地帯に棲息する。
現生鳥類の中では最大の鳥であり、大きなオスでは頭高2.4m、体重140kg以上にもなる。鳥類ではあるものの翼の退化のため全く飛ぶことはできないが、脚力が発達し最高走行速度は時速60kmにも達する。
体の大きさに比例してその卵もまた巨大であり(現生鳥類最大)、短径13p、長径16p、重さは1.6kgにもなるという(鶏卵約20個分)。カラハリにすむサンはダチョウの卵を食用にした後、その卵殻を使いビーズ、容器(水筒)などを作る。
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・タッシリ=
ナジェール |
アルジェリア南東部に位置する山岳地帯。サハラの岩壁画遺跡群の中でもっとも大規模かつ有名な遺跡である。タッシリはタマシェク(トゥアレグの言葉)で「水多き地」を意味し、アジェールはトゥアレグの氏族名である。20C初頭に岩壁画がフランス人によって「発見」され20C半ばのアンリ=ロートの調査によって世界中にその名を知られるようになった。
最も古い時代に描かれた「狩猟民の時代」の壁画から始まり「牛の時代」、「馬の時代」を経て「ラクダの時代」にいたるまでの壁画が山地に点在する。それぞれの時代の壁画の作者はそれぞれ黒人系民族、フルベかフルベの祖先、馬とラクダの時代の作者はトゥアレグかトゥアレグの祖先と考えられている。
トゥアレグの伝承に昔タッシリのトゥアレグはティン=ヒナンという女王を戴いていたが、その女王の時代にタッシリから西のホガール山地に移住した、という伝承がある。ホガール山地西部のアバレッサというオアシスで発掘された4Cの宮殿の遺構が、このティン=ヒナン女王の宮殿跡と考えられている。
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・経織 |
経織(たており)とは、緯織とは逆に経糸(たていと:織機に固定、つまり綜絖に取り付けられた糸。綜絖棒の運動によって杼口が開かれる。通常布の長辺方向に平行に織り込まれる)で緯糸(よこいと:杼に取り付けられた糸、経糸に開いた杼口に通すことで布が織られていく。通常布の長辺方向に垂直方向に織り込まれる)を緯糸で覆うようにして織っていく布。布の模様は経糸で作られ、経縞模様を生み出す。
ガーナ、トーゴのケンテ布は経織と緯織の技法を併用し独特の市松模様を作り出している。またブルキナファソ(特にボボ=デュラッソ地方)では伝統的に経織のシンプルな縞布が多く織られ、現在でも衣服に用いられている。
アフリカの布
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・ダナキル
沙漠 |
エチオピア北東部からエリトリア南部にかけて広がる沙漠地帯。その地域の多くはアフリカ最低標高地点を擁するアファール盆地と重なっている。アフリカ大地溝帯の一部であるため多くの火山が存在する。
主な住民はラクダ遊牧民のアファール。砂漠の各地には塩湖が点在し湖塩の採掘が行われている。
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・タナ湖 |
エチオピア北西部、標高1800mの高地に位置する湖。面積約3600ku。水は浅く最深部でも15mほど。
青ナイルの水源として知られているがタナ湖に流れ込む水流がいくつか有り、そのうちのひとつを青ナイルの真の源流とする意見もある。湖には数十の小島がありそのうちの大部分にエチオピア正教の修道院が置かれている。
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・ダナモンベ
遺跡 |
ジンバブウェ中部グウェロの近くにあるロズウィ王国期の遺跡(石像建築群)。17C頃、おそらくはカミ遺跡(同国南西部の石像建築群遺跡)の放棄とほぼ同時期に建設されたと考えられている。ドーロ・ドーロ遺跡とも呼ばれている。
やはりロズウィ王朝期に建てられた、グレートジンバブウェ遺跡の神殿、カミ遺跡などと共通する技術で作られている。19C前半のンデベレ人の侵攻により破壊された。
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・タナラ |
マダガスカル東部沿岸地方に居住するベツィミラサカ、アンタイサカ、ザフィマニリなどの民族の総称。タナラとは「森の民」の意味であり、主に農耕に従事する。中央高地のメリナなどとは異なり、集権的な政治体制を持たず王国を形成することはなかった。
家屋に壮麗な彫刻を施すなど、工芸に長けた民族としても知られている。
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・タネズルフト |
サハラ沙漠の一部の名称であり、ホガール山地の西部、マリ-アルジェリア国境地帯にかけて広がる数100q四方の地域を指す。広大なサハラの中でも最も隔絶し乾燥した、過酷な地域といわれ、ほとんど無人の地域であるがタウデニとタガザにわずかに人が住んでいる。
タウデニの塩鉱、タガサの塩鉱(400年ほど前に掘りつくされた)などはこのタネズルフトにある。
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・タバスキ |
イスラムの犠牲祭(アラビア語ではイード=アル・アドハまたはイード=アル・カビール)のことを西アフリカではタバスキと呼ぶ。ラマダン(断食月)終了の約2ヵ月後(イスラム暦12月10日。この日はメッカ巡礼の最終日に当たる)から4日間にわたって行われるこの祝祭は、イスラム圏で最大の祝祭のひとつであり、それぞれの家で羊をつぶして肉を振舞う。
この日に羊を用意できない男は甲斐性無しとみなされるため、タバスキの日が近づくと何とか羊を買う金を工面しようと男たちの目が血走ってくる。
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・タファデク |
サハラ沙漠の只中アイール山地にある温泉。ニジェール北部アガデスの北北東80kmほどの場所に位置する小さなオアシスの村タファデクは温泉が湧いていることで知られている。
その湯は万病に効くといわれ、ニジェール国内はもとより、周辺諸国、果ては嘘か本当かは知らないがアラビア半島からも湯治客がやってくるという。
泉質不明。小さな湯小屋が二つありガイドによると「chaud/熱い」と「plus chaud/もっと熱い」とのこと。私は「chaud/熱い」のほうに入ったが大体50℃くらいといっていた。入湯料一回100FCFA也。
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・タブワ |
コンゴ民主共和国南東部、ザンビア北東部のタンガニーカ湖畔に居住する民族。戦乱を逃れて現中央アフリカ共和国方面から移住して来た。
19C中頃からタブワは象牙や奴隷貿易で急速に発展し、近隣のルバやニャムウェジから取り入れた宮廷美術を発達させた。
タブワの彫刻は非常にすっきりとした、表面に凹凸の少ない造形が特徴的であり、その比較的平板な表面に瘢痕装飾をあらわす紋様が巧みに配置されている。
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・ダホメー王国 |
17世紀初頭にアボメーを首都としてベナン南部に興ったフォン民族の王国。当初はアボメー王国と呼ばれていた。アマゾネス(女兵士)軍団に代表される強大な軍事力と奴隷貿易によって富み栄えた。詳しく読む>>
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・ダマガラム王国 |
1731〜1899年にかけて現ニジェール領ザンデール(ザンデールのハウサ語名がダマガラム)を首都として栄えたカヌリ人の王(スルタン)を戴く王国。王家はカヌリであったが住民のほとんどはハウサであり、他にもトゥアレグ、フルベ、トゥブなどが暮らしていた。
初期には東方のカネム=ボルヌー帝国の属国であったが他の属国を併呑し強大な国家となった。首都ザンデールはサハラ縦断交易、サヘルの東西交易の一大中継地として栄え、その利益で王国は潤った。
19C初頭南方のハウサランドに興り、瞬く間にアフリカ史上最大規模の国家となったソコト帝国に対しても独立を保ち続けたダマガラム王国であったが、1899年に数次にわたるフランス軍の攻撃を受け占領された。ダマガラム王国は1806年に滅亡したが、ダマガラム王家(ザンデールのスルタン)は現在まで存続している。
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・ダマラ |
ナミビア中部コマス高原を主な居住地とする民族。コイサン語族に属する言語を持つことから南部アフリカの先住狩猟採集民の子孫ではないかと考えられている(言語の分類については異説あり)。
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・タリーク=
アル・
ファッタシュ |
トンブクトゥの学者(達)によりアラビア語で著された西スーダンの歴史書。書名は「知識を求める者の年代記」を意味する。アスキア=ムハンマドの廷臣であったムハンマド=カティにより16C前半に書き始められ、カティの子孫達により17C後半に完成されたと伝えられてきた。実際にはカティの子孫の一人のイブン=アル・モクタールがその大部分を1660年代に著述したと考えられている。
西スーダンの広範な歴史を記したこの歴史書はタリーク=エッスーダンと並び現在でも多くの研究に、アフリカ側からの貴重な資料として貢献している。
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・タリーク=
エッスーダン |
17C前半にトンブクトゥの学者アブドゥラマン=アッサディによってアラビア語で書かれた歴史書。アラビア語で「スーダン史」を意味する。モロッコ軍の侵攻によるソンガイ帝国崩壊を幼少期に経験したアッサディはソンガイ、マリ、ガーナの栄光を記録するためにこの本を書き記したという。
ガーナ王国に始まる西スーダンの広範な歴史を記したこの歴史書はタリーク=アル・ファッタシュと並び現在でも多くの研究に、アフリカ側からの貴重な資料として貢献している。
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・タレンシ |
ガーナ共和国北部を主な居住地とする民族。グルンシのサブグループのひとつ。伝統的生業形態は農耕であり、特定のワニを神聖視する習慣がある。
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・ダロル
=ボッソ |
ニジェール河の支流であるワジ(涸れ河)。ニジェール河のはるか北、アルジェリア南部のホガール山地に源を発し、1000q以上にわたってサハラを縦断しニジェール河に注ぐ。
源流はホガール山地のタハト山付近であり、アイール山地からも水を集めた後一度マリに入り、再度ニジェールに入り最終的にはニジェール-ベナン国境地域でニジェール河に合流する。
普段は涸れ河であり、雨期には水が流れる川となる(乾期にも水が残っている部分も多数あり湖となっている箇所もある)。
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・ダン |
コートジボアール西部、リベリア東部に居住するマンデ系言語を話す農耕民。歴史的にダン民族として統一されたことは無い。
彫刻の名手として知られるダンの仮面はおおむね写実的で静的な表情のものが多いが、時にドゴンの仮面を連想させるような極度に抽象化された仮面もつくる。
ダンの木彫の中で最も知られているのは「もてなしのスプーン」と呼ばれることもある大きな木製のスプーンで柄の部分に精巧な彫刻が施されている(人頭像、胸像など)。このスプーンは祭礼に集まった人々に食事を振舞う際に使われるという。
3mを越える竹馬をつけて踊るダンスでも有名。
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・タンガ
ニーカ湖 |
アフリカ大地溝帯内部(西部大地溝帯)に位置する湖(この地域はアフリカ屈指の大湖が集中しているため大湖地方と呼ばれる)。タンザニア、ブルンジ、コンゴ民主共和国、ザンビアの四ヶ国にまたがり、アフリカ第二位、世界第七位の面積を誇る大湖(3万3千ku)。最深部は湖面から1470mの地点にあり湖の深さとしてはバイカル湖(ロシア)に次いで世界第二位である。
現存する湖としては2番目に古い湖である(約2千万年前に形成された。一番古いのはバイカル湖で3千万年前)。非常に長い間孤立に近い水系であったため独自の生態系が形成され棲息する魚類の8割、貝類の9割が固有種になっている。
コンゴ河(ザイール河)の本流ルアラバ川の主要な支流であるルクガ川の水源でもある。
タンザニアの国名はこのタンガニーカ湖とインド洋岸に浮かぶザンジバル島からとられた(タンガニーカ共和国-現タンザニア連合共和国大陸部:1961年独立-とザンジバル-島嶼部:1963年独立-が1964年合併しタンザニア連合共和国が成立)。
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・タンザニア |
正式名称タンザニア連合共和国は東アフリカの国。西部はアフリカ大湖地方に含まれ、領土内にアフリカ第一位(ビクトリア湖)、第二位(タンガニーカ湖)、第三位の湖(マラウィ湖)がある。沿岸部はアラブやインドとの貿易によりスワヒリ文化が栄えた。内陸のサバンナにはマサイ等の遊牧民が暮らし、ナイル語系、バントゥー系の王国がいくつも盛衰を繰り返した。
本土側(タンガニーカ・1961年独立)と島嶼部(ザンジバル・1963年独立)の連合共和国(1964年4月タンガニーカ・ザンジバル連合共和国成立。同年10月タンザニア連合共和国に改称)。
主な民族はスクマ、ニャムウェジ、マコンデ、ニャキュサなど
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ち |
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・チェワ |
ザンビア、マラウィなどに居住する農耕民族。バントゥー系言語(チェワ語=ニャンジャ語)を話し、母系制の社会構造を持つ(夫婦の間に生まれた子供は母方の一族と一員とみなされ、母方から財産を引き継ぐ)。10Cごろに現コンゴ民主共和国南部方面から現在の居住地域に移動してきたと思われる。15,6C頃からマラビ王国をはじめとするいくつかの王国を築いてきた。
チェワの伝統社会ではニャウと呼ばれる秘密結社が大きな影響力を持っている。また仮面の製作でも有名。
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・地形・地質 |
→アフリカの地形・地質 |
・地中海 |
ユーラシア大陸とアフリカ大陸に囲まれた海。面積は約250万ku。ジブラルタル海峡で大西洋と、ボスポラス海峡で黒海と、スエズ運河で紅海とつながっている。
アフリカにおいては西からモロッコ、アルジェリア、チュニジア、リビア、エジプトが地中海に面している。北アフリカの地中海沿岸は古代から地中海世界の一部として機能し、古代エジプト、カルタゴなどの古代国家、ギリシャ・ローマの植民都市などが栄え、時代とともにゲルマン、アラブ、オスマン帝国などの諸勢力が往来した。
北アフリカの南に広がるサハラ縦断交易網を通しサハラ以南のアフリカ(主に西アフリカ内陸部)は地中海世界、さらにはその北のヨーロッパ世界と結びついていた。また東アフリカのインド洋交易圏もまた紅海・スエズを通し地中海世界・ヨーロッパ世界との交流があった。地中海世界は古代からアフリカとアジア・ヨーロッパを結びつける要の場であったといえるだろう。
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・チテンゲ |
→アフリカンプリント |
・茶 |
意外に感じるかもしれないが緑茶(中国緑茶)は北アフリカから西アフリカ(特に内陸部)にかけて最も広く飲まれている飲み物のひとつである。小さなポットで茶葉を煮立て、そこにこれでもかというくらいの砂糖をいれ、ポットを高く掲げ小さなガラスのコップに注ぎ落とす。そうやって入れられた茶(アタイまたはアタヤと呼ばれている。アラビア語のシャーイに定冠詞”アル”をつけた「アッシャーイ」が語源?)は上に泡の層ができる。この泡をいかにうまく立てるかというのが茶を入れる人(男の仕事)の腕の見せ所である。
緑茶は18、19C頃にマグレブ諸国経由でサハラ、サヘルに広まったといわれている。現在ではその地域の人々の暮らしに欠かせないものになり、特にトゥアレグ、アラブ、フルベなどの遊牧、牧畜民にとっては欠かすことのできないビタミン源ともなっている。砂糖をたっぷりと溶かし込んだお茶はそれだけでも結構なカロリーがあり朝食を茶だけで済ませる人々もいる(キャラバンを組んでの長距離移動中の朝食は茶だけのことが多い)。
サヘル・サハラ地域で広く飲まれている緑茶だが、北アフリカでは主に紅茶=シャーイが好まれる。個人的な見聞の範囲ではあるがサヘル地域での緑茶と紅茶の境界線はチャドだと思われる。チャド以西では緑茶が、以東ではシャーイ(砂糖たっぷり、しょうがなどの香辛料も入ったアラブ風の紅茶)が好まれる。北アフリカは全般的にシャーイが飲まれるがマグレブ諸国ではそれと並行して緑茶も飲まれている。またサヘルの緑茶地域でも現在はリプトンなどのティーバッグ紅茶がよく飲まれている。
西アフリカ(サヘル地域)ではちょっと人が集まるとすぐに茶が始まる。茶飲み話といえば日本ではなんとなくおばさんたちのおしゃべりを連想するが、アフリカでは茶は主に男が楽しむものである。大体の場合一回のお茶会?で三杯の茶を飲むことになっていて、のんびりと茶を点てながらおしゃべりを楽しむ男たちの姿を目にする機会も多い。特にマリとセネガルでは、周りの国の人から「彼らは暇さえあれば茶ばかり飲んでいる」といわれるほどよくお茶を飲む。
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・チャコシ |
ガーナ共和国北東部を主な居住地とするアカン系民族。トーゴ北部にも居住する。かつて北からやってきてマンデ系の騎馬兵団とアカン系の民族が混交してチャコシが形成されたと考えられている。
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・チャド |
中部アフリカの内陸国。北部にはティベスティ、エネディなどの山岳地帯を含むサハラが広がり、南部はサバナ気候帯に属する。チャド東部、ニジェール、ナイジェリア、カメルーンと国境が接する地点にはアフリカ第四の大湖チャド湖が広がる。
古くからサハラ縦断交易・スーダン横断交易の要衝にあたりカネム=ボルヌー帝国、ワダイ王国、バギルミ王国など数多くの王国が興隆した。
主な民族は、サラ、カヌリ、ハジャライ、ブームなど南部の黒人系諸民族、フルベ、北部のアラブ、トゥブなど。近年チャドの沙漠地帯で世界最古クラスの人類の化石が相次いで発掘されている。
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・チャド湖 |
アフリカ大陸のほぼ中央に位置するアフリカ第4の大湖。チャド、ニジェール、ナイジェリア,カメルーンの4カ国の国境をなし、シャリ川、コマドゥグ・ヨベ川などの流入する内陸水系を形成している。チャド湖の面積は雨季と乾季で拡大・縮小が激しく1万〜2万6千kuと変化する(現在地球温暖化の影響、周辺人口の増加などによりでチャド湖は急激に縮小しつつある)。
チャド湖周辺は古くから人類活動の舞台となり、古くはシャリ川流域にチャド文化が栄えた。9〜19Cにかけては周辺にカネム=ボルヌー帝国が栄え、サハラ縦断交易の拠点としても重要な地位を占めていた。
8000年ほど前、サハラが緑に覆われていたいわゆる「緑のサハラ」の時代にはチャド湖ははるか北のティベスティ山地付近まで拡大し推定面積40万ku以上の巨大な湖であった(現在の世界最大の湖カスピ海の面積37.4万ku、日本の面積37.8万kuと比較するとその大きさが理解できる)。
チャド湖では近年まで(現在も?)アシでつくった舟(これもバスケタリーの示す多様性のひとつの例といえる)が使われていた。湖上に浮かぶ島々にはブドゥマなどの漁労民が暮らしている。
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・チャド語派 |
アフリカの言語群のひとつでありアフロ-アジア語族に含まれる一語派。チャド、ニジェール、ナイジェリア、中央アフリカ共和国、カメルーンに分布し、西チャド語群、中央チャド語群(ビウ-マンダラ語群)、東チャド語群、マサ語群の4つのグループに下位分類される。
チャド語派には100を超える言語が含まれているがそのいずれも、大きな母語話者人口を持たない小さな言語である。例外がハウサ語(西チャド語群)であり、二千万人を超える母語話者人口を持つ。サハラ以南のアフリカの言語としては最大規模の母語話者人口を持つハウサ語はまた西アフリカ内陸部のリンガフランカ(地域共通語)でもあり、母語話者の何倍もの話者(ハウサ語使用者)を持っている(地域共通語としての規模もアフリカ最大級)。
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・チャド文化 |
サオ文化とも。南東方向よりチャド湖に流れ込むシャリ川下流域に栄えた文化。古くから人類活動の舞台となっていたこの地域では前4世紀にすでに鉄器の使用が始まっていたらしい。チャド文化の担い手であったサオ人は東方から移住してきたといわれ7C以前にはシャリ川下流域に住み着いていたと考えられている。
チャド文化遺跡からの出土品としては金属製品、ガラス、象牙製品などがあるがもっとも知られているのは人をかたどった粘土像である。仮面をつけた人物像と考えられている一群の粘土像はアフリカの仮面文化の貴重な資料となっている(仮面は木製のため古いものはあまり残っていない)。
13Cごろサオ人の住む地域はカネム=ボルヌー帝国の拡張に巻き込まれ、16Cごろまでにはチャド文化は消滅した。逃げ延びたサオ人達が現在のコトコ人の祖先になったとも、サラ人の祖先であるとも考えられている。
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・チャパロ |
西アフリカのサヘル、その南のサバンナ地帯で作られているトウジンビエやソルガムなどの穀類を原料としたビール。ビールといっても濁りも多くところによってはかなり穀物の粉が残っていてどろりとしていることもある。苦味と酸味が強く、炭酸成分は少なく泡もあまり立たない。
発芽させた穀物を煮込み、その後自然発酵させてつくる。酒とはいうもののアルコール度数も低くあまり濾さないためチャパロは栄養価が高く、食事代わりに飲むこともあるという(女性や子供でも飲めるし、文化的にもそれを許容する社会も多い)。
ニジェール、ブルキナファソ、トーゴ(北部)で飲んだことがあるがすっぱくてあまり口には合わなかった(とはいえ妙にクセになる味で、売っているのを見つけるとつい飲んでしまう)。またアフリカのほかの地域にも雑穀(シコクビエなど)で作ったビール状の酒が数多く存在する。南アフリカでも飲んだことがあるがどんな味だったかは忘れた(あまりまずかったという記憶は無いが)。
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・チャンバ |
ナイジェリア東部カメルーンとの国境沿いの内陸部を主な居住地とする。フルベのジハードにさらされたのちも大部分は独自の民族宗教を信仰している。チャンバ彫刻は近隣のムムイェなどの彫刻と類似性がある。
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・チャンベシ川 |
コンゴ河の水源となる支流のひとつ。ザンビア北西部に水源を持ちいったん南へ流れてから大きく湾曲して北上しコンゴ民主共和国南東部でコンゴ河本流(ルアラバ川)と合流する。
河口からの距離がもっとも長いためチャンベシ川の水源を持ってコンゴ河の水源とすることが多い。もっとも長い支流なのだから本流と呼ばれてもいいのだがは水量の点で大きく勝るルアラバ川が一般的に本流とされている。
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・中央アフリ
カ共和国 |
中部アフリカの内陸国。北部は半砂漠、南部は熱帯雨林だが国土の大半はサバンナに覆われている。国土の北はシャリ川、南はウバンギ川という二つの大河の流域となっている(植民地時代にはこの二つの川の名前からウバンギ-シャリと呼ばれていた。
名前の通りアフリカの中央部に位置しているため、過去に様々な民族移動の十字路となり、複雑な民族構成となっている。現在80以上の民族が居住する。
主な民族はバンダ、バヤ、マンジャ、アザンデ、ウバンギ、サラ、ムバカ、ヤコマなど。南部森林地帯にはピグミーも居住している。
同国東部に居住するアザンデ、マングベトゥなどの民族は彫刻の名手として知られ、彼らのつくる、棹の部分に彫刻を施したハープはアフリカ美術の本に必ず載るほど有名である。
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・中央
スーダン
諸語 |
ナイル-サハラ語族を構成するシャリ-ナイル語派に含まれる言語群のうちのひとつ。約60の言語を含み中部アフリカ(中央アフリカ共和国、チャド、スーダン共和国、コンゴ民主共和国、ウガンダ、カメルーン)に分布する。大まかに東中央スーダン諸語と西中央スーダン諸語の二派に分類され西にはサラ、ナバ、クレシなどが、東にはマングベトゥ、ルグバラ、ピグミーの言語などが含まれる。
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・チュニジア |
地中海に面した北アフリカの国。国の北部はアトラス山脈の西端が占め東部は地中海性気候、南部はサハラに連なっている。ギリシャ、フェニキア、ローマ、ゲルマン、アラブ・イスラム、オスマン帝国、フランスなどの勢力が行き交い複雑な歴史を形成。首都チュニス近郊にはカルタゴの遺跡があり観光客を集めている。
主な住民はアラブ人であり、ベルベル系住民は南部に少数居住している。アラブ世界から持ち込まれた豊かな工芸文化を誇り、織物、じゅうたん、金属工芸などが盛んである。
チュニジアの写真を見る>>
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・チワラ |
アフリカの彫刻の中でおそらくもっとも有名な彫像のひとつ。バンバラ民族の豊作祈願の祭礼時に、踊り手の頭上に取り付けられて使われる玲羊をかたどった彫像(→頭上面)でありチワラクンとも呼ばれる(チは農民、ワラはライオン、クンは頭をあらわす)。主に垂直型と水平型の二種類があり、垂直型のほうが多く作られて、また広く知られている。
垂直型のチワラは、高く縦に伸びた角、オスは様式化されたたてがみの見事な透かし彫り、メスは背中に子供を持ち、顔や胴を真鍮版で飾ることが多い。
水平型の物はゴンゾとも呼ばれ水平に長く伸びた角を持ち、メスはやはり背中に子供を乗せている。また水平でも垂直でもなく、雌雄の区別も明らかでない、変形タイプのチワラも作られている。
垂直型チワラは現在マリのシンボルとなっていて、各種の紋章などにもそのデザインが用いられている。(ちなみに今はなきエールアフリックのロゴは水平型チワラだった。)
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・チンパンジー |
サル目(霊長目)ヒト科チンパンジー属の類人猿(同属にはボノボと本種のみが属する)。西はセネガルから東はタンザニアまで主に熱帯雨林地域に棲息する。
非常に複雑な社会構成を持ち、道具の使用(木の枝でアリを釣ったり、石で木の実を叩き割ったり…)などを行う、人間に最も近い類人猿のひとつといわれている。チンパンジーの研究においては、日本から世界的な権威を何人も輩出している。
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つ |
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・ツォエデ |
現ナイジェリア中部に栄えたヌペ王国の(伝説上?の)建国者。小さな首長国に別れていたため、近隣諸国に圧迫されていたヌペ民族を統一しヌペ王国を建国したと伝えられている。
ヌペの南に位置する強国イガラの王子と、イガラの朝貢国となっていたヌペの小首長国の王女との間に生まれたツォエデは、後に奴隷としてイガラへ送られ王となっていた父と再会した。父のもとで帝王学、先進技術(カヌー製造、冶金技術など)を学んだツォエデは、父王の死後ヌペの地に帰りヌペの小国群を統一し、ビダに首都を置くヌペ王国を建国したといわれている。
ツォエデは単にヌペを統一した建国の英雄というだけでなく、さまざまな技術(造船技術、青銅などの金属器の製造技術など)や制度をヌペの地にもたらした文化英雄としての側面も強く持っている。
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・ツォゴ |
ミツォゴとも。ガボン南中部ングニエ川(オゴウェ川の支流)流域を主な居住地とするバントゥー語系民族。
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・ツォンガ |
南部アフリカ東部、モザンビーク、南アフリカ共和国、ジンバブウェ、ザンビアにまたがって居住する民族。19C前半にツォンガを率いてガザ王国(シャンガーン王国)をうちたてたズールーの将軍ソシャンガネの名に由来するシャンガーンという呼称で呼ばれることもある。
高度なビーズ細工技法を持つンデベレなどの周辺民族と接する機会の多かった南ア共和国のツォンガ人の間では、他の地域のツォンガに比べ、シードビーズを使ったビーズ細工が発達した。
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・ツチブタ |
ツチブタ目(管歯目)ツチブタ科ツチブタ属に属する動物(哺乳類)。一属一種。北アフリカを除くアフリカ大陸のほぼ全土に棲息し、アリクイに似た姿形・生態を持つ(かつては実際にアリクイの仲間と考えられていた)。和名でブタと呼ばれているがいわゆる豚とは別系統の生物である。
マリのバンバラの彫刻にモチーフとして用いられている。
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・ツワナ |
南アフリカ共和国、ボツワナを中心にナミビアなどにもに居住するバントゥー系民族。ボツワナとは「ツワナ人の国」の意味であるとおり、ボツワナでは人口の8割ほどを占めている(ツワナ人の人口自体は南ア共和国内のほうが多い)。マングワト、ヌグワケツェ、クウェナ等の8つのサブグループに分かれている。
17C頃に南部アフリカに移住してきたと考えられている。19C初頭、南のズールーの圧迫に対抗しマングワトのカーマ三世が全ツワナを糾合しツワナ王国を形成した。ボツワナの初代大統領はカーマ3世の孫であり、その息子が現大統領(第4代)となっている。
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て |
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・ティカール |
カメルーン北西部、グラスランドと呼ばれる高原地帯に居住し小規模な王国を形成した(する)民族。バントゥー系言語と近縁の言語を話す。仮面や彫像の作り手としても知られていて、ティカールのつくるピグミー像はピグミーの捕虜をあらわした物(ティカールの勢力がピグミーの居住地である森林地帯まで及んでいることを意味する威信財として)ともティカール自身の先祖像であるとも言われている。
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・ティグレ |
北東アフリカのエリトリア、エチオピア北部(主にティグレ州)を中心に居住する民族。アフロ‐アジア語族アフリカ・セム諸語に属する言語(アムハラ語やゲエズ語と近縁)を話す。
ティグリニアとも呼ばれ、エリトリアでは最大の人口比を占める。エチオピアのアムハラと共にアクスム王国の末裔を自負する。
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・ディダ |
コートジボワール西部を主な居住地域とするアカン系民族。近隣のベテとほぼ同じ言語(アカン系言語)を持ち同じくアカン系の民族であるアベと非常に近い関係にある(18Cごろに移住してきたアベ人の子孫がディダ人になったと伝えられている)。
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・ティブ |
主にナイジェリア南東部ベヌエ川流域に居住する民族。カメルーンにも居住している。ナイジェリアでは人口の2.5%を占め、カメルーン側と合わせると600万人近い人口を抱える。ニジェール-コルドファン語族ニジェール-コンゴ語派ベヌエ-コンゴ語派に属する言語を持ち、その言語はナイジェリア南東部内陸部で広く地域共通語として使用されている。
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・ティップ
=ティプ |
モハメド=ビン・サイード。1837年〜1905年。ザンジバル生まれのアラブ系商人。アフリカ内陸部(現コンゴ民主共和国東部)との奴隷交易で財を成し、同地域の王を名乗るほどの勢力を誇った。
本名よりもティップ=ティプのあだ名で知られているが、このあだ名は眼病を患い頻繁にまたたきをしていたことから来ている。スタンリー、リビングストンなどの探検を手助けしたことでも知られている。
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・ティフィナグ文字 |
サハラのラクダ遊牧民トゥアレグの用いる文字。円、直線、点などを組み合わせた文字で、縦書き、横書きの両方に使うことができる。サハラの岩壁画に残された古代リビア文字がもとになったと考えられている。
現在でもトゥアレグの間で使用されていて、街の看板などで目にすることもできる他、トゥアレグの工芸品(特に金属工芸)などに刻まれているのを目にする機会も多い(ニジェールのトゥアレグ人の銀細工工房で仕入れをしたときに領収証がティフィナグで書かれていてびっくりしたことがある)。
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・ティベスティ山地 |
チャド北部サハラ沙漠の中に位置する火山性山岳地帯。最高峰エミ・クシ山は標高3415mでありサハラの最高地点でもある。東南にはエネディ山地を通じてスーダン共和国西部のマッラ山地(ジェベル=マッラ)が、西にはニジェールのジャド台地を通じてアイール山地が連なる。
サハラの岩面画が多数残されていることでも有名なこの険しい山岳地帯は、古くからトゥブ(テダ)人の居住地となっている。
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・ディンカ |
スーダン共和国南部および(現南スーダン共和国)ナイル河上流の低湿地帯(スッド)に住む農耕・牛牧畜民。マサイやヌエルなど北東アフリカの牛牧民と同じくナイル‐サハラ語族の言語を話し、同様に長身痩躯でありべらぼうに足が長い人が多い。
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・ティン=
ヒナン |
トゥアレグの伝説的な女王。トゥアレグの伝承によればティン=ヒナンと呼ばれる女首長が従僕と共に現在のアトラス山脈のオアシス(現モロッコ領)からホガール(アハガール)山地(現アルジェリア)に移住し、全トゥアレグを初めて統一、アハガールの地にトゥアレグの王国を築いたと伝えられている。また別の伝承によれば、ヒナンはタッシリナジェールから白いラクダにまたがってホガールにやってきたとも伝えられている。
ティン=ヒナンの名は現在でもトゥアレグの間で語り継がれ、敬愛を込めて「我等全ての母」と呼ばれているという。
ホガール山地西部のアバレッサというオアシスで発掘された4Cの宮殿の遺構はティン=ヒナンの墓所と考えられ、墓所からは高価な装身具を身にまとった女性の遺骸が発掘された。
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・テグベソゥ |
ダホメー王国第六代国王。父王アガジャの死後兄弟との王位継承抗争を勝ち抜き国王となった。先代のアガジャが拡張した王国の整備(行政機構・ヨーロッパとの貿易システムの整備など)を行い、後の繁栄の基礎を作った。テグベソゥの生母フヮンジレはダホメーにヴォードゥン信仰をもたらした女性と伝えられている。ダホメー王国歴代王の紋章を見る>>
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・テクルール王国 |
セネガル北西部セネガル河中流域に栄えた王国。またはその地域の名前。スス帝国、ソソ帝国とも呼ばれる。エル・ハジ=ウマルのトゥクロール帝国とは別物。
古来サハラ縦断交易の西ルートとしてこの地域にはいくつもの交易都市が発展してきた。その中で特に発展し王国を形成したのがテクルールである。ガーナ王国の最盛期にはその支配下に入ったが、ガーナが衰退すると再独立を果たし、ガーナ崩壊後はスマングルという王に率いられガーナ王国旧領のかなりの部分を支配するなど強勢を誇ったが、1230年頃、カンガバの王スンディアタ=ケイタに破れ西スーダンの覇権を失った。その遺民は南へと移り現ギニア共和国を中心に居住する民族ススの祖となったと考えられている
その後旧テクルール王国領の支配者はマリ帝国、ソンガイ、フータ=トロ、と変わっていくが、この地域はサハラ縦断交易の中継地として重要な役割を演じ続けた。
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・テソ |
イテソとも呼ばれる。ウガンダ人口の約6〜7%を占める民族グループ。同国中央部(北テソ)とウガンダ‐ケニア国境地域(南テソ)にわかれて居住するナイル語系農耕牧畜民。
16-17C頃に現エチオピアから移住してきたナイル語系の牧畜民がテソとカラモジョンの共通の祖先と考えられている。19C頃近隣の民族の侵攻によって居住地域が分断され北テソと南テソに別れた。
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・鉄 |
西アフリカの鉄器文化の起源は現在でもよくわかっていないが、BC6〜5Cにかけての遺跡(ニジェールのド・デミ遺跡、ナイジェリア・ザリア地方のタルガ遺跡・ノク遺跡など)で鉄器使用の痕跡が見つかったことからその頃が西アフリカの鉄器文化の幕開けであろうといわれている。西アフリカの鉄器文化の起源、伝播経路については諸説あり、エジプト・メロエ起源説、独自発見説などがあるがいまだ結論を得ていない。
西アフリカではヨーロッパ、アジアと違い鉄器文化が青銅器文化に先行していた。理由としては同地域で鉄が地表近くで比較的容易に採集・精錬できたのに対し、銅鉱脈がない、または採掘しにくかったということが考えられる。事実有名なベニンの青銅彫刻も原料の多くをヨーロッパ(ポルトガル)からの輸入に頼っていたといわれている。
西アフリカの伝統的鉄器製造においては鞴(ふいご)、炉の構造により炉の温度を鉄の融点まで高められないため、鉄の鋳造はおこなわれず、鍛造のみであった。
またその辺の石ころ(鉄鉱石)から鉄を精錬、加工し武器や生活に必要不可欠な道具を作るという、素人から見ると魔術的といってもいいような技をもつ鍛冶師は西アフリカの多くの社会では特別な力を持つものとして畏怖されながらも忌避の対象となってきた(これは無文字社会において歴史を語るという技を持つグリオについても同じことである)。また鉄器そのものにも呪術的な力が宿ると考えられコンゴのNkisiなど「釘の偶像」と呼ばれる、全身に釘を打ちつけた彫像も作られている(釘・鉄片などを打ち付けるのは像の呪力を高めるため)。
西アフリカの職業カーストをもつ社会ではしばしば鍛冶師(男)は土器作り(女)と内婚集団を作っている。
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・テテラ |
バントゥー系言語の一グループであるモンゴ語グループに属する言語を持つ民族。主にコンゴ民主共和国中部に居住する。コンゴ民主共和国初代首相(独立時の国名はコンゴ共和国)であり、後に暗殺されたパトリス=ルムンバはテテラの出身であった(ルムンバ暗殺にはコンゴ国内の政敵のみならず旧宗主国であるベルギーやアメリカ情報機関の関与が取りざたされている)。
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・テネレ沙漠 |
ニジェール東部に広がる大規模な砂沙漠。サハラ沙漠の一部であるが、広いサハラの中でも最も乾燥しきった土地であるといわれている。西はアイール山地、北はジャド台地、東はティベスティ山地に接し南はチャド湖盆地へと続いている。
緑のサハラと呼ばれるサハラが湿潤であった時代には初期人類が広く居住し、現在では砂しかないような場所からも石器などの遺物が見つかっている。またテネレは恐竜化石の宝庫としても知られていて、テネレから発掘された大型肉食竜の全身骨格が首都ニアメの国立博物館に展示されている。
テネレ中央部に位置するオアシス・ビルマには塩水性の湧水があり製塩がおこなわれている。ビルマの塩は毎年秋から春にかけてラクダキャラバンでテネレを越えアガデスへ運ばれる。
ビルマとアガデスを結ぶ道の中間点辺りに昔一本の木が生えていて沙漠を行く旅人の重要な目印となっていた。テネレの木と呼ばれたその木の位置はなんとミシュランのアフリカ地図にまで記されていて、おそらく大縮尺の地図に載った世界で唯一の木であろう。
数十年前に酔払い運転のトラックにぶつけられて折れてしまったが、折れた木は首都ニアメに運ばれ、国立博物館内に植樹され、現在でも見ることが出来る。
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・テフ |
イネ科雑穀のひとつ。ほとんどエチオピアでしか栽培されない。テフの粉を用いてエチオピアの主食インジェラ(薄焼きパン)が作られる。
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・デボ湖 |
ニジェール河中流域、モプティの下流約80qから始まるニジェール河内陸デルタ最大の湖。増水期と渇水期で極端に面積が変動し、また湖自体が河の一部でありどこからどこまでが湖でどこからどこまでが河なのか判り辛いが、最大時で約160kuの大きさを持つ。
渡り鳥の生息地としても有名でユネスコのラムサール条約登録地となっている。
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・テムネ |
主にシエラレオネ北部、西部に居住する民族。同国最大の民族グループの一つでありシエラレオネの人口の3割ほどを占める。
12,3C頃フータ=ジャロンから現シエラレオネ方面に移住してきたと考えられている。16C初頭から19C末にかけて現シエラレオネ北部に栄えたコヤ王国を建国した。
農耕、漁労、商業に従事するものが多い。ほとんどのテムネ人はイスラム教徒であるが、民族独自の宗教儀礼もよく保持していて、男性のポロ結社、女性のボンド結社など多くの結社組織を持ち、仮面を用いた様々な祭儀をおこなう。
15C頃にテムネやシェルブロがつくったヨーロッパ交易者向けの象牙細工はシェルブロ=ポルトギーズと呼ばれ、アフリカの象牙細工の中でも最高級のものとして珍重された。
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・デュラ |
西アフリカに広く居住するマンデ系民族。古来商業に長けた民族として知られ、ワンガロ、ワンガラ、ウンガロスなどの名でアラブ、ヨーロッパの古い文献に登場する。ガーナ王国の昔からサハラ縦断交易におけるサハラ以南の主役として活躍してきた(デュラ人も一時サハラ越えに直接従事したこともあったがサハラ越えの主役はやはりベルベル、アラブ人たちだった)。
いち早くイスラム化し、イスラムの商習慣を身に着けた彼らはサハラ以南の西アフリカ内陸部に信用取引による広大な交易網を築き上げた。デュラ商人たちは西アフリカ内陸部の金、コーラの実などをサヘルの交易都市に運び、北からの商品すなわち、岩塩、銅、ガラス、馬などを西アフリカ内陸部に流通させた。
現在でも商人として活躍するものも多く、ハウサと並んでアフリカでも有数の商業民族として知られている。
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・テラコッタ
ビーズ |
粘土から作った素焼きのビーズ。古代から世界各地で作られてきた。可塑性素材を用いたビーズとしてはおそらく世界最古のものである(テラコッタビーズから彩陶ビーズ、グラスビーズへと進化していく)。現在のアフリカでも多くのテラコッタビーズが造られていて様々な形のものがある。素焼き(無彩色)のものの他にも様々な方法で(主に黒く)彩色したビーズが作られている。
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・デンキイラ |
17C前半〜19C後半にかけて現ガーナ共和国南西部にあったアカン系の王国。1620年頃にムムヌムフィ王によって建国され金の交易などで栄えた。
最盛期のデンキイラは地域の強国として周辺のアシャンティ人の小国家群を朝貢国として従えていたが17C末にオセイ=トゥトゥによって統一されたアシャンティ連合王国との戦いに敗れ(1701年)逆にアシャンティの朝貢国となった。
1868年に親イギリスのファンテ連合に加盟し再びアシャンティ王国と戦ったが敗れ、1874年イギリス保護領下にはいった。
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・デンゲセ |
コンゴ民主共和国中部、クバの勢力範囲の北に住む農耕民族。エトシと呼ばれる王が村々の首長の上に全デンゲセ民族の王として統治している(いた)。大昔にはクバがデンゲセに朝貢していたとの言い伝えが示すとおり、近隣のクバ人、クバ王国との関わりは深く、彫刻文化にもそれが表れている。
デンゲセの彫刻は主として宮廷美術であり、特権階級の人々が用いるために製作された。彫像、儀礼用の杖など精巧な細工を施したデンケセの彫刻はアフリカ彫刻の中でも最もハイレベルなものの一つである。
胴体全面に精巧な瘢痕装飾をあらわす紋様をあしらった坐像が有名。
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・デンディ |
主にベナン北部、ニジェール南西部に居住する民族。ベナンでは人口の4%を占める。ソンガイ帝国の遺民によって建国されたデンディ王国の住民がデンディ民族となったためソンガイ語から派生した言語(デンティ語)を用いる。デンディ語はベナン北部では他の民族(バリバやハウサなど)にも用いられる地域共通の商業言語ともなっている。
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・デンディ
王国 |
16C末から20C初頭にかけて現ニジェール南西部、マリ南東部に存在した王国。1591年サハラを越えて侵攻してきたモロッコ軍によってソンガイ帝国は滅びたが、その王族と一部のソンガイ人が旧帝国の南東部に拠ってデンディ王国を建国した。
デンディ王国はその建国のいきさつからして常に失地回復のための戦いに明け暮れていた。建国当初から17C後半にはモロッコ軍と激しく戦い、一時はジェンネを回復した。しかしその後旧ソンガイ帝国支配下にあった各民族の独立の気運が高まり、ソンガイ帝国再建を目指すデンディ王国は、今度はそれらの民族との戦いに忙殺されることとなった。
そのために20C初頭にフランス軍がこの地方に侵攻してきたときにはすでに国力を消耗し尽くし、フランス軍に抵抗する力は残っていなかった。1901年最後のデンディ王がフランス軍により退位させられ、王朝は途絶えた。王国の遺民はデンディ人として現在も主にベナン北部、ニジェール南西部に居住している。
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と |
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・ドゥアラ |
カメルーン第二の都市ドゥアラを中心に居住するバントゥー系民族。沿岸部に住みはやくからヨーロッパ人との接触があった。ヨーロッパ人との交易が始まってからは地理上の利点を生かし内陸部とヨーロッパ人交易者の仲介業者として活躍した。
美しい彫刻を施したカヌーの船首飾りを作ることでも知られている。アフリカではあまり見られない透かし彫りを多用し、船首飾りのほかにも透かし彫りを施したいすなどをつくる。
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・トゥアレグ |
「サハラの青い貴族」の異名でも知られるトゥアレグは、ニジェール・マリ・アルジェリアを中心に周辺諸国にも居住するベルベル系ラクダ遊牧民。青い衣をまとい、長剣を帯び、ラクダに乗り広大なサハラを闊歩する姿はまさに「サハラの青い民」の名にふさわしい。
トゥアレグはサハラの支配者として畏れらていた一方で、卓越した工芸技術の持ち主としても知られ、特に洗練された技巧とデザインをもつ銀細工は高い評価を受けている。貴族(トゥアレグの代名詞にもなっている青い衣を身に着けることができるのは本来この階級だけであった。)・戦士階級の下に黒人系の工人階級があり、トゥアレグの工芸品を作るのは主にこの集団である。
かつてはサハラの広大な範囲を支配下に置き、遊牧のほかに交易、キャラバンの保護、略奪などを行なっていた。現在は旱魃の影響、国による定住化政策等で定住生活に移行するものが増え、伝統的な遊牧生活を送るものは少なくなってきている。
トゥアレグ/Touaregとはアラブ人による他称(神に見捨てられた者の意)であり、自称は「Kel Tamachek」。タマシェクとはトゥアレグの言語でありティフィナグ文字という独自の文字を持つ。→さらに詳しい説明を見る>>
トゥアレグクロス関連地図<ニジェール>・<マリ>
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・トゥアレグ
クロス |
サハラのラクダ遊牧民トゥアレグの象徴とも言えるアクセサリー。洗練された技巧とデザインで高い評価を受けているトゥアレグの銀細工の中でも最も知られているのが トゥアレグクロスと総称されるペンダント状の装身具である(十字状のデザインを持つものが多いのでヨーロッパ人からクロスと呼ばれている)。
トゥアレグクロスは父から子へと代々受け継がれ、出身地や氏族など自らの出自をあらわすために使われてきた。出身地や氏族によってさまざまなデザインのトゥアレグクロスがあり、「アガデスクロス」、「ザンデールクロス」等、土地の名前を冠して呼ばれている。また同じ土地の名前を冠したトゥアレグクロスでも細かいデザインの違いや、果てはまったくの別物といえるデザインのものもある。
トゥアレグクロスには何十種類ものデザインがあるが、大部分に共通しているのが、クロスと呼ばれる所以でもある上下左右の四方に突き出した部分を持つ十字状のデザイン、上部に開いた丸穴である。穴は井戸を、十字状のデザインはトゥアレグのラクダ鞍の前飾り、トゥアレグの戦士の持つ長剣の柄、または東西南北の四つの方角を象徴するといわれている。
またクロスに刻まれた文様にもそれぞれ、井戸、沙漠の道、オアシス、(方位を知るための)星、ラクダの足跡といった意味が込められている。
トゥアレグクロス関連地図<ニジェール>・<マリ>
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・トゥクロール |
農耕民化したフルベ人の一派。セネガル河中・下流域を中心にセネガル北部からモーリタニア南部にかけて居住する。自称はハール・プラール(フルベ語を話す人の意味)。トゥクロールという呼称はフータ=トロの地にあった古代王国テクルールから来ている。
19C半ばにイスラム指導者エル・ハジ=ウマル=タールが率いたジハード(→フルベのジハード参照)によりトゥクロール帝国を築いた。
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・トゥクロール
帝国 |
19C半ばにセネガル河中流域から興ったトゥクロール人のイスラム国家。セネガル北部、セネガル河中流域に住むフルベ語を話す農耕民トゥクロール人は自称ハール・プラール(フルベ語を話す人の意味)であり、フルベと近縁関係にあると考えられている。
18C末に生まれたトゥクロールのイスラム指導者エル・ハジ=ウマル=タールはメッカに巡礼中にスーダンのカリフの称号を授けらた。メッカから帰国したウマルは1854年にジハードを宣言。当時セネガル河をさかのぼり内陸に勢力を拡大していたフランス軍と衝突するが敗走。以後ジハードの対象を内陸に向け1854年カアルタ王国占領、61年セグー王国占領、62年マシーナ王国占領、63年トンブクトゥ占領と破竹の勢いで支配を拡大、セネガル河中流域からニジェール河中流域に及ぶ大帝国を樹立した。
しかし1864年のウマルの死後甥のティジャニ=トールが跡を継いだが、支配下の諸民族の反乱が相次ぎ1890年にはフランス軍が首都セグーに入城し、トゥクロール帝国は滅亡した。エル=ハジ=ウマルが支配下の諸民族(バンバラなど)を強制的にイスラムに改宗させたことにより西スーダンのイスラム化が進んだ。
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・トゥシアン |
ブルキナファソ南西部のトゥシアナ郡を主な居住地とする民族。グル語派のトゥシアン語を話す。カラオーをかたどった非常に平たい仮面を作ることでも知られている。
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・トウジンビエ |
イネ科植物の一種であり、いわゆる雑穀と呼ばれるもののひとつ。トウモロコシに似た穂に実をつけるが種子(実)は非常に粒が小さい。ヒエという和名がついているが日本の稗(ひえ)とは全くの別物である。
サヘル地方を中心にサハラ以南アフリカの広い地域で栽培されている穀物であり、穀類の中では最も旱魃に強い作物といわれている(米麦などは生長できない環境下でも栽培可能なソルガムすら栽培できない環境下でも栽培可能)。アフリカの、特に半乾燥地帯(サヘル地域)では主力作物・主食作物のひとつであり、マリやセネガルではトウジンビエからクスクスを作るほか、自家製ビールの原料とすることもある。
原産地はアフリカであり4000年程前にはすでにインドに伝わっていたと考えられている。アフリカのみならず南アジアを中心に世界の広い地域で栽培されている。
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・トゥーバ |
セネガル中西部の宗教都市。セネガル発祥のイスラムの一派ムーリド派の本拠地であり現在はセネガル第二の人口を擁する都市圏となっている。
ムーリド派の開祖アマドゥ=バンバが19C末に開いた町でありバンバの墓、西アフリカ最大級のモスク(トゥーバの大モスク)を中心に発展してきた聖地としての性格を持つ。ムーリード派はセネガルではきわめて強い影響力を持ち、その聖地トゥーバも大幅な自治権を持っている。
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・トゥブ |
チャド北部ティベスティやエネディの山岳地帯を中心にニジェール東部、リビア南部などに居住するラクダ遊牧民。そのほとんどがムスリムである。テダとダザの2つのサブグループに分かれ、40万人近い人口を擁し、非常に精悍な沙漠の戦士としても知られている。
コーカソイド的な外見と黒い肌を持ち、言語系統も不明なため(ナイル-サハラ語族サハラ諸語か?)トゥブの起源は謎に包まれている。一説にはヘロドトスの著書の中の「穴居エチオピア人を二頭立ての馬車で狩るガラマンテス人」との記述にある「穴居エチオピア人」の子孫だとも、また別の説では、7〜9C頃ナイル河地方からやってきたコーカソイド系遊牧民の一群がカネム帝国の建国にかかわった後、チャド北部のサハラ沙漠に移動しトゥブの先祖となったとも言われている。
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・トゥブカール
山 |
モロッコ中部の古都マラケシュの南方60kmの地点にそびえる山。海抜は4167m。同国最高峰にしてアトラス山脈の最高峰である(同山はアトラス山脈の中で最も高い山脈であるオートアトラス山脈西部に位置する)。
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・ドゥマ |
アドゥマ、バドゥマとも。ガボン北部のオゴウェ川流域に暮らす民族。優れた舟乗り(川舟)としても知られている。
ドゥマの作る仮面はその平面的な造形が特徴であり、場合によっては目や口は単なる四角い穴で表現されるが、この地域の彫刻の特徴であるハート型の顔を持つものが多い。ドゥマの仮面はパターン化されたデザインで赤と白に塗り分けられたものが多い。
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・トゥルカナ |
ケニア北西部トゥルカナ湖周辺の乾燥地帯を中心として居住する民族。東ナイル語群に属する言語を用い、伝統的生業形態は牧畜(ウシ、ラクダなど)である。ラクダを飼うアフリカの牧畜民族としては珍しくイスラム化されず、独自の伝統宗教を奉じている。
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・トゥルカナ湖 |
ケニア北西部アフリカ大地溝帯内の半砂漠地帯にある湖。湖の北端はエチオピアとの国境と重なっている。面積は約7000ku(アフリカ第5位)。流出河川のない無口湖である。
アルカリ性の水を持ち、ナイルワニ、ナイルスズキなどが生息するためかつてはナイル水系の一部であったが地質変動に伴い水系から切り離され、土壌に含まれる成分から水がアルカリ性になったと考えられている。
かつてはこの湖をヨーロッパ人として最初に『発見』したオーストリア人探検家が名づけたルドルフ湖との名称で呼ばれていたが現在は湖周辺に居住する牧畜民トゥルカナの名にちなんだトゥルカナ湖の名称で呼ばれている。
湖周辺で最古クラスの人類化石が多数発掘されていることでも有名。
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・トゥンカ
=マニン |
11世紀後半のガーナ王国の王。1010年〜1078年(在位1062〜1076年)。ガーナ王国最後の王として知られている。
アル-バクリというアラブ人の著した書物には、トゥンカ=マニンの持つ莫大な富、権力、兵力が語られているが、彼の治世の初期からすでに北方のムラービド朝のガーナ侵攻が始まっていた。一時はムラービド朝の侵攻を跳ね除け、むしろ領土を奪いさえしたトゥンカ=マニンであったが、1076年にムラービド朝軍がガーナの首都クンビ=サレーを攻略。西アフリカの広域国家としてのガーナ王国はここに滅亡した(その後マリ帝国の時代にもマリの宗主権下の小地方政権として存続はしていた)。
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・トゥンブカ |
タンザニア南部からマラウィ北部、ザンビア東部にかけての地域に居住するバントゥー系民族。全体で100万人以上の人口を持ち、そのうちの多数が住むマラウィでは人口の9%ほどを占める。
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・トーゴ |
西アフリカギニア湾に面した国。南北約600km、東西約70km、面積約5.7万kuの細長い国。北部はサバナ気候、南部は熱帯である。
南部にはエウェ、ミナ、などのエウェ語系民族が、北部にはグル語派/ボルタ語群に分類される言語を話すカブレ、モバ、グルマ、マンプルシなどの民族が居住している。また北部の山岳地帯に住むベタマリベ人の要塞のような家も有名。
エウェのケンテ布、ヴードゥー関連の彫刻などが知られている。
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・ドゴン |
マリ中部バンジャガラ地方に居住する農耕民族。その壮大な宇宙観・神話体系、極度に抽象化された直線的な仮面、独創的な彫刻、仮面を用いた独特の儀式等で、世界的に有名な民族。サハラ以南アフリカ諸民族の中で最もアフリカらしい、宗教、習慣、美術を伝えている民族と評されることもあり、アフリカの彫刻といえばドゴンの彫刻を思い浮かべる人も多い。
現在は伝統的宗教のほかにイスラム・キリスト教などの外来宗教の信者も増えてきている。
マルセル=グリオールなどの著書によってその神話体系が紹介され一躍アフリカでもっとも有名な民族のひとつとなった。ドゴンの村を巡るバンジャガラツアーはマリ観光の目玉の一つとなっている。
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・ドッソ王国 |
18C中頃に現在のニジェール南西部の町ドッソを中心に築かれたジェルマ人の王国。16C頃にこの地に移住してきたジェルマ人は北のトゥアレグ、南のフルベの脅威から身を守るために1850年ごろ、ジェルマコイ(ジェルマの王)アブバカルのもとにジェルマ王国を建国した。
王国は19C半ばに一時ソコト帝国に支配されもしたが(この時期にジェルマ人のイスラム化が進んだ)、20C初頭にフランス植民地となった後も植民地体制下での間接統治者として存続。ニジェール独立後の現在も世俗支配権を持たない王朝として存続している。世俗支配権は持たないものの、その王や高位の廷臣たちはニジェールの政界に隠然たる勢力を保持している。
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・ドドス |
ウガンダ北東部のケニアや南スーダンとの国境に近い地域を主な居住地とする(牛)牧畜民。近隣の民族カラモジョンやジェとは近縁関係にあり、言語もカラモジョン語(ナイル-サハラ語族東スーダン諸語東ナイル語群)の方言を用いる。
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・ドラケンス
バーグ山脈 |
南アフリカ共和国東部を北東から南西にかけて500q(800q)にわたって走る山脈。山脈南部のバスト高地は主にレソト王国の領土であり、最高峰はタバナ・ヌトレニャナ山で標高3482m。
ドラケンスバーグとはアフリカーンス語(ボーア人:オランダ系移民の言語)で「竜の山」の意味であり、ズールー語ではウクハランバ「槍の壁」と呼ばれる。
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・ドルゼ |
エチオピア南西部を主な居住地とする少数民族。オモ語派に属する言語を持つ。
織物の腕前はよく知られ、特にドルゼの織る赤、黄、黒の三色の布はエチオピア南西部で好んで用いられる他、エチオピア正教徒によく用いられるナタラと呼ばれる白いショールを織る職人の多くもドルゼ人である。
ゾウをかたどった独特の形の伝統的家屋もよく知られている。
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・泥染め |
ボゴランとも呼ばれアフリカの布の中でも特に有名な染め布のひとつ。植物の葉からとった染料で下染めをしてから鉄分を含む泥で文様を描く。泥染めで用いられる色は黒、茶、褐色系統の色であり、バンバラの伝統的な泥染め布はそれらの色を使って主に幾何文様を描き出すことが多いが、最近では絵画的な模様を描くことも多い。
伝統的泥染めでもセヌフォの作るコロゴ布のように絵画的な模様を描く場合もある。また現在では伝統的な泥染料に加え鮮やかな色の化学染料をアクセントとして用いることもある。
泥染め布は西アフリカのマリ、ブルキナファソ、コートジボアールなどで広くつくられているが、中でもバンバラのボゴラン、セヌフォのコロゴ布はよく知られている。
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・泥のモスク |
→スーダン様式モスク |
・ドロボ |
ケニア-タンザニア国境地帯に居住するいくつかの狩猟採集民族の総称。現在も昔ながらの狩猟採集生活を続ける者もおり、サン、ピグミー、ハッザなどとともにアフリカ最後の狩猟採集民とも呼ばれている。
ドロボという名前は、マサイが「ウシを持たないもの」という意味で近隣の狩猟採集民族をまとめて呼んだ呼称であり、実際にはいくつかの起源の異なる民族集団が含まれる(現在は固有の言語を失っているがナイル語系起源の民族、クシ語系起源の民族などが含まれる)。
ドロボに含まれる主な民族集団としてはオキエク、アサク、アキェ、メディアク、キサンカサ、アラマニク、モシロ、などが挙げられる。
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・トンディビの
会戦 |
16C末のサード朝モロッコ軍によるソンガイ帝国侵攻の成功を決定づけた会戦。1578年にポルトガル軍の侵攻を退け勢いを増していたサード朝モロッコはサハラの南にあるソンガイ帝国の富、サハラ縦断交易の利権に目をつけ、まず1584年にソンガイ帝国の勢力化にあったサハラの塩鉱タガザを攻略した。
タガザ攻略が期待通りの利益が上がらなかったことにいらだったサード朝は、1590年にスペイン生まれの元キリスト教徒フダルを隊長とする4000人の部隊(ほとんどがイベリア半島出身の傭兵か囚人)を派遣し、サハラを越え直接ソンガイ帝国の首都ガオへ侵攻した。火縄銃、大砲で武装したこの部隊はサハラを越え、1591年3月13日ガオの北トンディビでソンガイ帝国の大騎馬隊と衝突した。ソンガイ帝国の皇帝アスキア=イシャク2世は約4万人の軍勢を持ってモロッコ軍を迎え撃った。西スーダンを席巻したソンガイ帝国の騎兵隊であったが、初めて対戦する本格的な鉄砲部隊(火縄銃)の前に敗退し、モロッコ軍はガオへ、ついでトンブクトゥ、ジェンネへとなだれ込んだ。
ソンガイ帝国を滅亡させたモロッコ軍ではあったが、ソンガイ帝国旧領各地で相次いだ散発的な反乱、本国とあまりに離れていて、支援を得られなかったことなどにより、帝国旧領の強固な支配を確立するには至らず、17C末には小さな地方政権の一つとなっていた。ソンガイ帝国滅亡後の西スーダンには各地に中小規模の王国が乱立する動乱の時代を迎えることになる。
なおトンディビの戦いはサハラ以南で始めて本格的に銃が使用された戦いであった。
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・トンブクトゥ |
マリ共和国ニジェール河大湾曲地帯(ニジェール河が北に大きく張り出して流れている地域)の北端に位置する交易都市。おそらく西アフリカでもっとも有名な街であり、サハラ縦断交易によって栄え、その繁栄は「黄金の都トンブクトゥ」として遠くヨーロッパにまで鳴り響いた。
トンブクトゥはおそらく10C頃にトゥアレグのキャンプ地としてつくられたと考えられている。その後マリ帝国の時代、ガーナ王国時代には西(モロッコから現モーリタニア領のウダゴースト・ワラタを結ぶルート)にあったサハラ縦断交易ルートが東に移ったことによりサハラ縦断交易の一大中継地として繁栄し始めた。サハラの北から運ばれてきた品物はここからニジェール河の船でアフリカ各地に運ばれていき、アフリカ各地の産品はニジェール河の水運を利用し、まずトンブクトゥに集められてからサハラを越え北に向かった。河の港と沙漠の港を持つトンブクトゥは「砂と水の出会う場所」としてサハラ交易の一大拠点として発展していった。
マリのマンサ=-カンカン=ムーサ皇帝がメッカ巡礼の際連れ帰ったアラブの学者、宗教指導者を連れ帰って後はさらに西、中央スーダンの学問、イスラームの中心地としても栄えいくつもの大学やモスクが立ち並び、数多くの優れた学者を輩出した(時代は少し降るがマフムド=カティ:タリーク=アル=ファッタシュの著者、アッサディ:タリーク=エッスーダンの著者、アフマッド=ババなど)。
その後ソンガイ帝国の統治下、帝国がその広大な領土をよく統治し、サハラ縦断交易ルートの安全を確保したことにより、トンブクトゥは空前の繁栄を迎えることになる。モロッコ軍の侵攻によるソンガイ帝国滅亡の後はトンブクトゥの地位は低下し、以後衰退の道を辿り続けていたが、現在ではマリ共和国有数の観光地となっている。
その名声からよく誤解されるが、トンブクトゥはその歴史を通して一度も一国の首都になったことはない。マリ帝国の首都ははるか西方の現ギニア領にあり、ソンガイ帝国の首都はトンブクトゥの東、ガオに定められていた。「黄金の都トンブクトゥ」の名はヨーロッパ人の欲望と好奇心を駆り立て18,9Cには多くのヨーロッパ人探検家がトンブクトゥ到達を目指したが、運良くトンブクトゥまで生きてたどり着いた者が見たものは黄金の都ではなく泥で作られた質素な家が立ち並ぶ寂れた街だったという(最初にトンブクトゥに到達したヨーロッパ人はスコットランドのレイン少佐だが帰路に殺害された。到達後生還を果たした最初のヨーロッパ人はフランスのルネ=カイエであり1828年のことであった)。
トンブクトゥ(ティンブクトゥ)の名の由来は、あるとき洪水を防ぐためにブクトゥという名の娘を人柱として井戸に沈めたという伝承に求められる。トンブクトゥ(ティンブクトゥ)とは「美しいブクトゥ」または「ブクトゥの井戸」という意味と言われ、現在もブクトゥを人柱として捧げたという井戸が博物館内に残されている(名前の由来には異説もある)。
ヨーロッパの言語(英・仏ほか)ではトンブクトゥ/Tombuctou or Timbuktuが「地の果てほど遠い場所」のたとえとして使われる場合がよくある。
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・トンボ玉 |
色模様つきのガラスビーズの総称。4000年近く前から世界各地で生産されてきたがサハラ以南のアフリカでは少数の例外を除いて製造されなかった。
西アフリカには17C以降ヨーロッパとの交易(大西洋交易)が盛んになるにつれヨーロッパ産のトンボ玉が交易品として大量に持ち込まれた。ミルフィオリ(千の花)、シェブロン(鋸文様)などヨーロッパのガラス職人が技巧を凝らして作ったトンボ玉はアフリカで熱狂的に迎えられ、ヨーロッパの商人たちはトンボ玉と引き換えに、金、象牙、香辛料などを手に入れた。やがて奴隷貿易が盛んになるにつれ、多くのアフリカ人たちが一掴みのトンボ玉と引き換えに、奴隷としてヨーロッパ商人に売り渡さることになった。
それらのトンボ玉はアフリカ玉と総称され、それぞれの産地の名をとってヴェネチア玉、ボヘミア玉、オランダ玉などと呼ばれ、古いものはコレクターの間で人気が高く、非常に高値で取引されている。
西アフリカでは19C頃から輸入品のビーズ、ガラス製品などのガラスくずを利用した再生トンボ玉が作られ始めた。
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