アガデス旧市街のハウサ様式の家屋:ニジェール北部 |
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〜ハウサとは〜
主にナイジェリア北部およびニジェール南部に居住する民族ハウサ人。ニジェールとナイジェリアで最大の人口を抱える民族(両国あわせて3000万人以上)でありアフロ-アジア語族チャド語派に属する言語を持つ。13C〜19C半ばまで同地方にハウサ諸国と呼ばれる都市国家群を作った。
ハウサ人の祖先は5,6Cから7,8Cの間ごろにヌビア地方(現スーダン共和国北部近辺)から移動してきたと考えられている(アフロ-アジア語族に属する言語を持つのはそのためか?)。東方の大国カネム=ボルヌー帝国からの影響を受けながらハウサ人たちは徐々に力を蓄え自らの国を築いていく。
ハウサ諸国の建国伝説によれば、ハウサ諸国建国の祖とされる伝説上の人物バヤジッダはバグダッド(現イラク)の王子であったという。父王との確執から国をはなれたバヤジッダは、チャド湖を中心とした大帝国カネム=ボルヌーを経由し現ナイジェリアのダウラに到った。そこで井戸の中に住み着き、水を汲むのを妨げていた蛇を退治したバヤジッダはダウラの女王と結婚し王となり、その息子、孫が後のハウサ七国/ハウサ=バクワイ(カノ、ゴビル、カツィナ、ビラム、ダウラ、ラノ、ザリア)の祖となったと伝えられている(ビラムのみダウラの女王との結婚以前にもうけた子供が、他の王国はダウラの女王との間にできた子、孫が建国の祖と伝えられている)。この伝承にはいくつもの異説があり、その中ではバヤジッダはイラクの王子ではなくカネム=ボルヌーの奴隷であったとか、単に東からやってきた人物としても語られている。ダウラの蛇を退治したバヤジッダの剣といわれる剣が現在でもダウラに保管されているといわれている。
実際のハウサ諸国が建国された年代については諸説あるがおおむね13C末〜14C初頭までごろにはハウサ諸国が成立していたと考えられている。ハウサ諸国は東隣のカネム=ボルヌー帝国や西方のマリ帝国(後にはソンガイ帝国)などの領域国家とは異なり、城壁に囲まれた都市を中心とした都市国家であった。
ハウサ諸国は南の森林地帯(東ギニア)と北のサヘル地方(西・中央スーダン)を結ぶ交易路の中間点にあったため、北アフリカ、西アフリカ、中部アフリカを結ぶアフリカの内陸交易網の一大中継地として繁栄し、またハウサ商人自身も長距離交易に従事した。ハウサ商人はデュラ商人と並び西アフリカ屈指の交易者として西アフリカ内陸各地に広大な交易網を築いた。そのため現在でもハウサ語は西アフリカ内陸部で最も広く通用する地域共通言語(リンガ・フランカ)となっている。
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ハウサランドにはいくつものハウサ都市国家が盛衰を繰り返したが中でも強勢を誇ったのが、最古のハウサ国家(ハウサ七国/ハウサ=バクワイ)のひとつであるザリアであった。15C末にイスラム教が伝来。他のハウサ諸国と同様イスラム化したザリアはイスラムの商習慣を取り入れ、サヘルと南の森林地帯を結ぶ交易者(または交易の仲介者)として栄えた。16Cにはアミナ女王の統治のもとハウサランド一の強国となり、近隣のヌペ王国、ジュクン王国を支配した。
ハウサ諸国はアシャンティ王国のような同族連合を組織することがなく、むしろハウサ都市国家同士で敵対することもしばしばであったため、同盟を結び広域国家を形成するようなことはなく、軍事的には東西の大国ソンガイ帝国、カネム=ボルヌー帝国に、時代が下ると南方のジュクン王国(かつてはハウサ諸国のひとつザリアの支配下にあった王国)などにも押され、しばしば朝貢、臣従を強いられた。
19C初頭、フルベのジハードの大波がハウサランド全域を呑み込むこととなった。ハウサランドのフルベ出身のイスラム指導者ウスマン=ダン=フォディオ(1754年〜1817年)が、ハウサ諸国の(在来宗教との)習合的なイスラム信仰のあり方を批判して起こしたジハードは同地域のフルベ、ハウサ人の支持を得て瞬く間にハウサランド全域を平定し、さらにはハウサランドの南に位置するジュクン王国やニジェール南部、カメルーン西部に至る地域を平定しアフリカ史上最大規模の国家の一つであるソコト帝国(フラニ王国とも)を建国した。この結果ハウサ人社会の上層部ではフルベ(フラニ)人との同化が進み現在に至っている。
現ナイジェリア北部を支配したソコト帝国も1903年にイギリス軍に破れて崩壊、イギリス植民地下となった。現ニジェール南部のハウサ人居住地もやはり20C初頭までにはフランス植民地となり、1960年のニジェール・ナイジェリア独立を経て現在に至る。
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〜ハウサ/ナイジェリア・ニジェールの工芸〜
ハウサ人は商業民族としても有名であるが、有能な職人としても知られていて、ハウサ都市で作られる皮革製品、装身具などはアフリカ各地にその名を知られ、特に革細工はモロッコ革の名で遠くヨーロッパにまで名を知られていた(ハウサランドからサハラを越えてマグレブ諸国−モロッコなど−に運ばれそこからヨーロッパに出荷されていたためモロッコ革と呼ばれることになった)。また藍染めでも有名で、トゥアレグが好むほとんど紫に近い濃い藍色の砧打ちの布はほとんどが北ナイジェリアのカノなどのハウサ都市で作られている。
残念ながら今回はハウサの工芸品を紹介することができないが、ハウサ人が住む国ナイジェリアとニジェールはともにアフリカ屈指の工芸大国として知られている。
ニジェールでは様々なビーズアクセサリー、原色を使った大胆な織り模様が美しいジェルマの布、フルベの装身具、市松模様が美しいフルベの木綿布、羊毛布、それぞれの民族の意匠を凝らしたひょうたん容器、などが知られているが、ニジェール工芸の華といえばやはりラクダ遊牧民トゥアレグの工芸品の数々であろう。
サハラの支配者として畏れられてきた一方で、トゥアレグは高度な工芸技術の持ち主としても知られてきた。銀製品をはじめとする金属工芸、女性の仕事である革製品などが広く知られているトゥアレグ工芸の代表である。特にトゥアレグクロスに代表されるトゥアレグのシルバーアクセサリー・ジュエリーはその洗練されたデザインと繊細な技巧で世界的に知られていて、エルメスがそのデザインを取り入れたこともあるという。現在では革細工、金属工芸の伝統をいかし現代的な小物(財布・かばん・食器・etc)の製作も盛んであり、様々な意匠を凝らした工芸品を見ることが出来る。
一方のナイジェリアも北部のハウサ職人達に負けない工芸自慢の民族が目白押しである。イボ、エコイ、ジュクンなどその名を上げればきりがないが中でも有名なのは南部のヨルバとエドであろう。 豊かな歴史と独自の宗教を持つヨルバは王国時代に宮廷美術として花開いた豊かな工芸文化を持つことでも知られている。特にイフェ王国の時代に作られた一群の青銅彫刻・テラコッタ彫刻はその写実性と完成度の高さにおいて、世界的に見ても最高の水準に達していると評価されている。
ブロンズ彫刻といえばエド/ベニン王国も負けてはいない。 ベニン王国でも宮廷美術が発達し、宮廷の工芸師たちはアフリカの歴史を通じて最高峰といわれる象牙細工と青銅彫刻を作り出した。中でもさまざまな場面でのオバ(王)の姿を浮き彫りにした青銅版、彫刻を施した象牙を立てるための人頭型の青銅製の台(王の肖像とも言われている)などは非常によく知られている。ベニンの青銅彫刻はアフリカ美術史上でも最高級の評価を受けていて、なかには競売で470万ドルの値がついたものもある。またベニン王国の象牙細工はビニ=ポルトギーズ(ポルトガル人交易者を通じてヨーロッパにもたらされたビニ=ベニンの象牙細工という意味)とも呼ばれヨーロッパ人の交易者が争うように求めたほど高度な水準に達していた。
ヨルバはブロンズ・テラコッタ彫刻以外にも木彫・染織工芸などに優れた才能を示しアフリカ有数の芸術民族として知られている。大きなアーモンド形の大きな目、小さなあご、(他地域の彫刻に比べて)写実的な描写などのヨルバ彫刻の特徴は周りの民族にも大きな影響を与え、エド/ベニンの彫刻にも色濃く受け継がれている。また、さまざまなことわざなどと意味する繊細な文様を染め抜いたヨルバの藍染布はアフリカの染め布の中でも最高級の評価を得ている。
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ハウサ特集は2012年2月27日をもって終了しました。
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