いにしえのバンバラ帝国の都セグーにて |
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〜マンデ系緒民族とは〜
マンデ系諸民族とはニジェール-コルドファン語族ニジェール-コンゴ語派マンデ語群に属する言語を母語とする民族集団の総称であり、西アフリカ一帯:セネガル、ガンビア、マリ、モーリタニア、ギニア、ギニア=ビサウ、ブルキナファソ、シエラレオネ、リベリア、コートジボアール、ガーナ、トーゴなどに広く居住する。
マンデ系民族に含まれる民族はバンバラ、マリンケ、ソニンケ、デュラ、マンディンカ、スス、メンデ、ボゾ、ボボ、ヴァイ(以上西マンデ諸語)、ダン、ビサ、グロ、ヤウレ、サモ(以上東マンデ諸語)、などである(他にも多数)。「マンデ」という語とよく取り違えられるがマンディングは西マンデ諸語に含まれる言語グループ(マリンケ、マンディンカ、デュラなどを含む)であり、マンディンカはマンディング語グループに含まれる言語名および民族名である(ややこしいことこの上ないがお間違いなく)。
マンデ系諸民族の内ある者は、アフリカ史に燦然と輝く大国ガーナ、マリ両帝国を築き、サハラ以南アフリカ最大の版図を誇ったソンガイ帝国の支配者となり、またある者は西アフリカ内陸に張り巡らせた広域交易網を通じアフリカ屈指の商業民族として名をはせた。西アフリカの歴史・文化に大きな役割を果たしてきたマンデ系諸民族とは一体どのような人々であったのだろうか?
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〜マンデ系民族の歴史・民族・社会〜
マンデ系民族の遠い祖先はサハラを含む西アフリカの最古の住民の一人であったと考えられている。紀元前2000年ごろにマンデの祖先が造ったと考えられる石造りの住居遺跡がモーリタニアの砂漠地帯で発掘されている。紀元前後に起こった同地域の乾燥化(サハラの拡大)によって、彼らの居住地域も南へと移っていった(現在のサヘル地域)。
紀元後7、8世紀(伝承によれば4世紀頃にまでさかのぼる)に西アフリカ最初の広域国家があらわれた。現モーリタニア、マリ領を中心として栄えたガーナ王国である。 ガーナの王はカヤ-マガン(黄金の君主)とも呼ばれ、この称号が示すとおり、領地のセネガル河流域で豊富に取れる金とサハラで採掘される岩塩の交易で(または南方の国の物資と北方の国の物資の交易の仲介業者として)莫大な利益を上げていた。サハラ縦断交易に立脚した最初の領域国家でもある ボボとデュラの街ボボデュラッソ。スーダン様式の大モスク
このガーナ王国を築いたのはマンデ系諸民族のひとつ
ソニンケであった。
11C半ば〜後期にかけてのベルベル人によるジハード(ムラービト朝の拡大)によってガーナ王国が崩壊した後、西スーダンは動乱の時代へと突入して行く。その中からいち早く頭角を現したのはセネガル川中流域に本拠を置くスス人(マンデ系)のテクルール王国であった。テクルールはスマングルという王に率いられガーナ王国旧領のかなりの部分を支配するなど強勢を誇ったが、1230年頃、カンガバの王スンディアタ=ケイタに破れ西スーダンの覇権を失った。その遺民は南へと移り現ギニア共和国を中心に居住する民族ススの祖となったと考えられている
テクルール王国を破ったスンディアタ=ケイタ(マンデ系マリンケ人の王)が建国したのがサハラ以南のアフリカ史上最も栄えた国とも言われるマリ帝国である。現在のマリ共和国、ギニアの版図を中心に、最盛期にはモーリタニア南部、セネガンビア地方も掌握したマリ帝国もやはり、領内で豊富に取れる金とサハラの岩塩の交換を基盤とするサハラ縦断交易の利潤により大いに繁栄した。帝国最盛期の皇帝マンサ=-カンカン=ムーサはメッカ巡礼の途中立ち寄ったカイロ(エジプト)で湯水のように黄金をばらまき、そのためカイロの金相場が何年にもわたって混乱したという。ニジェール河中流の交易都市トンブクトゥやジェンネは交易の利益で栄え、トンブクトゥにはサハラ以南最古といわれる大学が創立され、文化、経済の中心地として黄金の都とたたえられた(政治的な首都・王都ではない)。
14世紀後半からかげりの見え始めたマリ帝国の後を襲ったのがニジェール河中流の交易都市ガオに本拠を置くソンガイ帝国であった。名前のとおりソンガイ人(非マンデ系)中心の帝国であり、建国者スンニ=アリもソンガイ人であったが、 アリの死後1494年に高級軍人であったムハンマド=トゥーレ(マンデ系ソニンケ人)が帝位を簒奪した。彼こそがアフリカ史上最も広大な領地を統べたアスキア=ムハンマド皇帝である。アスキアはスンニ=アリの偉業を引き継ぎ、西スーダン中央部全域を支配する大帝国を築き上げた。彼の治世下でサハラ縦断交易は最盛期を迎え、帝国は空前の繁栄を謳歌し、以後ソンガイ帝国の皇統はムハンマドの子孫、つまりマンデ系ソニンケ人によって伝えられることとなった。
アスキア大帝の後数代の皇帝は国をよく治めソンガイ帝国は繁栄していたが、1580年代から内憂外患に悩まされるようになった。領内の諸民族の反乱が続いたところにサハラの岩塩鉱山とサハラ縦断交易の利権をめぐって北からモロッコ軍が侵入してきた。1591年3月モロッコ軍とソンガイ帝国軍はガオの北のトンディビで衝突。スーダンで無敵を誇ったソンガイ帝国の騎馬軍団4万騎も、火縄銃で武装したわずか4000人のモロッコ軍に蹴散らされ、ソンガイ帝国は滅亡した。ソンガイ滅亡後の西スーダンにはサハラ縦断交易に立脚した広域国家は二度と現れなかった。
ソンガイ帝国滅亡後の西アフリカ内陸部はいくつもの中小国家が興亡する動乱の時代を迎えた。ガーナ、マリ、ソンガイと続いた西アフリカの黄金時代を担ったマンデ系諸民族もまた,その
バンバラ帝国の都セグーにて 激動の時代の中いくつもの国家を建設することになる。主なものを挙げるとカアルタ王国(18C〜19C:マリ、モーリタニア)、カソ王国(17C〜19C:セネガル、マリ)、ガブ王国(16C〜19C:セネガンビア)、ケネドゥグ王国(17C〜19C:マリ、ブルキナファソ)、コング(18C〜19C:ブルキナ、コートジボワール)、ゴンジャ(16C〜:ガーナ)、セグー王国(17C〜19C:マリ)などがある。ゴンジャやコングはマンデ系商人の交易網の拠点に作られた国であり、これは西アフリカ内陸部の商業活動、交易網におけるマンデ系商人の重要性を物語っている。これらのマンデ系諸国の中でバンバラ帝国とも呼ばれたセグー王国は最大の国であり最盛期(18C半ば〜末)には西スーダン一の強国であった。
また19C末西アフリカ内陸部を舞台にフランス軍に徹底抗戦を繰り広げたサモリ帝国もデュラ商人出身のサモリ=トゥーレによって築かれた。
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マンデ系諸民族の中にはガーナ、マリなどの大帝国を築いてきたソニンケ、マリンケなどの民族もいれば、一方で民族として統一されたこともなければ大規模な社会組織(国)も持たずに暮らしてきた民族もいる。ニジェール河中流域の漁撈民ボゾやブルキナファソ西部に暮らす農耕民ボボはかつて国を持ったこともなければ民族全体の首長も持ったことがなく、魚を取ったり畑を耕したりして平和に暮らしてきた。
西アフリカ内陸部には古くから長距離交易網が張り巡らされ、サハラ縦断交易路を通じて北アフリカ、地中海世界とつながっていた。西アフリカ内陸部の交易網を掌握していたのがデュラ(マンデ系)とハウサ(非マンデ系)の二大商業民族である。マンデ系のデュラ人は古来商業に長けた民族として知られ、ワンガロ、ワンガラ、ウンガロスなどの名でアラブ、ヨーロッパの古い文献に登場し、ガーナ王国の昔からサハラ縦断交易におけるサハラ以南の主役として活躍してきた(デュラ人も一時サハラ越えに直接従事したこともあったがサハラ越えの主役はやはりベルベル、アラブ人たちだった)。
デュラ商人たちは西アフリカでいち早くイスラム化し、イスラムの商習慣を身に着けた彼らはサハラ以南の西アフリカ内陸部に信用取引による広大な交易網を築き上げた。デュラ商人たちは西ア バンバラ帝国の都セグーにて。ニジェール河に面した港。
フリカ内陸部の金、コーラの実などをサヘルの交易都市に運び、北からの商品すなわち、岩塩、銅、ガラス、馬などを西アフリカ内陸部に流通させたてきた。現在でも商人として活躍するものも多く、ハウサと並んでアフリカでも有数の商業民族として知られている。
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〜マンデ系民族の工芸・文化〜
サハラ以南アフリカ最古の織り布はマンデ系の民族によって織られたと考えられている。現在でもバンバラをはじめとするマリの泥染め(ボゴラン)、藍染めは、西アフリカを代表する布工芸品として広く知られている。
このようにマンデ系の民族は古くから手工芸・芸術に長けた民族として活躍してきた。金銀・青銅・鉄製品などの金属工芸から、上記の染織工芸、さらにはスーダン様式の泥モスクに代表される建築にいたるまでマンデ系諸民族の工芸文化を挙げていけば枚挙にいとまがないが、やはり彼らの芸術を代表する分野といえば木彫工芸・芸術であろう。
バンバラ、マリンケ、ソニンケ、メンデ、ボボ、ダン、グロ、ヤウレなどがマンデ系諸民族を代表する彫刻の名手たちであるがいずれもアフリカ(西アフリカ)屈指の芸術民族としてその名を知られている。その中でもマリに住むバンバラ人のカモシカをかたどった頭上面チワラはアフリカを代表する彫刻として世界中で有名である。またコートジボワールのダン人の彫刻、特にもてなしのスプーンと呼ばれる木彫りの儀礼用スプーンや、ポロという仮面結社の儀式に使われるシエラレオネのメンデ人の仮面などがよく知られている。
マンデ系諸民族、特にバンバラ、マリンケ、ソニンケの彫刻は直線的で堅牢、哲学的な印象をもつ。特に仮面において顕著なのが長く通った鼻筋、落ち窪んだ目等であらわされる哲学的な表情であり、これらの特徴はマンデ系民族を含む西スーダン(サヘル地域)の民族の彫刻にも比較的共通して見られる特色でもある。現在サヘル地域に住むマンデ系住民のほとんどがイスラムを信仰しているが、彼らの多くは同時に自らの伝統文化(仮面・彫刻を用いた儀礼文化)も保持し続けている。
また彼らの工芸を語る上で忘れてはならないのが、ボボ、バンバラに代表されるひょうたん工芸である。皮を削ったひょうたんの表面に焼きごてで繊細な文様(草花文様・幾何文様・動物文様など)を施したボボのひょうたん細工(ひょうたん容器:ボール・ひしゃくなど、ひょうたん楽器など)はアフリカで最も美しいひょうたん工芸品のひとつに数えられる。ひょうたんの表皮を削ったうえで、曲線を多用した文様を焼刻するこの手法は、私の知る限りボボ、バンバラ、ボゾなどのマンデ系民族の間にしか見られない。
マンデ社会の中で得意な地位を占めているのがグリオと呼ばれる世襲楽師集団である。「語り部」「吟遊詩人」と訳されることも多い彼らは、王国の歴史、系譜、有力な家系の歴史、褒め歌などその社会の出来事を時には楽器(コラ等)の音色にのせて語り、生活の糧を得る。グリオは大規模な王国が発展したマンデ系の社会において特によく見られ、この地域の伝統社会において特殊な技能を持つ職能集団(鍛冶屋など)と同様に、社会的には低い地位にあり、またその特殊技能によりある種の畏れをもって接せられる。ほぼ無文字社会であったサハラ以南のアフリカにおいて彼らの伝える伝承の重要性は高く、 カモシカをかたどった頭上面チワラ
一人のグリオの死は一つの図書館が灰燼に帰したに等しい。」とまで言われる。
今日伝統楽器をギターに持ち替えた(伝統楽器を使っているグリオもいる)現代のグリオ達がポップミュージックの世界に進出し高い評価を得ているが、今日でも西アフリカ各地で祝い事などの折にはコラを抱えた伝統的なグリオを見ることが出来る。
グリオが奏でる哀調を帯びたコラの調べの中には、西アフリカの歴史を紡いできたマンデの民の伝統が確かに息づいている。
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〜西アフリカの歴史を紡いできたマンデの民。
彼らの誇る多彩な伝統工芸の世界をお楽しみください〜
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マンデ特集は2011年2月末日をもって終了しました。
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